番外編:兆し(おまけ)
厳しい北国の冬。人里離れた土地では雪が降り積もり、少し離れた隣の家を訪ねるのも容易ではありません。
朝早く起きたザイオンは、薪をくべ、雪を沸かして漉し、お茶を飲みます。
食事作りは、凍り付いた食材を溶かすところから始まるのです。
パンが焼き上がり、熱いスープができあがった頃、ようやく二階から弟が起きてきます。
「おはよう、兄上」
銀色の髪は寝癖で飛び跳ね、無地の灰色シャツに、くたびれた革ズボンと黒ブーツを履いており、都で王子と呼ばれていた頃の華美さはどこにもありません。
「兄上とは呼ぶなと言っているだろう」
ザイオンは、眉根をキリリと寄せて言いました。
「俺はあの男を父親とは認めていない。お前を弟だと思った事など一度もない」
「ごめんなさい……」
悲しそうな目をするマクシミリアンに対し、ザイオンは、灰汁の付いたお玉で水場をさし示しました。
「さっさと顔を洗ってこい、この馬鹿。せっかく温めた水が凍ってしまう。まったく手間のかかる奴だ」
ウナァァ、と怒った鳴き声をザイオンに向けるのは、二人の足下で朝ご飯を待っていた黒猫のクロエです。
彼女は黒い耳と尻尾をピンと立て、大好きなマクシミリアンの足に身体を擦りつけながら、一緒に水場へと向かったのでした……。
そんな夢を見たのは、昨日マクシミリアン王子から聞いた言葉を頭の中で組み立ててしまったせいだろう。現実の二人も、夢で見た感じとそう変わらないに違いない、とエロイーズは思った。
彼女の萌えと想像力は、突きつけられた現実に敗北した。
(あの書きかけの原稿は、火にくべてしまおう……)
目を開けると、ハンサムな男性の寝顔が見えた。
閉じられた瞼の美しい曲線を、密な睫を、うっとりと眺める。彼の長い金髪は、昨日の夜に括り紐が解けてしまい、逞しい肩にかかっていた。
エロイーズの赤い髪も解けてしまって、枕の上でクルクルと渦巻いており、梳くのに苦労しそうだ。
急に、自分が裸でいる事に気づき、エロイーズはどうしようもなく恥ずかしい気持ちに襲われた。彼女は夫婦用のベッドからそっと抜け出すと、絨毯の上に落ちていた服を拾い集めながら続き間になっている自室へと向かう。
エロイーズの部屋には、熱い湯が用意されていた。ハルが早く起きて、階下から持ってきたのだろう。
その努力を無駄にしなくて良かったと思いながら、湯で顔を洗い、身体を綺麗にした。
使用人達が忙しく立ち働いている音が、階下から響いてくる。
女主人らしい服をきっちりと着込んだエロイーズが、髪を手早く編み上げている時に、侍従らしい足音が部屋の前を通り過ぎていき、夫婦の部屋の扉をノックする音が聞こえた。
新しい侍従は、時々うっかりミスはするものの、仕事ぶりは真面目だ。もう少し寝かせてあげればいいのに、とエロイーズは思うが、窓から差し込む朝日を見るに、そろそろ身支度を済ませなくてはならない時間だ。
ハルの声が聞こえたので、どうぞ、とエロイーズは応えたが、侍女は入って来なかった。
不思議に思ったエロイーズが扉へと向かい、外を見ると、ハルは廊下で泣いていた。
「どうしたの、ハルちゃん?」
思わず姉妹ごっこしていた頃に気持ちが戻って、彼女を掻き抱く。
「何があったの?」
「すみません……すみません」
と、ハルは何度も謝る。
「エロイーズ様のポーチを、なくしてしまいました」
例の、本をたくさん入れて悪漢を殴った巾着だとエロイーズは思い出す。
あの巾着はボロボロになってしまったため、上から継ぎ接ぎをして刺繍を施した。内張は革なので、まだまだ使えそうだが、辺境伯夫人が使うような見てくれではなくなってしまった。それで、ハルに下げ渡したのだ。
「もう私のではないから、泣かなくていいのよ? 何が入っていたの? 昨日、お買い物に行ったんでしょう? 大事なものだったの?」
「お菓子をたくさんと、ミカンをいくつか……」
背中をトントンと叩いてやっているうちに、ようやくハルは泣くのをやめて話し始めた。
「お金は、服の内側に入れていて無事だったのですが、古着もたくさん買ったので、焼き菓子とミカンの入ったポーチを玄関に置いて、部屋でサイズが合うか着てみて、そしたら、そのまま忘れちゃったんです。朝取りに行ったら、なくなってて。私が悪いんです」
「そう、玄関に……」
エロイーズは、昨夜二人の男が立ち回りをした玄関の様子を思い出す。
数人程度が立ち並ぶといっぱいになりそうな、古い形式の玄関だ。奥への廊下と、上階への階段が連結していて、移動しやすいように、家具などは特にない。夜は燭台の火も暗いし、邪魔にならない廊下の隅っこにポーチが置き忘れられていたとしても、気づかないかも知れない。
別館に常駐している使用人は、ハルだけだ。
彼女以外の使用人が本館に帰っていった後、玄関を閉めて、付近の燭台の火の始末をしたエロイーズは、そのまま階段を上がった。
毎朝早起きをするためにハルは早く寝るので、マクシミリアン王子来襲の時には、ぐっすり寝ていたらしく起き出してこなかった。いったいどの時点までポーチは玄関にあったのか、というところまで考えて、エロイーズはようやく真相に気づく。
「そういえば昨日の夜、銀色の巨大なネズミが出たのよ」
エロイーズは、側妃である叔母とのお茶会で、焼き菓子を両手に鷲掴みして逃げていった銀髪の少年の後ろ姿を思い出していた。『子どもの頃とお変わりない』と言ったのはエロイーズ自身だ。
「ネズミですか!?」
涙に濡れた目を瞠って、ハルはエロイーズを見た。
「もしかして街で、誰かとこの場所についてお喋りしなかった?」
エロイーズがそう尋ねると、ハルは頷いた。
「ミカンを買った時に、お店の人と少し話しました。冬ミカンを箱ごと買えば、領主館の別館に、持ってきてくれるという話をしていて」
「きっと、それをどこかで聞いていたのね。ネズミが」
「ネズミがですか!?」
と、ハルが驚く
「私の名前をお店で出したでしょう?」
エロイーズは、昨日マクシミリアン第一王子と交わした会話を思い出す。
『ここの領主と結婚した人がエロイーズっていう名前だって街の人達が話しているのを聞いて』
あれは、ハルの事だったのだ。
「……出しました。領主様の奥様のお住まいでしょうって言われて」
「それでネズミに、目を付けられたのね」
「人間みたいなネズミですね!?」
と、またハルが驚く。
「……そうなのよ」
エロイーズはハルの頭を撫でた。
銀の髪をしたあの大きなネズミは子どもの頃、エロイーズの周辺からならお菓子を盗ってもいいと学習したのだろう。
今更ながら、彼の後始末をして回っていたザイオンの苦労を偲ぶ。
「私の名前に引き寄せられたネズミが盗っていっちゃったんだから、私のお金でもう一度お菓子とおミカンを買いに行ってね。ポーチは諦めましょう」
「わかりました。ありがとうございます」
そう言いながら、ハルは再び泣きそうな顔になる。
「朝のご用意をお手伝いできず、申し訳ありませんでした」
「お湯を運んでくれていたでしょう? とても助かったわ。他の事は、自分でできるもの。じゃあ、朝ご飯の後でね」
背中をポンポンと叩いてから、そっとリリースすると、ハルは濡れた目のままニコリと笑って、階下へと下りていった。
エロイーズはそのまま隣の部屋の前まで歩いていくと、軽くノックをしてから、扉をそっと開けた。
「おはようございます」
「……おはよう」
扉のすぐそばに立って、外の会話に聞き耳を立てていたらしいたセオドアは、クスクスと笑っている。
「ネズミの目的が、まさか、お菓子だったとはね」
「ハルには可哀想な事をしましたわ」
エロイーズは、セオドアの後ろに控えている若い侍従に気づいた。迂闊にマクシミリアン王子の名前を出す訳にはいかない。
「セオドア様は、ご存じでしたのね?」
「途中で、何かを外に蹴り出した事には気づいていたんだけれど」
セオドアは手を伸ばしてエロイーズを引き寄せ、軽く口づける。
「足下が暗くて、何なのかよく見えなかったんだ」
挨拶程度の口づけにも、エロイーズはまだ慣れない。
見下ろしてくる碧い目にドキドキしながら、エロイーズは俯く。
男らしい骨張った手を彼女の肩に回しながら、セオドアは歩き出した。
この手があんな事やこんな事を、などという昨夜の記憶を、エロイーズは必死に遮断する。
「食べ物に困っているのかしら……?」
逃亡資金が尽きて、ザイオン共々生活に困窮しているのかも知れない、とエロイーズは思った。それで頼ってきたのなら、力になってあげたい。
「そういう事じゃないと思うよ」
セオドアは彼女の考えを見通すように言った。
「難破船関連か、例のニコラスを追ってきただけなのか、その両方か……まるでネズミじゃないような言い方をしてしまったな」
階下から、いい匂いが漂ってくる。
「とにかく、食事にしよう」
連れ立って歩く二人の少し後ろには、若い侍従が付き従っていた。
「朝食をご一緒できるなんて、嬉しいです」
微笑む妻の手を取り、セオドアは階段を下りる。
「うん。これからも毎日、君と一緒に朝食を食べたい。いつまでもそんな平和な日々が続くように、私は頑張るよ」
そう言ってセオドアは、エロイーズに優しく微笑み返した。
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