05:エロイーズ、手紙を書く
後ろを歩きながら、ハルがすすり泣いていた。
「お兄様に、お迎えをお願いする手紙を書くわ」
エロイーズは振り向いて、ハルに笑って見せる。
「元に戻るだけよ。大丈夫。……こんなところ、来なければ良かったわね」
泣き止まないハルの肩を抱いて、エロイーズは建物の方へ進む。
別館は、昔は本宅として使われていた建物のようだ。
玄関ポーチや厨房、居間、寝室など、生活に必要な機能空間は一通り備わっていた。
外側は苔むしていたが、ひび割れは修繕されていたし、内部の掃除は行き届いていて、蜘蛛の巣一つない。
部屋数も多く、それぞれの部屋に上質な家具も設えてある。
エロイーズの荷物は、玄関内に積み上げられていた。
欠けたものも壊れたものもないので、エロイーズはほっとした。
厨房に道具やパン、卵、牛乳、薪が用意されているところを見ると、飢えさせるつもりはないらしい。勝手口から出たところには洗濯場と井戸、薪割り場があって、井戸の中には澄んだ水が確認できた。
着替えたハルが水を汲み、エロイーズが竈に火を入れ、簡単な朝食を作る。
当初、私が食事を作ります、とハルは言い張ったが。
「私、焦げた目玉焼きはあまり好きじゃないのよねぇ」
ハルの料理の腕前をそう茶化して、エロイーズは彼女を勝手口の外に追いやったのだった。
朝食の後、エロイーズは三階の寝室に陣取って、すぐに使う荷物だけを解いた。
窓から、辺境伯邸を囲む低木を見下ろせる。
丘を下ってしばらく行った辺りに、街があった。
あの距離だと、歩いて三十分以内にはつけるかな、とエロイーズは目算する。
街の向こうの背景が帯状に、キラキラと光っている。
(あれは、もしかしたら海なの?)
ロス辺境伯の領地はモスタ王国の最南端に位置しており、他国との貿易の拠点だと聞いた事があった。
(輸入本があるかも知れない)
午後は手紙を出しがてら、買い物をしてみよう、とエロイーズは思った。鬱々としていた心が少し、軽くなる。
(昔読んでいたような本も、あるかしら)
エロイーズは、部屋に設えてある木製の机の前に座る。
紙や筆記具は、実家から持参したものだ。
ふと、仲良さそうにしていた兄と辺境伯、級友達の姿を思い出した。
彼らは一致団結して、結婚式の準備をしてくれた。それなのにこんな有様で、兄と級友達との関係がギクシャクしてしまったら、申し訳ないと思う。
叔母や、今や王太子となった第三王子も、せっかく結婚式に列席してくれたのに、一月もしないうちに離婚となったら、がっかりするだろう。
けれどこのままここに留まっていても、使用人達のあの様子では、いつ食材の供給が止まってもおかしくない。
王都から馬車で何日もかかる距離なので、行動は早い方がいい。
だからといって、到着していきなりの離婚宣言では、根性がないと思われるだけだ。
まずは匂わせる。
それから時間差で、頑張ってみたけれどやっぱり駄目でした迎えに来てください的な手紙を送ろう。その程度の期間なら、生活を賄える金子は手元にある。
彼女は自分を奮い立たせて、手紙をしたため始めた。
『ドミリオお兄様。無事に、ロス辺境伯様の領主館に到着しました。このたびは、私達のために尽力いただき、まことにありがとうござます』
と、まずは普通の出だし。
それから、おもむろに用件を書く。
『さて、こちらにお送りいただく持参金の件ですが、しばらく保留でお願いしたいと存じます。というのも』
エロイーズは小首を傾げて、続きを考える。
冷静に判断している事を兄に示すためには、できるだけ事実を淡々と記述する方が良い。
『というのも、この結婚、継続できるかどうか今の時点では判断がつかないからです。ロス辺境伯様は、ご両親を亡くされており、了解を得るべき親族の方はいないというお話でしたが、ここにきて、婚約者と名乗る謎の女性が登場いたしました。使用人の皆さんも、その女性を応援しているらしく、私は早々に別館へと追い払われました』
ここで、婚約者の容姿を詳しく書くと、嫉妬しているような論調になってしまいそうなので省いた。そもそも冷静に考えてみれば、本当に婚約者がいたのなら、結婚式に出席していた親戚代理の人か、他の侍従がロス辺境伯の結婚を止めているはずだ。
あの女性は、エロイーズを追い払うために呼ばれた『婚約者役』に違いない。
それから、こうして手紙を書きながら客観的に見れば、ロス辺境伯が直接何かした訳ではない、という事がわかる。
そこでエロイーズは、一番の懸念を書いた。
『ロス辺境伯は難破船への対応中という事でお留守にされており、直接本意を聞くことはできておりませんが、使用人が勝手にこのような暴挙に出るとは考えにくいのでは? と思っております』
ロス辺境伯自身が、自分では縁談を断りにくかっただけで、本心ではエロイーズを追い払いたいと思っており、それに使用人が忖度した結果がこれならば、抗うよりも諦めたい。
誰かが悪い訳ではない。
皆が、相手の為に良かれと思って行動した結果、運悪くこうなってしまった、というだけ。
エロイーズは、一生挙げる事のないはずの結婚式を体験できたのだから、良かったと思う事にした。
『辺境伯様は、寡黙な方です。大好きなお兄様に、結婚したくないという事を打ち明けにくかったのではないでしょうか。
場合によっては早々に王都へ戻る事も考えられますので、なにとぞ、その際にはこの不肖の妹を、受け入れてくださいますように、伏してお願い申し上げます』
ふう、とエロイーズは小さく溜め息をつく。
(そもそも私なんかが、あのような美男の伴侶に迎えられるなんて、有り得ないのだわ。こちらの使用人の方々も、私を見て相当にがっかりなさったのでしょう)
使用人達が、麗しい主に相応しい伴侶をどのように夢見て、実際にやって来た自分を見てどんな気持ちを抱いたか、という事を考えると、エロイーズは恥ずかしくて、寂しかった。
(お兄様はああ見えて聡いから、混乱する政治をとりまとめる事に忙しいお父様にも、機会を見てそれとなく話してくれるに違いない)
署名し、折りたたんで封蝋を済ませると、エロイーズは立ち上がる。
領主のお膝元にある街なら、郵便馬車も中継しているし、郵便基地局もあるはずだ。
ただし初めての土地なので、王都までどれだけの日数で手紙が届くのかエロイーズにはわからなかった。
ふいに、兄を見た瞬間に破顔したセオドア・ロス辺境伯の顔が思い浮かんだ。
男らしい体躯に、物語の王子様のような容姿。
その彼が、子どものように無邪気に笑った瞬間、本当に尊くて、見惚れた。
(私が流されるようにここに来たのは、あの笑顔を見てしまったからなのね)
今となっては、その彼に迷惑だと思われていたのだと考えてしまって、心臓の裏辺りがひどく重くなる。
(私の気が変わらないうちに、さっさと出しに行ってしまいましょう)
エロイーズが階下へと降りると、昼用の食材が台所に届かないと、ハルが憤慨していた。
少し早いが、予想通りの展開にエロイーズは、今更怒りを感じる事もない。
「では、お昼は街でとる事にしましょう」
と、準備ができ次第出かけることにした。
ハルが普段着に着替えている間に、エロイーズは腹巻きのような下着を出して、ぐるりと並んでいるボタンつきポケットに、手持ちの大金貨を一つ一つ収めた。
防具兼用の貴重品入れだ。
その上から、ズボンとブーツ、カーキー色のチュニックを身に付ける。
不逞の輩に狙われた時に逃げやすい、動きやすいという実用的な面で、エロイーズは叔母を守っている時にはいつもこうした格好をしていた。
刺客相手に、色気で命は守れないのだ。
長い髪は手早く編み、尻尾のように垂らした。
ベルトに、愛用のナイフを提げる。
以前護衛の隙をついて、第三王子に刃を向けてきた男を、ナイフで撃退した事があった。
ものの数にも入らないと思っていた背の低い弱そうな女が、まさか向かって来るとはその刺客も思わなかっただろう。
丈夫な布製の古いポーチに手紙を入れて、肩から提げる。
水筒や買った物を入れるため背嚢を背負って、エロイーズのところへやってきたハルは、彼女の格好に唖然としていたが、批判めいた事は言わなかった。
「……凜々しいですね、エロイーズ様! 今から探検に行くみたいです!」
「街を探検に行くのよ!」
エロイーズは、楽しげに言った。
令嬢らしくドレスを着て、部屋の中で逆境にめげているだけでは、従兄弟の王子は救えなかったし、現状を何も変えられない。
「海が近いから、きっと珍しいものがたくさんあるわ。輸入物とか海産物とか。王都に帰るにしても、お土産は必須よ、ハル」
「はい、エロイーズ様」
涙ぐみながら、ハルは言った。
「前向きなエロイーズ様が大好きです」
「まあ。ありがとう」
エロイーズは、公爵家の侍従や侍女がたくさんいる前ではできなかったであろう事をした。
ハルをギュッと抱き締めて言う。
「私もハルが大好きよ。ハルが一緒に来てくれるって言ってくれて、嬉しかった」
涙目のハルを連れて、エロイーズは領主館を出発する。
本館の周囲で何人もの使用人が、庭の整備や掃除に勤しんでいたが、誰一人、どこに行くのか聞かず、いつ帰ってくるのかと問う事もなかった。
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