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第一章 猫 その1

   第一章 (カッツェ)


     1


 その泉は、プリムラという花の中に、息をひそめて隠れていた。『偶然』という言葉が存在するのならば、ワタシはその、『偶然』をもたらしてくれた存在に、感謝しなければならない。この世に楽園があるなんて、ワタシはまったく、信じて、いなかった、人生に絶望、しかけていたから、思わず涙したことを、云うまでもない。

 ワタシを牢獄からひと時ではあるけれど、解放してくれた、泉。

 しばしの安息を満喫しながら、牢獄に棲みつく住人たちのことを考える。

 時代の流れに取り残されたような、五人。異常な生活をもたらす彼らのことを、脳裏によみがえらせること自体イヤなのだけど、これからの傾向と対策を練らなければならない。


 父親の兄にあたるリヒャルトおじさんは寡黙(かもく)な人で、彼の声を、越してきてからまだ数回しか耳にしていない。言葉を発せないのではないかと勘違いしてしまうほどしゃべらない。おそらく、言葉を発することへの労力を、余分に持って、いないのだろう。


 寡黙……①必要なこと以外あまりしゃべらないこと ②口数が少ないこと ③クールと取られるか冷たいと見られるか、むずかしいこと


 リヒャルトおじさんとは対照的にフランシスカおばさんはいつも笑っている。風に吹かれて木の枝がサシャサシャ音を出すとその揺れ具合やらしなり具合が面白いと云ってすぐに笑い出す。寝起きに誰かの髪の毛がブサブサしていると笑い、くしゃみをしたらそのときの表情が変だと云って笑う。まるで笑うために生まれてきたような人だ。それは、度を(いっ)している。


 ワタシたちをこの屋敷に連れてきた老年の男性ザックスは、運転手兼使用人で感情を表に出さない人だけど、リヒャルトおじさんの云うことはなんでも聞く、しっかり者だ。だけど、森にある老木のようにシワだらけの表情は、変わらない、のでやっぱり変だとワタシは思う。もしかしたら、顔の筋肉が、もうコチコチに固まってしまっている、のかもしれない。どこからどう見ても、彼の顔は樹皮にしか見えないのだから。


 ザックスの娘であるマギーは、三十四歳の使用人。彼女は、ワタシたちの行動に次々と指示を出して、何もかもを、急がせ、本人も他の人の三倍くらい早く動く。ザックスの娘らしく、眉間に浮かぶシワが消えることはない。せわしなくて早送りな人だけど、この屋敷では、まともなほうだと思う。


 そしてもうひとり、ハンナというリヒャルトおじさんの娘がいるらしい。らしい、というのはまだ一度も眼にしていないからそう表現するしかない。むずかしい病気にかかっているようで、部屋から、一歩も出てこない。ワタシの三つ上で、十七歳だという。越してきて、もう一週間になるのに、話し声すら聞いていない。どんな病気なのか、何故、部屋から出ないのか、容姿はどうなのか、治るのか、本当に生きているのか、すべてが、謎。


 もうひとり忘れていた。ミカエルという大天使の名を授けられた黒猫。ミカエルはワタシたちの不安、哀しみ、悲観、心細さを無表情で受けとめてくれる。ワタシたちにとってキンスキー家唯一の理解者だろう。


 奇妙な住人たちが()む、森の中の屋敷に、ワタシはぜんぜんなじめなかった。これからもそれは変わることがないだろう。ふもとの学校への入学手続きが済むまで、いや、自立できる歳に成長するまで、ワタシはこの屋敷の、いいえ、狂人たちの、(とら)われ人なのだ。

 弟のティルの存在がせめてもの救い。もしも、ひとりっきりだったのならば、ワタシも、この屋敷に知らず知らず、取り込まれ、戻れなくなっていただろう。リヒャルトおじさんたちのように、何処か他の人と違う、存在に、変わり果ててしまっていただろう。

 息詰まる生活だからこそ、しばしの自由を与えられたとき、森へと逃避するのは当たり前だった。一歩間違えれば帰り道を見失ってしまうほどの深い森。どれほど走り抜けただろうか。そろそろ休憩にしようと考え始めたころ、突然、真っ暗な部屋のカーテンを開けたときのように、視界いっぱいに、広くて、明るい空間が姿を、現したのだ。

 太陽の光を反射する鏡のような水面は、まるで、自ら、発光するかのように輝いていた。周りには、極彩色のプリムラが生き生きと咲き乱れていて、みんな踊っている。ワタシもダンスに参加したい。久し振りの幸せを、満喫、したい。今だけは、現実を忘れたい。だって今は四月、もうそろそろプリムラたちはその美しい花びらを閉じてしまうのだから。そうだ、弟といっしょに、と、背後を振り返る――いない。

「ティル? 何所にいるの!」

 しかし、答えるのは、木々の隙間をぬう風の声だけ。楽園が、自然の脅威へとこの瞬間、変貌した。山麓(さんろく)まで何時間もかかるのだ、はぐれてしまうと、自分だけで探し出すのは不可能。リヒャルトおじさんたちの手を借りなければならないだろう。それだけは、避けたかった。だから何としても、ひとりで見つけなければ。

 ワタシは腰を上げ、来た道を戻った。

 もしも弟がいなくなってしまったら、ワタシは生きる希望を失ってしまう。心優しいティルは、ワタシの苦しみを、すべて、包み込んでくれる。苦しいときも悲しいときも笑顔で、包んでくれる。姉がそれ以上闇の中に進まないように、導いてくれる。

 弟の名を叫びながら眼がしらが熱くなってきた。好き勝手に伸びる木々や、ひねくれた枝で、手足を傷つけ、木の根に足を取られ、それでもワタシは、ティルの名を叫びながら森を駆け回った。いない。いるのは蝶や小さな昆虫や小鳥たちばかり。ワタシの焦りは頂点に達しようとしている。呼ぶ声が、震える。自分がどこをどう走ったのか、もうわからない。このままでは自分も迷子になるかもしれない、でも、弟がいなければ、このまま遭難してもかまわない、というようなことが脳裏をよぎるけどそんなことはどうでもいい。ティルを、なんとしても、弟だけは、助けなければ。

 足を取られた。大きく転倒した。チュリン、と世界が変形する。木々がざわめく。いつもは大人しい森の大地が、《さまざまな感情を爆発させている》。二時間ほどの映画を、一秒に短縮させたような混じり合い。ワタシは気がおかしくなってしまわないうちに立ち上がり、再び駆け出した。

 気がつくと、どうやらワタシは、森の中をぐるりと、一周していたらしく、再び眼前に自ら光を放つ、泉が、飛び込んできた。

 プリムラが咲き乱れるその中央に、ティルは、いた。

 視線の先には黄色い花びら。それをしげしげと見つめている。ワタシは息を切らせながら声を荒げた。

「心配させないでよ、もう。どこに行っていたの?」

「アムールお姉ちゃん、変な動物がいたんだ」

 くるくるとカールした金髪を風に揺らしながら、視線は下のまま、弟はそう云った。

「変な動物? え、小人?」

 気が動転していたワタシは誤らないことに叱るでもなく、そう答えていた。

「う~ん、ティル、それらしき生物は見つけられなかった。ごめんね」と、プリムラの中からワタシと同年代らしき少年が突然腰を上げた。

 ワタシは急いでティルの元へ駆け寄り、弟を背後に隠す。

「あなたは誰?」

 謎の少年はそれに答えるでもなく、ワタシの顔をまじまじと見つめている。

 ワタシは弟を引き連れて、ジリジリと退く。

「ああ待って大丈夫、怪しい者じゃないよ」

「本当だよ?」とティルが弁護する。「彼は迷子になっていた僕を助けてくれたんだ」

 弟の言葉にやっとワタシは胸をなでおろした。

「ボクはコンラート。ふもとの村に住んでいる。キンスキー家に食糧の配達の仕事をしているんだ。ちょうどその帰りに、ティルを見かけてね。君たちだね? あそこに越してきたというのは。じゃあ君は、アムールか。村で噂になっているよ」

 そこまで云うと、コンラートの人懐っこい眼が陰り、頬に広がるソバカスが涙のように見えた。声も張りをなくし、彼はこう述べた。

「どこから来たの?」「ミュンヘン」「そうなんだ。ところで、そろそろ一週間くらいになるだろうけど、変わったこととか、ない?」

 その言葉で、彼の顔色の変化の謎が、解けた。

 ワタシの気が滅入っているのは、住人たちだけのせいではない。やっぱり、あの屋敷には、隠されているなにかが、あるのだ、と見抜く、自分の《ちから》を信じた。


つづく

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