09:セオドアは、文通から始めたい
噴水広場に面している建っている石造りの建物には、郵便基地局や宿屋の他に、ロス辺境伯私兵騎士団の拠点がある。
エロイーズ達二人が歩き出した直後、私兵騎士団の拠点から噴水広場に出て来たのは、セオドア・ロスだった。
彼は視線を手元の地図に落としているので、去って行く二人には気づかない。
地図には赤い点が散っていて、紛失物や盗難にあった品物名と共に日時が記されていた。
辺境伯の私兵騎士団が総力を挙げて調べあげたその資料から読み取れるのは、昨日の夜、移動しながら盗みを働いている何者かの存在だ。
「男物の服が数点。薪割り用の斧、鉈。畑の野菜、干していた肉、魚」
幸い、家宅に入られたという報告はない。
内陸の田舎では、不用心に鍵をかけない家もあるが、発展したこの街では見知らぬ人物の出入りが多いために、戸締まりの習慣がある。
セオドアは、赤い点の移動を時系列順に追ってから、顔を上げて、ある方角を見た。
そちらへ続く道には、ついさっきまで女性二人の後ろ姿があったのだが、今は緩やかに曲がる道の向こうに隠れてしまっていた。
「時系列的に考えるなら、次はこちらへ移動すると考えられるが、異国人だったなら、船を奪おうとして逆に港へ向かう可能性が高い。馬を奪って逃げるつもりなら……?」
港は厳重に封鎖し、船は沖合に避難させた。
街中は、私兵騎士団の騎士達が常に巡回している。
セオドアは、高台にある領主館を見上げた。
馬や馬車など、効率の良い移動手段を得ようとするのなら、領主館は標的の一つになり得る。
今は人員を街に割いているため、領主館の守りは万全とは言えない。
道は封鎖しているが、奴隷商人達はおそらく街の周辺に広がる森に潜んで移動するだろう。森は広過ぎて、人の出入りを完全に掌握する事は不可能だ。
万が一、領主館が襲撃されてエロイーズが危険に晒されたら……?
エロイーズの小さな可愛い目が、キョトンと自分を見返してきた瞬間を、セオドアは思い出す。
あの瞬間から、退屈だったセオドアの人生は、新しく始まった気がした。
幼い頃に母を亡くし、次期領主として厳しい教育を受け、父が亡くなった後は、領主としての責務を果たそうとして懸命だった。
公私の『私』部分が生活の中にほぼ無かった彼に取って、自分で何かを欲したのは、初めてだったかも知れない。
「一度帰るか」
騎士団の拠点である建物に入って、アオギに護衛の選抜を頼みながら、セオドアはエロイーズに話す難破船の内容について、詳細に頭の中で組み立て始める。
セオドアは元来喋るのが苦手で、貴族学園時代、エロイーズの兄の存在がなければ、教室の片隅で友達の一人も作れずに寂しい学生生活を送っていたところだった。
友人と交流し、王都の騎士団に入隊して任務をこなし、その後領主として忙しく過ごすうちに随分慣れたとはいえ、エロイーズを前にすると、緊張して説明がぐだぐだになりそうだ。
何をどの順番で話すかを決めておく必要がある。
まずは、この領地よりもはるか南西にある大陸から、王国内での奴隷売買についての照会が来た事を伝える。
かつてこの国にあった奴隷制度は百年以上も昔に法で禁止されているが、奴隷売買のルートがまだ存在しているのではないか。それはただの問い合わせであって、事実関係は今調査中だ。
南の大陸には、獣人族や竜人族、エルフ族のいる国があり、知能の高い使役獣が多数生息していて、彼らは頻繁に奴隷狩りにあっているという。このようなファンタジーな話は、普通なら、セオドアが初めて聞いた時に感じたように、信じがたいだろう。
しかし今は、難破船という具体的な事例がある。
昨日夜、知能の高い猿のような使役獣を運んでいた船が、難破してこの領地内の海岸に流れ着いた。船の航行に携わっていたはずの奴隷商人達は、死んだかもしれないが、遺体は一つも見つかっておらず、生きて潜伏している可能性が高い。
追い詰められた犯罪者は、凶暴化する恐れもある。
充分、警戒するように。できれば、部屋から一歩も出ずに過ごすようにと、エロイーズの顔を見て直接伝え、安心を得たかった。
それから、昨夜伝え損なった事も、はっきりと言葉にして言わなくては、とセオドア・ロスは決意を固める。
エロイーズに一目惚れしたとドミリオに相談してしまったせいで、彼女の意思を確認する間も無く、結婚を強いてしまった。
まずは、その事を謝る。
それから、いきなり同じ部屋で政略結婚の夫婦のように過ごすのではなく、普通の恋人のように、まず文を交わし、デートを重ね、少しずつ距離を詰めていきたいと思っている事を、告げよう。
デートをするたびに、読書好きな彼女のために、本を贈ろう。
そのためには、エロイーズがどんな本を好きか、たくさん話さなくてはならない。
本棚が、彼女の好きな本でいっぱいになった、ある月の綺麗な夜。
セオドアはエロイーズに、結婚してください、と申し込む。
エロイーズが良い返事をくれたら、その時こそ部屋を一緒にして、本当の夫婦になりたい。
そんな事を想像して、夢を膨らませる辺境伯セオドア・ロスは、どうしようもなく奥手で、女性に対してはヘタレだった。
彼は今まで一度も、女性と付き合った事がなかった。
昔父親から、旧友の娘だという女を婚約者にどうかと紹介されたが、全く好みではないので断った。着飾って香水の匂いをプンプンさせ、一方的に自分の事ばかり喋る女は、一緒に居てとても疲れる。その女は父親が亡くなった後も、婚約は先代の遺言だと主張して未だに領主館に訪れるが、門前払いをしている。
親戚や級友達が紹介してくる女も、殆どがそんな感じだったから、女は嫌いだと公言して見合い話は片っ端から断った。
エロイーズのように、『私でいいのかしら?』と自信なさげな様子を見せながらも、気遣いに溢れた会話をしてくれて、こちらの会話のペースに合わせてくれる女性こそが、ようやく出会えた、理想の伴侶だった。
「領主様!」
騎士が二人、拠点に駆け込んで来た。
「仰る通りの場所に、小舟が隠されていました!」
おおお、と拠点にいた他の騎士達が感銘を受けたような声を上げるが、セオドアは特別な指示をした訳ではない。地図に記された盗難場所の時系列を、逆に辿った先に何かないか調べて来いと言っただけだ。
そこは岩だらけの岸壁で、大きな船は接岸できない場所だった。
奴隷商人達は難破しかけた船を見捨てて、自分たちだけ小舟で避難し、その場所に流れ着いたのだろう。
彼らが生きて上陸した証拠が出てきた事で、騎士団に緊張が走る。
「奴らが同国人かそれとも異国人か、不明な点が多過ぎて先の行動が読めないが、海から来た者は、海へ還ろうとするかも知れない。準備だけはしておこう」
アオギにいくつかの指示を出し終わった頃には、すでに日は暮れて、辺りは暗かった。
少し欠けた月が、東の空に昇り始めている。昨日は満月だったおかげで、夜でも難破船の処理に当たる事ができた。
今夜もこの明るさなら、領主館までカンテラ無しで行けそうだ、とセオドアは思う。
「アルド」
セオドアは若い侍従を呼んだ。
王都への往復と難破船の処理の間付き従ってくれていた侍従は、あまり休ませてやれていないせいか、顔色が悪い。
「仮眠を取りながら騎士団拠点で待機して、何かあったら、すぐに領主館へ知らせてくれ」
「心得ました」
侍従がかしこまって一礼する。
「アオギ、後は頼んだ」
私兵騎士団の団長が頷く。
「どうか、セオドア様だけでも馬をお使いください」
アオギは何度目かの進言をする。
「馬は、連絡と捜索に使え。私は家に帰るだけだ」
セオドアの言葉に、アオギは諦めた様子を見せる。
「敵はどこに潜んでいるかわかりませんので、くれぐれもお気を付けください」
セオドアは頷くと、数人の護衛と共に、徒歩で出発した。
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