第五章 復活 その1
第五章 復活
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父はドイツ人で高校の数学教師だった。ある日、マルティン・ハイデガーという青年のフライブルク大学卒業論文を読んで父は彼の支持者となった、思い込みの激しいちょっと変わったところのある人だった。彼は偉大なる哲学者だ、と豪語していたけどワタシにはわからない。そんな、どちらかというと偏執的な父の隣にいたのが母で、彼女は父親の良き伴奏者として、存在していた。
偏執……①偏った見解に固執して他人の言説を受け付けないこと ②片意地 ③変わり者 ④普通と思っている人も変わり者 ⑤人はみな変わり者
石頭の父親はちょっとしたことで声を荒げたり、物を壊したりしたが、その都度、母が優しい言葉で場をうまく調律していた。嫌な空気を瞬時に日常の空気に戻す母親を見て、ワタシは大きくなったらこうなりたい、と思った。だから、母親の出身地であるフランスに強く興味を持った。いつかは永住したいとも願った。
ある日の夜、ワタシは父親と口論になり、母親の制止も聞かず、家を飛び出した。行く当てなど、ない。とにかく遠くへ、父親の、領域、から出来るだけ離れられるところまで、ただそう考えて遠くまで、走った。今にして思えば、この癇癪――ヒステリーを起こさなければ、運命は大きく変わっていたのかもしれない。
ワタシが家を飛び出した日、両親は他界したのだから。まじめに勉学にはげみ、交友関係をしっかりと選び、大人しい性格だったのならば、両親は死なずに済んだかもしれない。あのとき、両親とティルの三人で外食に出かけずに済んだかもしれない。
親の死は、ワタシのせいなのだ。
後部座席に座していたティルは奇跡的に生還した。頭を打っただけで済んだ。道路を横断中の父娘を撥ね、そのままスリップしてガードレールを破壊して数十メートル下の崖の下に落ちたにもかかわらず、ティルは無事だったのである。もちろん両親は即死。葬儀の日、牧師さんは、両親がティルを守ったんだろうね、と諭すように云っていたけど、本当にそうなのだろうか。ワタシにはわからない。
両親が死んで三週間と数日、奇妙な屋敷に住んでいるからこそ、ワタシは初めて、ティルと、面と向かって死を受け入れる準備をするべきだ、と考えたのかもしれない。
『トムは真夜中の庭で』を穴があいてしまうのではないかと思うほど熱心に読んでいる弟に対し、邪魔しちゃ悪いと感じたけれど、ワタシはその手を止めさせた。
弟は明らかに不満の色を見せたけど、ワタシはかまわず話しを始めた。
「ティルは妖精って居ると思う?」「子供じゃないんだから。お姉ちゃんってバカだな~」バカと云われてワタシは驚いた。「世の中には不思議がいっぱいあふれているから妖精くらい居てもおかしくないんじゃない?」「やっぱり倒れてお姉ちゃんは変になってしまったんだよ」ティルは困ったように眉をハの字に曲げた。もういい、とワタシは憤慨し、これ以上続けるとケンカになりそうだったので話題を変えた。
「じゃあ、幽霊は?」
ティルの視線が浮遊するたんぽぽの種を追うように動いている。ワタシは辛抱強く待った。やがて、彼の視線がワタシの眼を発見した。
「わからないや」「でも……」と言葉に詰まると、ティルは真剣な面持ちで続けた。「気づいていたんだね。そうだよ、お父さんとお母さんが毎夜、遊びに来るんだけど――」「だけど?」「幽霊とは思えないんだ」
それは両親の死を受け入れられてない、ということになるのだろうか。
弟はまだ十歳。サンタクロースを信じていてもいい年頃だ。それなのに幽霊と会話をしているのに幽霊はいないと云う矛盾。この歪みを、修正しなければならないのか。それとも、そのまま時間に身をまかせるべきか。ワタシは頭を悩ませた。
矛盾……①同一の命題が肯定されると同時に否定されること ②あまり連発すると他人の信用を失うこと
「だって、お父さんとお母さんは、ちゃんと、触れるんだから」
両親は、ワタシがいるときにはあらわれてくれない。かならず、ティルがひとりきりのときに、何所からともなく、やってくる、のだ。
ワタシ自身、特別な力を持っている。だからティルが特殊な何かを持っていても別に驚かないのだが、それでもやっぱり、疑いの気持ちを完全に断ち切ることは出来ない。
ティルのことを全面的に信用するとなれば、両親は死んでいない、ということになる。でもそれはあり得ない。父は頭がい骨陥没で脳髄が半分以上そとに飛び出していたのだし、母はあごが何処かに行ってしまっていた。遺体安置室で、白いベッドに同化するような色で横たわる両親を見た。スチール製の氷のような肉体に触れた。ふたり揃って埋葬されるところも見守った。
生きているはずがない。
「ワタシも、お母さんたちに会いたいな」と、つぶやいてみるが、ティルはすでに本へと眼を移していて、何も答えてはくれなかった。
つづく




