婚約破棄?結構です。義妹に騙された新婚約者様と利害一致したので、論理的に復讐させていただきます。
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「エヴァリーナ・フォン・シュヴァルエンベルク! お前との婚約を、今この場で破棄させてもらう!」
私の婚約者であるエドゥアルト王太子殿下が、朗々と、まるで舞台俳優のように叫ぶ。
シャンデリアの光が宝石や絹地に反射し、きらびやかな残像を描く王太子主催の夜会。社交という名の戦場で、誰もが優雅な微笑みの仮面を貼り付けている。その仮面の中心で、今、ひときゆかいな茶番劇が幕を開けようとしていた。
喧騒が嘘のように静まり返り、すべての視線が私――シュヴァルエンベルク公爵家のエヴァリーナに突き刺さる。殿下の隣では、私の愛らしい義妹、フィオナがはらはらと涙をこぼし、か弱い小動物のように震えていた。
「ここに真実の愛がある! 私はフィオナを、お前の冷たい心から守ってみせる!」
「まあ、王太子殿下……。お姉様を追い詰めるつもりはなかったのです。私が、私が身を引けば……うぅっ」
(我が義妹ながら、相も変わらず見事な役者っぷりだこと。その涙は一体どこの井戸から汲み上げているのかしら)
内心の毒舌を完璧な無表情の下に隠し、私はゆっくりと口を開いた。感情的な糾弾を期待する周囲の好奇の視線が、少しだけつまらない。
「王太子殿下。そのご決定は、陛下、すなわち王家の正式な承認を得たものでしょうか?」
「な……っ?」
「また、我がシュヴァルエンベルク公爵家との長年の関係、ひいては隣国との安全保障条約に与える影響は、当然ご考慮の上でのご発言でいらっしゃいますね?」
立て続けに事実確認をすれば、殿下は「愛にそんなものは関係ない!」などと、およそ次期国王とは思えぬ返答を絞り出すのが精一杯だった。予想通りの反応に、内心でため息が漏れる。この国は、本当にこの方を次代の王に据えるつもりなのだろうか。
混乱が頂点に達したその時、重々しい声が場を制した。
「そこまでだ、エドゥアルト」
現れた国王陛下は、その場の全員を臣下の礼へと導く威厳を放っていた。陛下の冷徹な視線が、狼狽える息子と、その傍らでさらに涙の量を増す我が義妹を射抜く。
しばらくの沈黙の後、下された裁定は、ある意味で予想通り、そしてある意味で予想外のものだった。
「エドゥアルト。貴様の婚約者は、一旦そのフィオナとすることを認めよう。だが、聞き分けのない痴情のもつれで、王国の大黒柱たるシュヴァルエンベルク公爵家との関係を損なうわけにはいかん」
陛下の視線が、私へと移る。
「エヴァリーナ嬢。其方には、ヴォルフガング辺境伯、ダミアンとの新たな婚約を命ずる。これは王命である」
ダミアン・フォン・ヴォルフガング。 王国の北方を守る辺境伯。戦場での冷徹な指揮ぶりと、社交界に一切顔を見せないことから「冷血伯」と揶揄される人物。そして、私の記憶が正しければ――数年前、フィオナの「可憐な魅力」の犠牲になった貴族子息の一人。
(厄介払い、というわけね。しかし、これは面白い手札になるかもしれない)
周囲が同情やら嘲笑やらをないまぜにした視線を向ける中、私はただ静かに、恭しく頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
私の復讐劇の第一幕は、こうして王命という形で、強制的に幕を開けたのだった。
◇ ◇ ◇
数日後、王都にある辺境伯の屋敷で、私とダミアン・フォン・ヴォルフガングは初めて顔を合わせた。黒髪に、冬の湖を思わせる灰色の瞳。彫像のように整った顔には、噂に違わぬ冷ややかな空気が張り付いていた。
儀礼的な挨拶もそこそこに、私は単刀直入に切り出した。
「辺境伯様は、私の義妹フィオナと親交があったと伺っております」
「……どこまで知っている?」
フィオナは、質実剛健なダミアン辺境伯に粉をかけたことがある。今回のように、無害で無力な小娘を演じて。根っからの武人肌で社交界の流儀に不慣れだったことも手伝って、義妹の名演ぶりに辺境伯はまんまと騙された。そして、半年後には「洒落を解さぬつまらない男」と、別の貴族子爵に乗り換えられた。彼が社交界から距離を置いて実務に没頭するようになり、『冷血伯』と呼ばれるようになったのはそれからだ。
辺境伯の灰色の瞳は、わずかに見開かれていた。感情の動揺というよりは、純粋な驚き。しかし、彼はすぐに状況を理解したようだった。さすがは北の知将、と言ったところだろうか。
「……座られよ、公爵令嬢」
勧められるままソファに腰を下ろすと、彼は私の真意を探るように、静かに口を開いた。
 
「何が望みだ?」
「誤解なきよう念のために申し上げておきますが、今回の顛末はもちろん、私と義妹の関係を辺境伯様はすでに調べ上げているのではありませんこと?」
「……ふむ」
「私が提案したいのは、『共闘』です。利害の一致による」
私は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
「これは契約書の草案です。内容は、『偽りの婚約者として互いを守り、エドゥアルト王太子とフィオナを完全に失脚させた後、円満に婚約を解消する』。いかがでしょうか?」
ダミアンは草案に目を通すと、初めて口の端に微かな笑みを浮かべた。それは嘲笑ではなく、同類を見つけた者の笑みだった。
「面白い。実に合理的だ」
彼は頷くと、執務机の引き出しから分厚い調査書の束を取り出した。
「ならば、こちらが私の誠意だ」
差し出されたのは、フィオナの素行調査報告書だった。彼女が王都に来てから、いかにして複数の貴族子息を手玉に取り、彼らの心を弄び、破滅させていったかが、詳細な証拠と共に記されていた。
(素晴らしい情報収集能力。社交界では道化同然に扱われていた裏で、これだけのものを集めていたとは)
「私の持つ社交界の人脈と、なにより個人的に知り得る義妹の情報を組み合わせれば、もっと強力な武器となりますわ。曖昧とされている案件を補強する証拠も、これらの報告書に記されていない醜聞も、姉という立場上、よぉく存じております」
「なるほど。まさに利害の一致……か」
こうして、王国で最も冷たいと噂される男女の、秘密の共闘契約は静かに締結された。
◇ ◇ ◇
次なる舞台は、侯爵家主催の夜会。案の定、王太子とフィオナは、私たちを格好の餌食と定めていた。
「まあ、ダミアン様がお可哀想。愛のない政略結婚を強いられて……」
「あの氷の令嬢に、きっと心を閉ざされているに違いないわ」
「エヴァリーナ嬢も、エドゥアルト殿下に続いて、男を不幸にしてばかりの女ねえ」
フィオナが同情的な令嬢たちに囲まれ、さも悲劇のヒロインであるかのように振る舞う。その様子を冷ややかに見つめていると、不意に現れたダミアンが私の手を恭しく取った。しばらく社交界から遠ざかっていた『冷血伯』の登場に、貴族たちの注目はフィオナから彼へと完全に移る。
「皆様、ご紹介いたします。私の婚約者、エヴァリーナです」
彼の声に、周囲のざわめきが収まる。ダミアンは私の手を取り、集まった人々に向かって、はっきりと宣言した。
「彼女の知性こそ、私の領地──国防のため、厳格な判断を求められる辺境領において、最も必要とされるものだ。表面的な愛よりも深い尊敬で、我々は結ばれている」
その言葉は、貴族の本分は社交よりも政治になる、と示す計算され尽くした一撃だった。感情論に終始する王太子とフィオナの関係が、途端に幼稚で薄っぺらいものに見え始める。理知的で対等なパートナーシップ。王都の社交界が初めて目にするその関係性に、人々は畏怖と興味を抱き始めたのだ。
そして、私たちの仕掛けた次なる罠が、静かに作動し始めていた。
◇ ◇ ◇
王太子がフィオナの甘言に乗った、という報告がダミアンからもたらされたのは、それから数日後のことだった。
「辺境伯領への予算を削減し、代わりにフィオナ嬢の実家である伯爵家へ回す議案を提出したそうだ」
「まあ、素晴らしい報せですわね」
「ああ。我々が事前に流布した、伯爵領の鉱山開発という偽情報に、見事に食いついた。出所の怪しい情報の裏を探るのは定石だが、一介の『女優』には荷が重かったか」
国防の要である辺境伯領の予算を削り、私的な感情で国庫を動かす。これがどれほど愚かなことか。王太子は自ら、その無能さを証明してくれたのだ。王家の財政に実質的な損害を与え、北の守りを担う貴族たちの反感を買うという、致命的な失策。チェックメイトまでの道筋は、もはや明確に見えていた。
私とダミアンは、揃えた証拠を手に、国王陛下と宰相に謁見を求めた。提示したのは、王太子による国益を損なう予算案の決定稿と、その判断材料がフィオナからもたらされたことを示す金の流れ、そして彼女が過去にも複数の貴族の子息を同様の手口で破滅させてきた事実を綴った、分厚い調査報告書だった。
◇ ◇ ◇
玉座の間には、私たちと国王陛下、宰相、そして緊急で召集された王太子とフィオナだけがいた。
「エドゥアルト、フィオナ。何か申し開きはあるか」
陛下の地を這うような低い声に、フィオナはいつもの手を使った。床に泣き崩れ、か細い声で叫ぶ。
「そ、そんな……罠です! すべては、エヴァリーナお姉様が私を陥れるために仕組んだ罠なのです! 陛下、どうか真実の愛を信じてくださいませ!」
(まだその茶番を続けるのね)
だが、その涙はもはや誰の同情も引かなかった。私が冷静に一枚の帳簿を突きつける。
「では、フィオナ。この金の流れをどう説明なさいますか? 王家から伯爵家に流れた資金が、複数の宝飾店やドレス店に、あなたの個人名で渡っておりますが」
フィオナの顔から血の気が引いていく。王太子は狂ったように彼女を庇おうとしたが、その弁明は支離滅裂で、自身の無能さをさらに露呈させる結果にしかならなかった。
かくして社交界で連日人気の演目、名女優フィオナ主演の悲喜劇は、幕引きを迎えようとしていた。
◆ ◆ ◆
国王は、もはや何の感情も浮かんでいない目で、息子と、その隣で震える女を見下ろしていた。憐憫も、怒りも通り越し、そこにあるのはただ、王としての冷徹な判断だけだった。
「エドゥアルト。貴様の王位継承権を剥奪し、王籍からの離脱を命ずる。未来永劫、王宮への出入りを禁ずる」
「そ、そんな……父上!」
「フィオナ。其方の家は爵位を剥奪の上、領地は没収。其方自身は北の修道院へ送るものとする。そこで生涯、神に仕えよ」
すべては決した。彼らが求めた「真実の愛」は、すべてを失うという形で結末を迎えた。もはや、何を言っても遅いのだ。完璧な連携で勝利を収めたエヴァリーナとダミアンは、静かに玉座の間を退出した。目的は、達成された。しかし、その胸の内には、契約の終わりがもたらす一抹の寂しさが、静かに芽生え始めていた。互いへの感情が、単なる「共闘者」という言葉では収まりきらないものに変化していることを、二人は自覚し始めていた。
◆ ◆ ◆
辺境伯邸の執務室。この場所で、私たちは作戦を練り、情報を交換し、勝利を確信した。そして今、すべてが終わったこの場所で、最後の交渉を行おうとしている。
テーブルの上には、私たちが最初に交わした共闘契約書が置かれていた。
「これで、契約は完了です。事前の取り決め通り、円満に婚約を解消いたしましょう」
私は、努めて冷静にそう切り出した。これでいい。これが、私たちの関係の始まりであり、そして終わりなのだから。
しばしの沈黙が、部屋を支配する。先に口を開いたのは、ダミアンだった。
「一つ、新しい契約を提案したい」
そう言って、彼は新しい契約書を私の前に差し出した。そこに書かれていたのは、私の予想を遥かに超える一文だった。
『人生の共演者として、互いの利益と幸福を追求する』
私は驚きに目を見開いたまま、彼の顔を見つめた。彼の灰色の瞳には、いつもの冷静さに加え、確かな意志の光が宿っていた。政略でもなく、王太子たちが叫んだような激情の愛でもない。静かで、理知的で、そして何よりも深い信頼に満ちた光。
(ああ、この人となら)
この人となら、王都の欺瞞に満ちた社交界よりも、厳しくも実りの多い北の地で、対等なパートナーとして生きていける。互いの有能さと人間性を認め合い、支え合っていく。それは、私がずっと心のどこかで求めていた、新しい形の幸福なのかもしれない。
込み上げてくる微笑みを隠さず、私はその手を取った。
「謹んでお受けいたします、私の終生の共演者……」
私たちの新しい契約は、こうして静かに、そして確かに結ばれたのだった。
 




