二度目の春の願いごと
王国の唯一の血筋として生まれた姫君は名前を与えられなかった。
母親である側妃の命と引き換えに姫君が誕生したからだ。
側妃を深く愛していた国王は激怒して姫君を殺そうとしたが、王家の正統な血を継ぐ姫君の命乞いを家臣たちが平伏して嘆願したため、かろうじて王宮の隅の離宮で姫君の養育が許されることとなった。
国王は姫君の命名を拒否した。
王族としての名を授けられることもなく、ただ姫君と呼ばれたが王妃は慈悲深かった。
姫君を保護して、国王の憎悪から守ってくれた。
姫君は身体が弱く、床に伏すことが多かった。
幼少期は使用人がいたが、成長してからは離宮で一人。
侍女もいない、護衛もいない。医師すらも。
朝に1日分の食事が届けられるだけ。
時々王妃が姫君の様子を見に来てくれて、お茶会をしてくれた。そのことが姫君にとって唯一の喜びであった。
ある日、姫君は迷子の小さな男の子を離宮の裏にある森で拾った。
姫君が15歳の、空が水を帯びて明るむ春のことだった。
「どうしたの? 迷ったの?」
差し出した姫君の手を男の子がギュッと掴む。初めて誰かと手を繋いだ姫君は、その手のあたたかさに驚いた。それは、今まで姫君には望むことすら許されなかった温もりであった。
姫君は男の子のことを誰にも言わなかった。
男の子も姫君に会ったことを言わなかった。
誰かに知られると二度と会えなくなる、と本能的にお互いに悟っていたのだ。
それからは男の子は、人目を忍んで姫君の元を訪れるようになった。公爵家の嫡子だったので貴族に許可された王宮の表部分への出入りが自由だった。そこから人目を避けて姫君の離宮へと通ったのだ。
ひっそりと護衛が気配を消して影のごとく男の子から距離をあけて警護をしていたが、男の子を主とする専属護衛だったので公爵家への報告をすることはなかった。
「リラ」
男の子は姫君をリラと呼んだ。小花が群れてふんわりと咲くリラの開花する頃に出会ったからだ。
名前を持たない姫君を、名前で呼んでくれる男の子。どれほど姫君の心が慰められたことか。姫君は嬉しくて嬉しくて、いつも男の子の来訪を心待ちにしていた。
「リラ、この花は鈴蘭だよ。小さな丸い蕾が連なっているでしょう。ベル形の白い花が下から順番に咲くんだよ」
姫君は何も知らない。言葉を喋ることができるだけで、知識を教える教師も使用人もいなかった。
「鈴蘭、鈴蘭、鈴蘭。覚えたわ。リリリリってベルが鳴るみたいに風に揺れるのね」
「鈴蘭の芳香は清純な感じがするね」
「ええ。清らかな香りだわ」
離宮の裏の小規模な森は、自生する草や花が鬱蒼と生い茂っていた。
森は姫君と男の子との秘密の遊び場であった。
木々の緑のトンネルをくぐり、青い氷のような清々しい森の空気の中を二人で歩く。湿った土、緑の匂い、苔むした岩。剥き出しの木の根が階段のように広がっていた。
世界の刻から切り離されたみたいな二人だけの森で、姫君と男の子は手を繋ぐ。
「この紫色の花は?」
姫君が尋ねると男の子が答える。
「菫の花だよ。うつむき加減に咲く花姿が慎ましやかで風情があるよね」
「紫の花色が素敵だわ。ほんのりと甘い香りね」
「うん、甘い香りだね」
6歳年下であるけれども男の子の知識は豊富で、何でも姫君に教えてくれた。花のこと、草のこと、木のこと、土のこと、風のこと。香りをひとつ、名前をひとつ、知識をひとつ、覚える度に姫君の灰色の世界には光が満ちて色づき鮮やかな色彩に変化していった。
ギザギザとした緑の葉に触れて、姫君は薄いピンクの美しいムクゲの花を見た。
「……いらないって言われても、どこでだって花は咲くのね。人工的に庭園で咲く花でも、捨てられたり種が零れたりして野でも森でも咲いているもの……」
寂しそうに呟く姫君の手を男の子がギュッと握った。
「いるよ! 僕はリラが欲しいよ! リラは僕だけの花なんだから!」
「うふふ、ありがとう」
姫君が微笑む。
「本当だよ! 将来は僕と結婚してね!」
男の子は姫君の手を取ると、左手の薬指にカプッと噛みついた。
「っ!」
痛みに姫君が身をすくめる。薬指に歯形が刻まれた。
「ごめん、痛かったよね。でも今は指輪がないから指輪の代わりだよ」
執着心を露出した男の子がドロリと笑う。再度、歯形が消えないように強く姫君の薬指を噛んだのであった。
風が時間とともに流れる。
春に出会って二人で花を摘み。
夏の木漏れ日を拾って森を歩き。
秋に落ちた葉を踏み鳴らして遊び。
冬の樹氷の美しさを二人で眺めた。
「明日は会えるかしら」
星に祈りを捧げることも男の子が教えてくれた。願いが叶うのだ、と。
神話を持つ星々が輝く夜空を仰ぐ。
姫君は離宮から出られない。王家の血の継続のために生かされている姫君は自分の無力さを知っていた。ひたすら男の子の来訪を待つしかないのだ。
夜空を走る流れ星を指折り数えた。
「あの子がまた来てくれますように。ずっと来てくれますように……」
しかし世界は残酷だった。
姫君が15歳の冬に王妃が王子を生み、その2週間後に姫君は亡くなった。空気がたわみ、白い雪の記憶を孕んだ雪解けの透明な水がそよりと冬を解けさす頃であった。
その日は男の子が遊びに来ていた。
急に王妃の来訪があり、あわてて男の子は戸棚に隠れた。
王妃は一人ではない。王妃が下顎をしゃくると、侍女や護衛たちが出口や窓を塞ぐように立った。
王妃は持参のお茶を姫君に差し出した。
「いつもの薬茶よ。お飲みなさい」
躊躇しつつも姫君はお茶を口に含む。常に飲まされているこのお茶が毒茶だと姫君は理解していた。飲んだ後は体調が悪くなるのだ。姫君は病弱ではない。毒によって弱らされていたのである。
国王は姫君を憎んでいるが、国王よりも姫君を憎悪しているのは王妃の方だった。
それでも男の子の存在を察知されたくなくて、姫君は黙ってお茶を呷った。
いつもよりもお茶の味が濃い。カッと喉が焼ける。
手から滑り落ちた茶器がガチャンと壊れた。
水に溺れるように藻掻いて、姫君は血を吐いて床に倒れる。それを男の子は戸棚の扉の隙間から見ていたのだ。
一瞬だけ、姫君は戸棚を見た。
姫君と男の子の視線が刹那に絡む。
床で身を折り苦しむ姫君は、飛び出そうとしている男の子に向かって、喉を掻きむしるフリをして唇に人差し指をあてた。
隠れていて。
声を出してはダメよ。
静かにね。
お願い、絶対に飛び出てこないで。
お願い、大好きなの。
お願い、貴方は助かって。
お願い、
「……助けて……」
あの子を助けて。
お願い、お星さま。
お星さま……。
お星さま……。
あの子を助けてください……。
毒でのたうつ姫君の視界に割れた茶器が映る。苦痛で身をよじるみたいに装って、手で破片を握り込んだ。
姫君の手が動く。
最後の力を振り絞った姫君は戸棚に人々の注意が向かないように、茶器の欠片を王妃に向かって投げつけた。
ピシッ。
王妃の頬が薄く切れた。血が流れる。
「キャアアアッ!」
悲鳴が響いた。
取り乱した王妃を侍女と護衛たちが囲んで、大急ぎで離宮から出て行く。
救出のために機会を窺っていた男の子の護衛が入れ替わるみたいに音もなく駆けてくる姿に、姫君は安堵の息を血とともに吐き出した。
「リラッ!!」
男の子が永遠の絶望のごとく叫ぶ。
ゆっくりと姫君が美しい宝石のような目を閉じる。
何も見えない夜のように視界が闇色となった。
それが、姫君の記憶の最期であった。
16年後。
公爵家のパーティーに招待されていた伯爵家の令嬢セレスティは恋をした。一目惚れであった。
相手は、このローラム公爵家の当主ジュリレアスだった。
セレスティは15歳で、マリガン伯爵家の一人娘であった。
婿をもらって伯爵家を継ぐ予定だったので、セレスティは初恋をその場で諦めた。跡取り娘として教育を受けたセレスティは貴族の政略結婚を理解していた。どう足掻いても公爵であるジュリレアスは婿入りなど無理である。
何よりも恋をしているのはセレスティだけで、ジュリレアスはセレスティの存在すら知らない。
ズキリ、と左手の薬指の痣が痛んだ。
生まれた時からセレスティには薬指に指輪のような痣があった。赤子の痣は数年で消えるものが多いが、セレスティの痣は消えることがなかった。
今まで痛むことなどなかったのに、何故か今日は痛くて仕方がない。
セレスティは心の底からの溜め息を吐いた。初恋を手放すための長い吐息であった。
「よし。振ってもらおう」
未練を残さないために潔くセレスティはジュリレアスに振られることにした。
薬指も痛いし、振られてきっぱりと帰ろう、とセレスティは人波の波際を巧みに歩いてジュリレアスに近づく。
ジュリレアスはバルコニーに一人でいた。
「ご無礼をお許しください、ローラム公爵閣下」
深々とセレスティは淑女の礼を執った。月の欠片が降り注ぎバルコニーを照らす。月光と、室内からの照明に反射してセレスティの青いドレスの光沢が水のように艶めいた。
「無作法を承知で申します。私はマリガン伯爵家のセレスティと申します。ローラム公爵閣下、貴方が好きです。なので、私を振ってくださいませ」
自分勝手に告白をして、ジュリレアスに感情の負担を押し付けることに罪悪感を覚えたが、負け戦からは即時撤退をするべきだ。セレスティは心苦しく思いつつ、ジュリレアスに頭を下げ続けた。
ジュリレアスは驚いた。
初対面の女性から告白をされることは過去にも複数あったが、振って欲しいと請われたのは初めてだったのだ。
「頭を上げなさい」
凪いだ水面のような感情を感じさせない目をしたジュリレアスが言った。
「わたしには忘れられない女性がいる。悪いが告白は受け取れない。彼女に心を預けているのだ」
ズキズキと薬指が痛い。
自ら望んだとはいえ、拒絶されたことも胸が潰れてしまいそうに切なかった。
けれどもセレスティは微笑んだ。
「はい、ローラム公爵閣下。お時間をありがとうございました」
貴族の令嬢として、ジュリレアスの前では泣くことはできなかった。目尻に力を入れる。
俯いてしまわないように。
歩調を乱さないように。
萎れた花冠みたいに項垂れてしまわないように、セレスティは背筋を伸ばしてジュリレアスから離れた。
その背中をジュリレアスが瞬きもせずに凝視していた。
「……セレスティ・マリガン……?」
ジュリレアスが呟く。
「初めて会った令嬢なのに懐かしく感じる。不思議だ……」
「ふぇーん、ふぇーん、ひっく」
失恋の涙を流して布団の中で盛大に泣いて眠ったその夜、セレスティは夢を見た。
何かの記憶の残滓のような。
天から零れ落ちた欠片のような。
朝霧のように幽く儚いのに、写実的な過去や未来を綴ったみたいな神秘的で残酷な夢であった。
その夢はセレスティの泡沫みたいな前世だった。
翌朝、目覚めたセレスティの瞳を見て両親である伯爵夫妻は驚愕の悲鳴をあげた。セレスティの青い瞳が光を受けて七色に輝く宝石眼に変化していたからだ。姫君と同じ王家の瞳であった。
「セレスティの瞳が宝石眼に……っ!」
「そんなっ! 王家に取られてしまったら会えなくなるわ!!」
両親がセレスティを抱きしめて嘆き悲しむ。
セレスティの家は伯爵家だ。
何代も前に王家の姫君が降嫁したことはあるものの、伯爵家に宝石眼が誕生したことはなかった。
王家の直系であっても宝石眼が誕生する確率は低い。現に今代の王太子も宝石眼ではない。しかし、稀に後天的に眼が宝石眼に変化する者が先祖返りとして現れることがあった。
「…お父様、お母様。私、今日から病気になります。屋敷に閉じこもります。我が儘を許してくださるでしょうか?」
「賛成だ。社交などしなくてよい。使用人も信用できる者のみをセレスティに関わらせよう」
「ええ。セレスティを王家の目に触れないようにしなくては。結婚や後継者のことは後から考えましょう」
両親は、セレスティを守る道を即断で選んだ。
セレスティは胸を撫でおろした。
前世の国王や王妃とは大違いである。
今世の優しい両親に、セレスティは嬉しさのあまり涙を滲ませた。
同時にセレスティは理解してしまった。
昨夜の初恋の理由を。
無意識であったが、胸がときめいたのは前世の男の子が生きていた喜びの鼓動だったのだとセレスティは確信した。
あの男の子が成長した姿こそが、ジュリレアス・ローラム公爵であったのだ。
その三ヶ月後。
ジュリレアスは苛立っていた。
どこにいても何をしていてもセレスティの姿が目に浮かぶのである。もう一度会いたいと願っても、セレスティは社交界に現れない。重い病気だと噂が流れていて、そのことも心配で堪らなかった。
どうしてこれほどに気になってしまうのか、とパーティーの夜を何度も脳裏に蘇らせて、ジュリレアスはハッとした。
バルコニーは薄暗かった。
けれども室内の照明に照らされて、セレスティの左手の薬指に傷のようなものが確かにあった。
脳内で渦巻いていた思考が光のごとく一閃する。
あの薬指が記憶に引っ掛かってしまい、セレスティが気になるのだ。
薬指に傷がある者は大勢いるだろう。
しかし。
ジュリレアスは直感的に悟った。
「もしや、……リラ?」
王家の宝石眼には伝説がある。
寿命を全うせずに死した宝石眼持ちは、生まれ変わって本来の寿命を生き直すと伝えられていた。
転生なぞジュリレアスは信じていなかった。
だからジュリレアスは復讐を選んだ。
16年間ジュリレアスは、ゆっくりと手足を捻り取るみたいに国王を裏から攻撃して徐々に王家の権力を削ぎ落してきた。王家と喧嘩をするならば必ず勝たねばならない。やっと16年をかけて勝算が確実になったところであった。
けれども、パーティーの夜からセレスティの面影が日に日に大きくなる現状は、転生を信じるに足る説得力があった。
本能がセレスティを姫君だと認識していたならば、この気持ちも納得である。
すぐさま確認をするべく、ジュリレアスはマリガン伯爵家にセレスティとの面会を求めて先触れを出す。名目は病気見舞いである。
いきなりのジュリレアスの来訪をマリガン伯爵は驚愕したが、身分的に拒否することは難しかった。
感染症かも、という言い訳も通じない。ジュリレアスに王都一番の医師を紹介する、と言われてしまえば仮病ゆえに医師を回避したかったのだ。
セレスティの宝石眼の露見を恐れて心臓をバグバグと鳴らしていたマリガン伯爵であったが、表面的には穏やかにジュリレアスを歓迎した。
伯爵の案内で応接室に入ったジュリレアスは目を見開いた。
窓辺の椅子に座っているセレスティの目には、レースの包帯が巻かれていたからである。窓から差し込む陽光が、セレスティの髪に挿された髪飾りの花びらを光で縁取っていた。
「ようこそ、ローラム公爵閣下。病気の後遺症が目に残ってしまいまして……。このままでのご挨拶をお許しくださいませ」
病み上がりらしくセレスティの声音はか細い。
ジュリレアスは、探るようにセレスティを見つめた。上から下まで視線を流す。
セレスティは、姫君とは容姿も髪の色も声も何もかもが異なる。
しかし、左手の薬指には歯形のような痣があった。痣は指輪のごとく薬指を一周していた。前世でジュリレアスが姫君を噛んだ跡と同じだった。
「……その左手の薬指の痣は?」
ジュリレアスが尋ねると、セレスティがビクッと左手の上に右手を重ねた。隠すように握り込む。貴族の令嬢には、僅かな傷も評価や価値を下落させてしまう瑕疵に直結するのだ。
セレスティの口から溜め息のような微かな息の音が漏れる。小さな声で言った。
「……生まれた時から、ずっと」
静かにジュリレアスはセレスティの前で片膝をつく。
ジュリレアスはセレスティのレースの包帯を覗きこむように目線をあわせた。
近い目の位置に、セレスティは身を縮める。
「あの……、その……、ローラム公爵閣下?」
口ごもり、近すぎる距離から思わず逃げようとしたセレスティの頬をジュリレアスが両手でそっと包んだ。
こつん。
額と額をジュリレアスがあわせる。
「リラ」
セレスティの肩が震えた。身体が強張る。
「わたしのリラ。ジュリだよ。覚えているかい? 転生して忘れてしまった?」
きゅっとセレスティが唇を結ぶ。
「……リラじゃないわ」
セレスティが首を振った。
「今世はお父様とお母様が名前をつけてくれたもの。私はセレスティよ」
ジュリレアスが口角を上げて笑う。セレスティに前世の記憶があることを察したのだ。
「セレスティ。リラの花から人間に生まれ変わったんだね」
左手の薬指をとって、ジュリレアスが口づけを落とした。
セレスティの頬に淡い熱が宿る。頬を染めたセレスティの胸が、トクン、と鳴った。
「でも、わたしの指輪は持って生まれてきてくれたんだね。凄く嬉しいよ。ありがとう」
「…………大きくなったわね。背が凄く高い」
「子どもは成長すると大人になるんだよ」
しかし、どれだけ背丈が変わろうとも変わらない想いはある。
ジュリレアスがセレスティを抱きしめた。
その拍子に目を覆うレースの包帯が緩む。セレスティの美しい宝石眼が露わとなった。
「ジュリと再会した夜に宝石眼に変化したの」
前世と同じくジュリと呼ばれて、幸福でジュリレアスはクラクラと目眩がした。16年間堆積した恋心と、枯渇しない絶望が水底からの泡のように浮上する。嬉しくて堪らないのに、泣きそうな笑顔であった。
そんなセレスティとジュリレアスの姿に、部屋の隅でポツンと立つ伯爵が衝撃を受けて硬直していた。
「嘘だろ? セレスティとローラム公爵閣下が、こ、恋人のように親しげなんだけど……。セレスティの宝石眼にも平気そうに動じていないし……」
ブツブツ呟く伯爵にセレスティが言った。
「実は、三ヶ月前の公爵家のパーティーで私がジュリレアス様に告白をしたのです」
「今まで黙っていて申し訳ありません。それで書類を準備してきますので、明日、婚約を結びたいのですが?」
ジュリレアスの言葉に伯爵が動揺して息を呑む。
「あ、明日ですか?」
「ええ。彼女は宝石眼です。失礼ですが伯爵家では守りきれません。公爵家の権力が必要です。婚約は早い方がいいでしょう」
「しかし、セレスティは一人娘でして……」
「伯爵はまだまだお元気ですし、わたしも公爵領と伯爵領と統治する余裕があります。いずれ誕生する子どもたちに伯爵領は譲れば良いと考えています」
「確かにそれならば」
そうして翌日、セレスティとジュリレアスの婚約は正式に成立した。
「本当に私、ジュリの婚約者となったのね」
「前世から約束していただろう、結婚してくれと。わたしは骨の髄まで根深いんだよ」
伯爵家の庭園を散歩しながらセレスティとジュリレアスが会話する。
前世の大岩を垂れ落ちる湧き水ではなく、庭園では噴水の水が女神の彫刻を伝って流れていた。
冬の終わりの季節なのに、庭師によって花々は整えられて百花を競うごとく美しく咲き溢れている。
森では落ち葉を踏んだが、庭では花びらが地面に散り敷かれて仄かに香るみたいであった。
散った花びらが歩く足下で、ひらひらと蝶々のように風を纏って舞う。赤い蝶々、黄色い蝶々、ピンクの蝶々、白い蝶々、花びらの蝶々は儚く美しい。
「あの、ね。聞いてもいいかしら……?」
躊躇いがちにセレスティが口を開く。
「ジュリ。あの後のこと」
ジュリレアスは真剣な表情で言った。
「……リラは行方不明となっているよ。わたしが護衛に遺体を運ばせたから。あんな離宮にリラを残しておけなかった。墓の場所はわたししか知らない。もっと早く、リラが生きているうちに連れ出すべきだったと後悔をしていた」
自分を罰するようにジュリレアスの声は厳しい。
「あの時も、戸棚から飛び出してリラを助けたかったのに……。わたしはできなかった……」
「いいえ。王妃様の護衛の人数は多かったわ。もしジュリが見つかっていたら目撃者としていっしょに処分されていた。ジュリは9歳だったのよ、自分を責めないで。それに謝罪するのは私の方だわ。9歳のジュリにあんな場面を目撃させてしまった。ごめんなさい。でも、ジュリが生き延びてくれたからこそ、再び私たちは会うことができたのよ」
「セレスティ……」
「私、王妃様のことが知りたいの。悪い噂が蔓延しているし、人前に姿を現すこともないし。社交界に出てびっくりしたの」
「王妃のこと?」
ジュリレアスが片眉を上げた。
あの時、茶器には猛毒が入っていた。当然、茶器の欠片にも毒が付着していたのだ。少量だったので健康を害することはなかったが、それでも毒は毒の役割りを果たした。
欠片によって傷を負った王妃の片頬は、毒の侵入により皮膚が変色したのである。
医師は手を尽くしたが、黒く変色して爛れた頬を治すことはできなかった。
王妃は部屋に引き篭もるようになり、それを利用してジュリレアスが噂を流したのである。
曰く、王妃は不貞をしている、と。
部屋に閉じこもっているのが証拠である、と。
噂には、根拠も真実も不可欠ではない。真偽がはっきりせずとも、本人が不在であろうとも、意図的に作られたものであろうとも、無責任に広がっていくのだ。
王妃が対処しようにも噂は広がりすぎて、ジュリレアスの術中にはまり解決できなくなっていたのだった。
くわえてジュリレアスは王妃の実家の侯爵家を没落させた。もはや王妃はハリボテの権力すら所有しておらず、かろうじて王太子の母という地位に縋るだけとなっていた。さらにジュリレアスの手により原因不明の病にもかかり、王妃は苦痛にのたうつ毎日となっていた。
ジュリレアスは許せないのだ。許すことができない。だから王妃を苦しめる目的で長く長く生かすつもりであった。
「王妃は」
ジュリレアスは言葉を選択した。王妃の実情を教えなかった。姫君は王妃を憎んでいなかったからだ。
「とりあえず元気だよ」
「そう……」
セレスティは困ったように少し言葉を詰まらせる。
「私、恨んでいないの。ジュリ以外で私に少しでも優しくしてくれた人は王妃様だけだった。王妃様は目的があって優しくしてくれていたって分かっているけれども、恨むことができないの。寂しさは憎しみよりも強く心を蝕むわ。私、寂しかったの」
花が綻ぶようにセレスティが微笑む。
「今は幸せ。お父様もお母様も私を愛してくれている。ジュリも側にいてくれる。もう寂しくないわ」
隣を歩くジュリレアスを見て、セレスティが嬉しげに笑う。
「ジュリに会えるのだと思うと、昨夜は楽しみでなかなか眠れなかったくらい幸せなの」
明日がくることが楽しみだった。夜空の星に願うほど、セレスティは明日が待ち遠しかった。
「セレスティ」
ジュリレアスもセレスティを見つめた。
「前世では春に出会って、二度目の春を迎えることはできなかった。しかし、今は二度目の春も三度目の春も何度でもセレスティと春も夏も秋も冬も迎えることができる。わたしも幸せだ」
「私もよ、ジュリ」
「セレスティ。セレスティのためならば何でもする。魔にもなる、悪にもなる。だからもう置いて逝かないでくれ。もうセレスティのいない世界で生きていたくない」
「ジュリ、大丈夫よ。ずっといっしょよ。もうすぐ来る春も花を見ましょう。咲く花も散る花も、いっしょに」
「ああ、春が来る。もうすぐだ。セレスティ、二度目の春だ」
二人で春を待てる幸福に、セレスティとジュリレアスは手を取りあって笑ったのだった。
春が立ち。
原因不明の重い病気を患った国王が退位した。
新国王は、姫君の異母弟であるが王家の血の疑惑がある王太子であった。
そのため弱体化していた王権の落日に拍車がかかり、貴族勢力は急速に拡大した。政治体制が変わっても国民の生活に影響はなく、王国はますますの繁栄の階段を上っていった。
夏が彩り。
秋が匂い。
冬が巡り。
再び春が立って幾度の季節が巡回しても。
王国におけるジュリレアスの苛烈な暗躍を、セレスティは生涯知ることもなく幸福に暮らしたのであった。
読んでいただき、ありがとうございました。
【お知らせ】
「金貨1枚でいかがでしょうか?」が、ざまぁありの大幅加筆をしてリブリオン様より電子書籍化しました。
表紙絵は、昌未先生です。
シーモア様より特典SS付きで先行配信中です。
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