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第八章 そよ風

   第八章 そよ(ブリーゼ)


 大司教(エルツビッショフ)のお祈りを中断させるのは気が引けたが、どうしても彼に訊きたいことがあったので仕方がない。

 彼は大聖堂の中央で聖書を両手にかかえ眼をつむり、瞑想にふけっているところだった。わたしは空気の振動も起こさないように、静かに近づき、それからそっと語りかけた。

「新約ですか?」

 ここでわたしの存在に気づいたのか大司教はゆっくりと眼を開け手にしていた書物を小さく(かか)げた。

「旧約です」

 律法の書――モーセ五書とも呼ばれる民数記(みんすうき)だった。大小三十九の書からなる『旧約聖書』の一冊で、ギリシャ語翻訳版だった。

「もう一度、はじめから読み返しているのですよ。そして、まだまだ信仰心が足りないと反省していたところです」

 大司教の深いシワが哀しみの深さを物語っているように見えた。

「座りましょうか」

 わたしは大司教と肩を並べ、腰を下ろした。

「何か、お悩みのようですね?」と大司教。「すべてお見通しなのですね」「そんなことはありません、あなたがわかりやすいだけですよ」「顔に悩みという文字が刻まれているのですか?」「はははは」

 大司教は顔を正面に向けてイエス・キリストの像を見上げて十字を切り、言葉も切った。ステンドグラスからこぼれ落ちる(にじ)(いろ)が、大司教の顔のシワを七色(ななしょく)に変えている。

 わたしは彼を崇拝している。信仰心、敬神(けいしん)篤信(とくしん)、いずれも彼には遠く及ばない。

 両親が病死し、まだ幼かったわたしは翌日の朝日もおがめるかどうかわからないくらい衰弱していた。そのとき救いの手を差し伸べてくれたのが、ゲオルク大司教なのだ。そんな彼に……そんな彼だからこそ……今回の件をどう切り出そうか、わたしは悩んでいた。


 敬神……①神を(うやま)いあがめること ②キリスト教徒以外には魔法の言葉


 篤信……①信仰心の強いこと ②信仰の念の強いこと ③キリスト教徒以外には呪文


 考えた挙句、わたしは迂回することに決めた。

「イエス様の奇跡について、ゲオルク大司教のご意見をおうかがいしたくて」

「奇跡、ですか?」そこで視線をわたしに向けた。

「ええ。ガリラヤでの奇跡です」

「ガリラヤ……悪魔祓い、ですか」

「そうです」

「ふううう」と、大司教は大きく息を吐いた。その息吹で邪気を祓うかのように。

「とても、繊細な部分ですね」

 時代がかわれば、繊細でもなんでもなくなるのだろうが、もちろん、それは云わないでおいた。

「イエス様は、特に何も手をくだしていないのですよ」

「というと?」

「悪霊に憑かれていた少年は、地面に引き倒されたり痙攣(けいれん)したりと恐ろしい状況でした。そこで少年の父親がイエス様に悪魔祓いをお願いしました。

『おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください』

 その言葉を聞いた主は、

『《できれば》と云うか、信じる者には何でもできるのです』とお答えになりました。

 それが何を意味するのか。奇跡ではあるのだけれども、イエス様は特に何もしていないのです。その親子に少しだけお力添えをしただけ、信仰、という名の助言を」

 そう語られた言葉に、求めていたすべてが含まれていた。

 知りたかったのはふたつ。

 それから導き出される結論がもうひとつ。

 わたしは大司教に礼を述べ、腰を上げた。そこでわたしの背に、

「あなたにアドナイのご加護があらんことを」と大司教。

 わたしは振り返り、頭を下げて、大聖堂を後にした。


 カタリーナ事件の真相に、少しだけ近づいたという期待感にわたしは満ち溢れていた。

 事件解決に必要なのはたった三つの真実。消去法でひとつひとつ消して行けば、真相は向こうからやってくるだろう。


     ☆


 自分の部屋へ戻るとエルンストが眼を輝かせながら迫ってきた。彼の存在をほとんど忘れていたので少しだけ驚いた。

「それで! 大司教の許可は取れたのですか?」

 悪魔祓いの儀式は大司教の許可を得られなければ行えないのだ。わたしが大司教に会うと云ったとき、エルンストは儀式の許可を取りに行ったと勘違いしたのだろう。

「いえ、そういう話はしませんでした」

 え? と四角い顔を丸くさせるエルンスト。

「じゃあ、何をしに行ったんですか?」

「ただのあいさつですよ」

「ええ~! ゴットフリート神父、あなたはもしかして、カタリーナを見殺しにするわけじゃ」

「いえいえ、心配しないでください」

 今にも泣き出しそうなエルンストを安心させて、

「それでは、行きましょうか」

「え? もしかして、無許可で悪魔祓いの儀式を行うつもりですか? これが知れると破門されるかもしれないのですよ」

 今度はオロオロしだした。そんな彼に笑みを浮かべながらわたしは、

「カタリーナさんの家ではありません、まずは、フレデリックさんのところです」


     ☆


 フレデリックというのは五十を過ぎる独身の開業医で、郊外の静かな村に住んでいる。業界の人間には有名で、いくつかの本を出版しているし、腕もいいと評判だった。

 彼の医院に着いたのは水平線がオレンジ一色に染まったころだった。バロック宮殿であるヴュルツブルク司教館に寄りたかったのだけどそんな時間はなかったのでおあずけとなった。ティエポロの描いたフレスコ画や鏡の間を堪能したかったのだけれどそれもおあずけだ。このときばかりはエルンストのことを嫌いになりそうだった。

 フレデリックは教会ゆかりの人物で、わたしたちの来訪を快く受け入れてくれた。

 医院の二階が住居となっており、あと三十分ほどで診察は終わるというので、わたしたちはリビングまで上がり、そこで待つことになった。

 二十五分ほどして、フレデリックが現れた。

「お久し振りですゴットフリート神父」

「お久し振りです。お元気でしたでしょうか」

「ええ、この通りですよ。で、私にどういったご用でしょうか?」

 白髪が幾分ふえているが、肌のつやもよく、本当に元気そうだった。

 フレデリックはエルンストと対照的に顔が丸く、(ひたい)が大きく後退しているのだが髪が短いのであまり気にならない。清楚な感じを受ける優しそうな医師だった。眼鏡と自然に出る微笑により相手をリラックスさせる素質を備え持っている。

 わたしは初めて会うであろうエルンストを紹介して、それからさっそく本題に入った。

「わたしたちが訪れた理由というのは、おそらく、あなたの心を闇の底に落とすことになるかもしれません」

 フレデリックは、砂漠に浮かぶ厚い雨雲を探すかのように、視線を上空に漂わせた。

「やはりというか何というか」ここでわたしに顔を向けた。「ゴットフリート神父の姿を見た瞬間、覚悟はしていました」

「フレデリックさんお願いします!」

 今までじっと黙っていたエルンストが血相を変えて詰め寄った。

「カタリーナという少女はとても優しい心を持っているのです。花を愛し、母親を愛し、死んだ父親を想い、懸命に生きているのです。そんな少女を悪魔の手から救わなくてはなりません。それが、私たちの、神に仕えるものの、使命ではないでしょうか?」

 わたしは肩で息をするエルンストを落ち着かせて、

「フレデリックさん、そんなに気をはらずに来てもらえないでしょうか。ひとりの、医者として」

「ふう、わかりました。これも何かの縁ですからね」フレデリックは熱意に火傷しそうな顔をして、「同伴する医者は冷静でなければなりません、私なら、最適でしょう。しかし、これが最初で最後ですよ」

 ありがとうございます、とエルンストは泣きそうな顔でフレデリックの手を握った。

 それを見て、今度はわたしの上に、厚い雲が流れてきた。

 これで、もう、引き返せないな。あきらめと同時に窓の外を眺めると、優しい風が、草花を揺らしていた。


つづく

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