プロローグ その男の名
岩肌の目立つ高山地帯。周りには木が少なく、草原か岩が広がっている。そこで、少女はブロンドの長い髪を振り乱して魔物から逃げていた。靴は片方脱げ、その足の裏は擦り切れ、血と土がこびりついている。後すこしで父のいる家へ帰れる。そうしたら魔物など父が退治してくれるのだ。そうして希望を胸に抱き、後ろからついてくる魔物から必死で逃げる。魔物は「ゴアト」とよばれる太ったネズミのような魔物で、大きさは少女より一回りほど小さいが、非力な少女ではゴアトにはかなわず、食い殺されてしまうだろう。ゴアトは普段は腐肉を貪るが、時たまこうして自分より弱い動物を襲うこともある。狡猾で鈍足なのが特徴のその魔物は、それゆえ中々少女に追いつけないでいた。
「ハッ……ハッ……もう……ダメ!」
少女はもうゴアトから逃げる体力は残っておらず、ゴアトもまた前歯をむき出しにして少女に襲いかかる準備をする。ゴアトは勝利を確信し、少女の足に飛びかかろうとすこし屈んだ。その時だった。
「シッ!!」
高速で放たれた矢は吸い込まれるようにゴアトの首に命中、首の骨を砕いても勢いは止まらずそのまま貫通、ゴアトを反転させた。少女は後ろからかけてくるもう一つの足音に気がつき、振り向いた。そこには矢がささり絶命したゴアトと、羚羊に乗り、こちらに近づいてくる旅装の男だった。不思議なことに、弓は持っていなかった。
「怪我はないかい?お嬢ちゃん」
「え……あ、はい。助けていただいてありがとうございます。」
「そうか……って足怪我してるじゃないか!」
そういうと男は羚羊から降りて、サドルザックから何やら取り出すと、少女の足の具合を見た。その頃には少女は腰が抜けて自然と足を向けていた。
「うん、これくらいなら消毒して血止めすれば大丈夫だな。」
男は懐から水筒を取り出し、水をかけて足を洗うと、実に手際よく緑っぽい軟膏を塗り、高級そうな布を巻いてくれた。さすがにそこまでされると少女もなんだか申し訳なくなる。
「あの……こんな高そうな布を巻かれても、私お金持っていないです。」
「ハハハ、大丈夫だよ。金はとらないさ、よっ……と。」
「あわわ、ちょっと!」
男に持ち上げられ、お姫様だっこされた少女は、恥ずかしくなって男の腕でもがいた。
「おいおい、暴れるなよ。いまから君を送ってあげるんだから、おとなしくしててくれ。」
「いや、でも悪いです。自分で帰れますよ。すぐそこですから。」
「その足で何言ってんだ。おとなしく送られろって。」
少女は諦め、おとなしく羚羊にのせられる。くらにまたがると、羚羊は嬉しそうに鳴いた。人懐っこい羚羊と、初めて乗る感覚に少女はすこしたじろぐ。馬には乗ったことがあったが、それよりも若干乗り心地が悪い。馬と同じような体格なのに、かなり違う。その年頃の子供らしく様々な事が新鮮で、頭をいろいろな思考がかけめぐる。
「さっそくルアに懐かれたみたいだな。人懐っこいだろ?ゼバックスに乗るのは初めてか?」
「はい……暖かくて、触り心地がいいです。」
少女は自分がまたがるゼバックスとよばれる羚羊を撫でる。河原毛はサラサラしていて、非常に触り心地がいい。ゼバックスは体全体が河原毛色で、目の部分だけが黒い。2本の角とウシとヤギを足して割ったようなその体格は、彼女がこの土地で目にする羚羊よりも遥かに大きかった。
「で、君の家はどっちの方角かな?」
「あっちです。」
少女が指さした方角には、そう遠くはない位置に数件家屋が立ち並んでいる。
「それじゃいくかな」
少女に気を使っているのだろう。男は自分はゼバックスに乗らず、手綱を引いて少女に負担が掛からないように、ゆっくりと少女の家の方角に歩き出した。
「あの……お名前聞いてもよろしいでしょうか?」
「ああ、名乗るのが遅れたな。俺はソウタだ。こっちは相棒のルア」
名前を呼ばれたゼバックスは、嬉しそうに鼻を鳴らす。
「俺は、この世界を旅してんだ。こいつを作ってる。」
男が見せてくれたのは、質の良い紙に書かれた、ここいら一帯の地図だった。
ゼバックスは魔物の一種です。羚羊とはウシ科から、ウシとヤギを除いたものの事です。オリックス属の動物に近いと思ってください。