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薄闇の檻

作者: 耀海紫月



「君を一生守るよ」


 アーサー・フォン・クレメント侯爵子息がそう囁いたのは、私が十五の頃だった。冬の初めの庭園。降り始めた雪を見つめながら、私たちはそっと手を重ねていた。


「……本当?」


私は不安げに彼を見上げる。私の家では、父が妾の女に溺れているという噂が流れ始めていた。母の表情は日に日に曇り、家の雰囲気も重くなっていた。


そんな中、アーサーだけが私の支えだった。


「もちろんだよ。君が何を失おうと、僕はずっと君の味方だ」


 その言葉に、私はどれほど救われたか知れない。


「アーサー……」


 彼が優しく私の手を握る。


「君がいれば、僕はそれでいい」


 そう言って、彼は私の額にそっと口づけを落とした。

 ――あの頃は、彼が私を裏切るなんて、夢にも思わなかった。



ーーー



 すべてが崩れ始めたのは、それから数ヶ月後。


「お前にこの家にいる資格はない」


父はそう言って、母を屋敷から追い出した。貴族の正妻でありながら、男児を産めなかった。それが彼女の「罪」だった。

代わりに屋敷の中へ堂々と入り込んできたのは、父の妾――アリーヌ。


「これからは私がこの家の女主人よ」


 艶やかに微笑むアリーヌ。その隣には、彼女の連れ子である義妹・リリアンがいた。


「お姉様、ごきげんよう」


 彼女は最初から、勝ち誇ったような目をしていた。




母が去り、私の立場はみるみるうちに悪くなった。侍女たちはアリーヌに従い、父も私には目を向けなくなった。母がいた頃は優しかった使用人達が、自分に見向きもしなくなる様子に酷くショックを受けた。

私の存在は、もはやこの家では「不要なもの」として扱われていた。


そんな中、唯一の支えだったアーサーが、屋敷を訪れた。


「君は変わらず美しいね」


 彼は私の頬に触れ、優しく微笑んだ。


「……アーサー、私、もうすぐこの家を追い出されるかもしれない」


 不安を打ち明けると、彼はそっと私を抱き寄せた。


「大丈夫だよ。僕が君を迎えに行く」




ーーー


それは、偶然だった。私はある日、庭園の奥でアーサーとリリアンが密会しているのを見てしまった。


「……君は、本当に可憐だ」


 彼が、私にかつて言った言葉を、そっくりそのままリリアンに囁いていた。


「アーサー様……本当に?」


「本当だよ。僕は君を選びたい」


 ――嘘でしょう?


私は信じられず、木陰に隠れたまま、震えた。アーサーは、リリアンの手を取り、そっと口づけた。


「……義姉上の婚約者だったけれど、僕はずっと気づいていたんだ。本当に愛しているのは、君だと」


「アーサー様……私、ずっと憧れていましたの」


 リリアンが嬉しそうに微笑み、彼の胸に顔を埋める。


「裏切りの口づけ」


 私とアーサーは、一度も口づけを交わしたことがなかった。


 それなのに。


 目の前で、彼はリリアンの頬にそっと手を添え、優しく撫でた。


 その仕草は、まるで宝石のように彼女を慈しんでいるかのようで、私は息が詰まった。


私には、そんなふうに触れたことなんてなかったのに、アーサーはリリアンの目を見つめ、そのままゆっくりと顔を近づける。


 やめて――。


そう叫びたかった。でも、声は喉に張り付き、身体はまるで石のように動かなかった。


リリアンがそっと瞼を閉じる。


アーサーの唇が、彼女の唇に重なる。


 世界が崩れる音がした。


 ――どうして。


 ――私とアーサーは、婚約者だったはずなのに。


私たちは何度も手を繋ぎ、未来を誓い合ったのに。それなのに、一度たりとも、アーサーは私に口づけをしなかった。優しく撫でられたことも、愛しげに見つめられたことも、ない。


 それは私が、大切にされていなかったから?


 それとも、最初から彼の心は私に向いていなかった?


頭の奥が痛い。心臓が締め付けられる。こんな光景、見たくなかった。目を閉じようとしても、まぶたが動かない。

まるで、神が私にこの瞬間を見届けるように命じているみたいだった。


長い口づけが終わり、二人が幸せそうに微笑み合う。リリアンが、私を奪った彼が。私の知らない顔をしている。

私は立っていられなくなり、そっと身を引いた。

涙は、一滴もこぼれなかった。それほどに、私の心は粉々に砕け散っていたから。

私は静かに後退りして、その場を立ち去った。





ーーー


 翌日、私は呼び出された。


 父の前に座るアーサーの顔は、昨日と変わらぬ優しさをたたえていた。


「お前の婚約は、破棄する」


 父の言葉が突き刺さる。


「代わりに、アーサーとリリアンを正式に婚約させることに決まった」


 リリアンは、にっこりと微笑んだ。


「お姉様、ごめんなさいね。でも、これが運命だと思うの」


「……アーサー……?」


 震える声で彼の名を呼ぶと、彼は僅かに眉を寄せた。


「……すまない」


 そのたった一言が、私のすべてを終わらせた。


ーーー


 それから数ヶ月後、屋敷に激震が走った。


 ――リリアンは、父の実の娘ではなかったのだ。


 アリーヌは、前夫との間にできた娘を「父の子」と偽っていた。


「……お前、私を騙していたのか!!?」


 父は激怒し、アリーヌを屋敷から叩き出した。


「リリアンもだ!! 妾の子に、この家の娘を名乗る資格はない!!」


 泣き崩れるリリアン。


 そして――アーサーもまた、彼女を見捨てた。


「僕は、侯爵家の正統な娘と結婚するつもりだったんだ。お前が偽物だったなら、婚約を続ける意味はない」


「アーサー様……?」


「すまない」


 たった一言。


 それは、私が言われた言葉と、まったく同じだった。




 アーサーは父に懇願した。


「やはり正式な後継者である貴女と婚約を結びたい」


 私は静かに彼を見つめた。


「……私を裏切った人が、何を言うの?」


「違う……あの時は間違っていたんだ! 君こそが本当にふさわしいと気づいた!」


 私は微笑んだ。


「もう遅いわ」


 私は父の家を捨て、すべての人間関係を断ち切った。


 もはや何もいらない。


 リリアンが泣き崩れる姿を見ながら、私は静かに屋敷を去った。


すべてを奪われたのは、私ではなく、彼らだったのだから――。



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