第七章 薔薇
第七章 薔薇
窓を開けても草花の香りと闇の色しか見えない。夕食を終え、いろいろなことが脳内を暴れまわりとても眠ることなどできなかった。地下室でティルは、何者かの言葉を聞き、最後に《妖精》と、云った。《小人》ではなかった。
ここにきて妖精の、存在、が急浮上してきた。姿を見てはいないけど奇妙で確固とした存在感を得た。
キンスキー家で暮らすようになって、不可思議な謎が次々とワタシの前に立ちふさがっている。あまりにも多すぎて、大海原の波のように一気に押し寄せてきて、何から手をつければいいのかワタシにはわからなくなってしまった。それと同時に、これらの謎は本当に解かなければならないのだろうか、と弱気になってきた。ワタシはずっと、この家にいるつもりなどない。ある年齢に達したら出て行くつもりなのだ。ここに居てはいけない、否、ティルの未来を健全なものにするためには、出て行かなくてはならないのだ。
だけどひとつだけ、どうしても放ってはおけない謎がある。
四日目の夜、両親がティルを迎えにくるらしい。つまり、明日の夜、ということになる。
ワタシはどうなるのだろう、ティルだけを連れていくのか。ワタシにはわからない。どちらにしても、ついて行くつもりもないしティルを連れて行かせるつもりもない。生きているのか死んでいるのかどっちつかずの両親にまかせるわけにはいかない。ティルの面倒はワタシがみる、そう誓ったのだから。
というわけで、ワタシは部屋を出た。うじうじ悩んでいても仕方がない。ワタシがいたら両親は姿を現さない。邪魔者は消える。そうすることで、先へ進むことが出来るのだ。
「今からハンナの部屋へ行ってくるね?」弟に云った言葉はもちろん建て前。
建て前……①表向きの方針 ②仕事場ではよく遭遇すること
「何をしに行くの?」ティルは『トムは真夜中の庭で』をベッド脇に置いてそう訊ねた。「もちろんハンナとの初対面よ」「僕も行く」「ダメ。初めて会うんだから大勢だとビックリするでしょ」「う~ん、わかったよ。僕のことも紹介しておいてね」「もちろんよ、ちゃんと伝えておきますからね」
本に眼を戻したティルを見守り、ワタシは外へ出た。
出たはいいけど、さて、どうしよう。
今日はコンラートも来ていないし、独りで遊技場に行くのもなんだか怖いし、本当にハンナの部屋へ行き扉に触れて過去を探ろうかしらと思い悩んでいるときにワタシの鼻をくすぐるものがあった。甘くて気品があって舌の根元でいつまでも漂っている香り。ワタシは知っている。なんだったか、どこかで嗅いだ事のある香り……ダメ、思い出せない。
まあいいわ、あきらめたところでハンナの部屋の前へ。触れるにしろ触れないにしろ、とにかく何か行動を起こそうと思った。
物音ひとつない。存在感すら皆無。聴こえてくるのは一階にある大時計の時を刻む音だけ。他には風の動く音すらない。ここまで離れると、ティルの存在感すら危うい。この世界にただひとり、ワタシだけが存在しているような錯覚をおぼえる。ティルとの絆すら感じられない。この屋敷の持つ、得体の知れないチカラの、せいだろうか。
ワタシはハンナの現状について、急に興味をおぼえた。この感情の浮上は空虚な心を満たしたい欲求からかもしれない。
腕が、ワタシの意思とは関係なしに伸びる。じっとりと手のひらに汗がにじんでいる。興味と恐怖、言葉は似ているけど意味は大きく違う。ワタシの気持ちはどっちに傾いているのだろう。今、心の中に渦巻いている感情はどれだろう。わからない。
キンスキー家に来てからというもの、わからないことだらけ。
ワタシは手を、引っ込めた、と同時に、ワタシの首筋がチクチクした。この感覚は覚えている。ワタシがご飯を食べないと云ったり学校なんか行かないと云ったりいろんなものを壊したり悪態をついたときに突き刺さった視線、父の眼……それだ。
ワタシは眼をしっかりと見開き振り返った。だけどランタンと薄闇と動かない空気だけしかない。
気のせいかしら、と再び扉に顔を戻したその瞬間、
「お姉ちゃん! 妖精。妖精が来たよ!」と叫びながらティルが部屋から飛び出してきた。
ちょっと、そんな大声だしたらおじさんたちが起きるでしょ、という不安はなかった。それよりも、《妖精》という言葉に反応し、ただそれだけがワタシの脳を支配していた。
「どこに?」
「部屋にいるよ!」
ティルがそばまで駆け寄ってきてワタシの腕を取り引っ張った。抵抗する理由はない。部屋の前へすぐに到着。いよいよ妖精さんとご対面! ドアを開けて室内を見回す。お花のお洋服を着て透明の羽をパタパタさせている妖精さん……は、どこにも居ない。
「どこ?」「あれ~どこに行ったんだろう」と、ティルは小さな頭をクルクル回す。窓は開いていてカーテンが優しい風によって揺れている。ベッドの上には乱れたブランケットがあり、ファンがティルの髪の毛と同じようにクルクル回っているだけで、妖精の姿はどこにもない。
ティルは窓際に走り寄り、「驚かせちゃったかな、きっと逃げたんだよ」と落胆した。
「残念ね」とワタシが励ますと、「待って!」
ティルがそう云って眼を伏せた。まるで立ったまま眠っているような状態でしばらく静止する。そしてすぐに次の言葉を発した。
「声が聞こえる……下? 地下室……うん、速くてよく聞き取れないんだけど、きっと地下室って云ってる。間違いないよ」
得心がいったのか、ティルは頷いてワタシの脇をすり抜けて部屋の外へと出て行った。
得心……①十分に承知すること ②納得すること ③仕事仲間に云っても『へ?』と返されること
☆
ティルは学校でいじめにあっているような節があった。
節……①樹幹の枝のつけ根のところ ②関節 ③あやしい箇所 ④ルビが振られていないと筋と間違えること ⑤ルビが振られていないと節となやむこと
一度、眼の下を紫色に変色させて帰宅したことがあった。母親がどうしたの? と訊くと、階段で転んだんだ、と答えたのだけど、階段で転んでそんなところに青あざを作るのは変でしょ、と思ったこともあったし、買った筆箱、バッグ、教科書を頻繁に紛失したり、しまいには家の高価な物がなくなっていたりした。本人はなくした知らないと答えて両親は納得していたのだけどワタシはそんなはずないと疑っていた。
結局、いじめにあっていたのかどうかは謎のままになった。両親が死に、ワタシたちは引っ越したのだから。
ティルはいじめにあっていた(かもしれない)ときと、あっていないときの態度や様子や言動が何も変わらないのでわかるわけがない。いつも明るく無邪気で活発だったのだ。
変わらない強さ。それはそれでいいと思うのだけど、さみしいと思う気持ちも同時にわき起こる。正直な話、頼ってほしかった。
ティルは、どんな環境に置かれても、ティルなのだ、と今は納得するしかない。だけどこのままじゃあ、彼は壊れてしまう。だからずっと見守り、導き、いつかはまっとうな人間に育ってほしい、とワタシは願う。
ワタシは弟の後を追い部屋の外へ出た。
頼りない明かりは、ティルの姿を浮かび上がらせていなかった。もう下へ降りたのかしら? とワタシは歩を急がせる。空き室を超えハンナの部屋を超えてリヒャルトおじさんたちの部屋の前に着いた。寝息やいびき、布のすれる音などいっさい響いてこない、ティルがあんなに騒いだのにもかかわらず、だ。
階段を降りると地下室への扉の前にティルの姿があった。彼はドアの前で途方に暮れている様子で、身体を左右に揺らしていた。
「開かないの?」「うん、どうやらカギがかかっているようなんだ。ねえお姉ちゃんもコンラートのように細い棒でピコンと開けられない?」「無理に決まってるでしょ」
ティルの横に並びトビラを押したり引いたりするけどピクリともしない。
「妖精はカギを開けて下へ行ったのかしら?」
「わからないよ。ちょっと待って」
ティルは眼を閉じて耳をドアにくっつけた。
「……やっぱり、下にいるよ。何か叫んでいるけどよく聞こえないや」
「コンラートは、今日は来てくれないかしら。まったく、大事なときに役に立たないんだから」
「あれ? お姉ちゃん、後ろからも……」
そう云ってティルは背後を振り返り、それにつられてワタシも視線を追った。
次の瞬間、闇が、はっきりとした意思を持って、ワタシの頭部を包みこんだ。
つづく




