第1話:雨と洗剤と、ひみつの博多弁
キュッ、とバッシュが床を鳴らす甲高い音が、放課後の体育館に響いている。
ゴミ捨てに向かう渡り廊下から、少しだけ開いた体育館の扉の隙間が見えた。
宙を舞うように跳躍したポニーテールの少女が、滑らかなフォームからシュートを放つ。ボールは綺麗な放物線を描き、リングに一度も触れることなくネットを揺らした。
氷室柚葉。
一年生ながら女子バスケットボール部のレギュラーにしてエース。すらりとした長身に、誰に対しても感情を見せないクールな美貌。彼女につけられた「氷の姫」という異名は、この学校に通っていれば嫌でも耳に入る。
同じクラスでありながら、俺が彼女と交わした言葉はゼロだ。住む世界が違う。彼女は光の当たるコートの真ん中で躍動し、俺は静かな図書室のカウンターで本の貸出処理をしている。
それが当たり前で、これからも交わることのない平行線だと思っていた。
あの大雨の日の、夕方までは。
「……いらっしゃいませ」
実家が経営する古びたコインランドリー。店番をしながら文庫本を読んでいた俺は、自動ドアが開く音に顔を上げた。
梅雨特有の、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨。湿めったアスファルトの匂いと一緒に、一人の客が駆け込んでくる。
「っあー、もう最悪……。なんでこげな日に限って洗濯機のごと壊れるとよ……」
ブツブツと文句を言いながら入ってきたのは、小柄な……いや、ダボダボのグレーのスウェットを着ているせいでそう見えるだけの少女だった。
髪は適当なゴムでルーズなお団子にまとめられており、顔の半分を覆うようなべっ甲の丸メガネをかけている。手には、パンパンに詰まったIKEAの青いランドリーバッグ。
「もう、ばり濡れたやん……。乾かすのに何分かかるとこれ。ほんと疲れとーとに……」
彼女は俺の存在に気づいていないのか、それとも気にしていないのか。濡れた肩をタオルで拭きながら、乾燥機の前で盛大にため息をついた。
その、ひどく聞き馴染みのないイントネーションに、俺は思わず本から目を離した。
博多弁だ。それも、かなり自然で砕けた感じの。
東京の端っこにあるこの街では、あまり聞くことのない方言。
「あの、お客さん」
「……んぇ?」
乾燥機の使い方がわからないのか、硬貨の投入口を睨みつけていた彼女に声をかける。
彼女はビクッと肩を揺らし、振り返った。
丸メガネの奥にある、少し吊り上がり気味の大きな瞳。
スッピンのせいか学校より幼く見えるけれど、その整った顔立ちは見間違えるはずがなかった。
「……ひむ、ろ?」
「……え?」
乾燥機の低い駆動音が響く店内で、時間が止まった。
氷室の目が、これ以上ないほどに見開かれる。彼女の視線が、俺の顔と、俺が着ている制服のズボンを往復した。
「あ、あんた……遠野、くん?」
「……うん。ここ、うちの実家の店で」
氷室の顔が、みるみるうちに沸騰したように赤く染まっていく。
学校では決して見せない、動揺しきった表情。クールなエースの面影はどこにもなく、そこにはただ、見られたくない私服姿を見られてパニックに陥っている等身大の女の子がいた。
「ま、待って! なんでここにおると!? 嘘やん、最悪……ばり恥ずかしか……!」
「あー、ごめん。見てない。何も見てないから」
「絶対見とったやん! お願い、誰にも言わんで! 学校の奴には絶対言わんでね!?」
大きなランドリーバッグで自分の体を隠すようにしながら、氷室が涙目で詰め寄ってくる。
その必死な姿が、なんだか可笑しくて、俺は思わず小さく吹き出してしまった。
「……何笑いよーと」
「いや、氷室ってそんな喋り方するんだなって。怒ってても博多弁だと、あんまり怖くないな」
「っ〜〜〜! 違うと! 家族と電話した直後やけん、訛りが抜けとらんだけで……! ああもう、穴があったら入りたか……!」
彼女はランドリーバッグに顔を埋め、しゃがみこんでしまった。
洗剤の甘い香りと、雨の匂いが混ざり合う。
それは、体育館のヒロインが、俺の隣でただの「柚葉」という少女になった、最初の瞬間だった。




