序章 音
妖精屋敷に棲む姉弟
精神を病み
自分が自分でなくなった場合
それもヒトツの死、とは云えないだろうか
『ドイツのとある敏腕精神科医のぼやき』
序章 音
人間はもとより虫たちも寝静まったころ、弟の部屋から話し声が響いてきた。それはとても小さな音だったのだけど、ワタシはその微生物が這うような音で、ふと眼を覚ました。
弟の部屋からはときどきこうやって、誰かと言葉を交わしている音がする。ぼそぼそとしゃべっているので内容までは聞き取れない。お父さん、お母さん、と断片的ではあるけど、そういう内容が聞こえてくるのでワタシは誰としゃべっているのかを理解した。どうやら夜遅くに、弟は両親と会話をしているようだった。
両親は、二週間前、交通事故で死んでしまったというのに。
この日の夜は、弟の様子がいつもと違っていた。普段はおだやかに談笑し、やがて眠りにつくのだが、会話の途中、弟の声が急に険しさを増したのだ。それは、叫びにも近かった。だからはっきりと、まるで壁なんて元からないように、会話が届いてきた。
「いやだよ」「なんでだよ」「どうにかならないの?」「アムールもいっしょだよね?」
死んだ両親との会話にはそれほど《驚かなかった》ワタシだけど、この言動には不安をおぼえた。何故ならば、家が、壁が、床が、ベッドが、まくらが、机が、えんぴつが、書棚が、お洋服が、ぬいぐるみが、いっせいに、《さみしさに包まれ泣きだしたから》
弟の謎の言動は、翌朝、判明した。
ザックスという老年の紳士が、馬車をワタシたちの家の前に停めて、しわがれた声で叫んだ。
老年……①老人となった年齢 ②六十歳以上をさすことが多い ③他人に云われても気にならなくなったら老年
「私はザックスと申します。あなたたちの叔父にあたる、リヒャルトさまの命により、迎えに来ました。さあ出発しましょう。ご主人さまは非常に時間にうるさいのです。五分で用意を済ませ、すぐ馬車に乗ってください」
リヒャルトとは確かに叔父の名だ。両親の一年目の結婚記念日に、一度だけ会ったことがある。性格や外見などほとんど覚えていないが、名前だけはかろうじて脳の底に残っていた。
彼は馬車から下りて、『セイヨウハコヤナギ』という木のように直立していた。『セイヨウハコヤナギ』は風に葉がそよぐと涼しげで心地よい音をさせるのだけど、紳士の声はとても心地よいとは云えなかった。地面の底から浮上してくるような居心地の悪い声だった。
少しだけ疑心があったので、弟を家に残し、ワタシだけが彼のもとへ。
ザックスという男性は、ワタシが近づくと、無表情のままスーツの内ポケットから一通の手紙を取り出した。
《私たちにもしものことがあった場合、リヒャルトよ、娘たちを頼む》
間違いなく父親の字だった。
「リヒャルトさまは、お兄さまの遺言を守るために、腰をあげたのです」
それを受け取ったことにより、ワタシたち姉弟の運命が狂いだす。
恐怖と幻想の時間が、やってくる。
両親との思い出、十四年間の愛、姉弟ゲンカ、夫婦ゲンカ、病、そして、事故。
楽しさと苦しみ、思い出がいろいろ詰まったこの家が、旅立つ直前、《哀しみの底に沈んでいた》
印象派の画家が描いたような山脈が白いビロードをまとって遠くに浮かんでいる。白い王冠をかぶった山がワタシたちを見下ろし、清涼な風を運んでくる。
ワタシは眼を細めながら山へお別れを云った。今まで、本当にありがとう。あなたの姿を見るたびに、安らぎを得ることができました。
早くしてください、というザックスに促されて馬車へと足を踏み入れた。そのとき、しくしくという《泣き声》、行かないでという《悲鳴に近い哀願》を聞き、心が張り裂けそうだった。
先に乗っていた弟に笑顔を返し、それからザックスに向かって、行きましょう、と告げた。
つづく