26:最終話
今朝、辺境伯夫人に相応しい出で立ちをしたエロイーズが、別館の前に立ってセオドアを見送ってくれた。
これからは毎日、彼女に見送られ、帰ったら彼女に迎え入れられ、夜は一緒に過ごす。
セオドアは、『次期領主たる者、感情の起伏を他人に見せるな』と言われて育ってきたが、今はその教えを破り、幸せ過ぎて踊り出したいような気分だった。
だが午前中のセオドアには、忙しくて踊っている時間などはなく、アオギが夜を徹して四人の罪人から聞き取った供述書を添え、執務室でドミリオ宛ての報告書を作成した。
第一報への返事はまだだが、往復の旅程を考えれば、あと十日ほどはかかるだろう。
貴族会議宛の報告書も作成し、どちらも重要なものである事を言い含めて、二人に騎士に託す。
王都までの旅程で美味しいものでも食べろと多めに路銀を渡したのは、ドミリオの真似だった。これまでの杓子定規的な部下への接し方を、見直してみても良いかと、ふと思い立ったのだ。
港と街の封鎖は解除した。
沖に停泊していた船が入り江に戻り、荷下ろしを再開する。領内の別の港に移動した船も多いが、陸揚げ後の輸送経路の都合上、この港でないといけない船が多数残っていた。
物流が完全に元通りになるには、少し時間がかかるだろう。荷を吊り下げるために使う起重機類の数に限りがあり、順番待ちになるからだ。日持ちのしない荷を優先するようにはしたが、損害はゼロではない。その全て補償する事はできないが、できるだけの税優遇はするという通達を出す。
急ぎの事案を一通り終えて、騎士団拠点にある執務室でセオドアは、新しい便せんを取り出す。
『愛しいエロイーズ』
一行目を書いた後、セオドアは、昨夜を反芻する。
満遍なく己の印を付けた柔肌が、薄暗い燭台の炎に照らし出されていた。
抑え切れずに漏れ出る喘ぎ声が、セオドアを獣じみた欲望に駆り立てる。
ドミリオには感謝しなくてはならないな、という考えが、頭の片隅にちらりと浮かぶ。
妻にどう奉仕すれば良いか、学生時代にその知識を授けてくれた。
可愛い声を上げて達するエロイーズを、セオドアは夢中で貪った。
何度も彼女を追い上げ、乱れる様を堪能する。
熱い吐息の合間に、互いの名を呼んだ。
「セオドア様……気持ち良過ぎて私」
エロイーズが、言う。
「……このまま寝ちゃいそうです」
「寝てていいよ」
笑いながら、セオドアは最後の手順に取りかかる。
そこからは夢中だった。
「……っ」
痛みを感じているはずのエロイーズは、微笑んでくれた。
いつまでも彼女の暖かさに包まれていたいと思ったのに、ずっと我慢し続けていたせいか、あっという間に弾けた。
余韻の中、二人、抱き合って眠る。
悔いのない、幸せな夜だった。
拠点の鐘が昼交代の時を告げ、セオドアは我に返る。
手紙を読み返すと、自分でも恥ずかしくなるような愛の言葉を、何行にも亘って書き連ねていた。
だが、言葉を惜しんで彼女を誤解させたのだから、これはこのままでいいとセオドアは思う。
『私は今まで、領主としての人生をただひたすら、生きて参りました。
貴方を欲しいと思ったこの気持ちが、私の初めての我が儘です。
本当なら、この愛しさをしたためた文を貴方に届け、貴方からの文を読み、お互いの気持ちが通じたと確信してから、デートにお誘いしたかった。
でも私の心は今、前のめりで事を進めようと、逸っています。
どうか、私の領地の良いところを案内させてください。
我が領地はたびたび水害に遭いますが、その対策として、徹底した河川の管理と排水・下水の整備を行っており、そのための実験的な処理施設が領内に幾つかあります。
これには、貿易を通じて共和国から輸入した技術力も応用しており、成否によっては王国全土の社会基盤の改善に役立つのではないかと考えています。
毎年この季節、我が領地では嵐や豪雨の訪れが予想され、それに先立って実験処理施設の視察をいたします。私としては是非、貴方と共に視察へ赴きたく思っております。
まずは、街の西外れにある処理場へ、近々ご一緒してはいただけませんでしょうか?』
セオドアは何の疑問もなく、下水処理場への視察をデートの一環として提案する。
本人にとっては、自領の輝かしい功績であり自慢の施設だが、その価値観はドミリオによってしばしば『少しずれている』と表される部分でもあった。
セオドアにとって幸いな事に、エロイーズもまた、何の疑問もなくそれをデートと認識し、施設を成り立たせている技術力に興味津々で応じるタイプの女性だ。
だからこそ、セオドアが好意を持ったと知って、ドミリオはさっさと二人を娶せた。あの二人の自主性だけに任せていたら、書簡の往復だけで半月はかかる遠距離恋愛が、十年経っても続いていただろうと、ドミリオは他の級友達に語ったという。
他にも何通か、事務連絡の手紙を認めて、騎士団所属の文官に発送を頼み、レーションで簡単な昼食を済ませると、セオドアは拠点の地下へ向かう。
地下は石造りで、壁のところどころには燭台が設けられているが、薄暗い。
看守の待機所になっている小部屋を過ぎたところから、アーチ型の通路が始まり、両側に鉄格子のはまった牢が並ぶ。
右側一番手前の牢にいるのは、若い元侍従だった。
髪は乱れ、着たままのスーツは皺になっていて、侍従としてセオドアに付き従っていた頃のスマートさはない。
「セオドア様」
元侍従は、彼に気づくと急いで鉄格子の扉まで寄って来た。
「何もかも誤解なんです。どうかお許しを」
「誤解であそこまで真逆の話を、しかも到着して早々皆に触れ回るとはな。悪意が有りすぎる」
冷めた目で、セオドアは元侍従を見返した。
「セオドア様……私は、セオドア様の為を思って」
「私はお前の意見を聞きに来たのではない、アルド」
元侍従が更に何事かを言い募ろうするのを、セオドアは遮って続ける。
「ギャンブルで作った借金を、定期的に清算しているそうじゃないか。私が支払っている給料とはとても釣り合わない額だ。金をもらって、何者かの便宜を図っていたんだな」
「私は、貴方を裏切るような行為をしたつもりはありません! ただ、あるご令嬢の恋を手助けするように頼まれていただけで」
「お前の話は聞かないと言っただろう。昨日、マリー・ベスナド伯爵令嬢が私の妻エロイーズを殺害しようとした」
セオドアの言葉に、元侍従は絶句する。
「エロイーズはカラドカス公爵家の令嬢であり、アドレイド側妃の姪であり、王太子殿下の従姉妹に当たる。お前は高位貴族暗殺の手助けをした訳だ。侍女の一人も共謀した疑いで牢に入れてある。詳しい聴取は他の者がするが、言い逃れできるとは思うな」
セオドアは、それで会話を打ち切って、踵を返す。
「お待ちください!」
悲鳴のような声が牢屋中に響く。
「私は、そのような大それた事は考えておりませんでした! 誤解です! セオドア様! 私はただ、恋敵が現れたら排除するように頼まれていただけで……!」
(子どもの頃から見知った間柄だから、私をある程度操れると思い込んで安請け合いした訳か)
身内のように思っていた家令の息子が、金のために裏切ったという事実に、セオドアは憤りと同時に深い悲しみを覚えていた。
(ドミリオのように人なつこく──あるいはエロイーズと侍女のハルのように、主従を越えた繋がりを築いていれば、避けられたのだろうか)
だがセオドアはセオドアなので、そう簡単にやり方を変える事などできない。
もちろん、殺人未遂の共謀責任までは元侍従に問えないが、できるだけ反省の気持ちを持たせるため、彼は厳しい態度を貫いた。
振り返る事なく、看守役の兵達に頷いて見せ、セオドアは地下牢を後にする。
徹夜で異国の奴隷商人達の取り調べを行ったアオギが、午後遅くに出勤してきた。
セオドアの執務室を訪ねた彼は、非常にご機嫌な様子だ。
「領主様におかれましては、ご帰還された夜から、惜しみなく責務を果たされ、今ようやく一段落付いたところだとお見受けいたします」
「なんだ?」
セオドアは椅子に座ったまま、疑わしい視線をアオギに向ける。
「前振りはいいから言ってみろ」
「今、拠点の入り口ホールには、捜索報告のために用意されたテーブルと椅子がたくさん並べてある状態ですが、これを片付ける前に、騎士達の慰労会兼ロス辺境伯夫人歓迎会などを催されてはいかがかと思いまして。このたびの港封鎖で、荷揚げの遅れた食材が大量に滞っておりますし、買い上げて消費すれば損害を抑える手助けにもなります」
アオギは、表情を変えようとしないセオドアに、愛嬌を振りまく。
「手配は私直属の部隊が引き受けますので、どうかお願いします」
(騎士達の慰労会兼……ロス辺境伯夫人歓迎会?)
セオドアは、今朝送り出してくれたエロイーズの、紺色のドレスを纏った上品な姿を思い出す。騎士達の殆どは男物のシャツを着た彼女しか見ていないから、あの楚々とした姿を見れば驚くに違いない。
「そうだな。各方面の損害を埋める一助にもなるし、異なる部隊間の連携を深める良い機会だとも言える。今後の任務にも役立つかも知れない。許可しよう」
セオドアは、妻を見せびらかしたい、という気持ちを抑える事ができない自分自身に苦笑する。
「それで、いつ開催するつもりだ?」
「今晩にでもさっそく」
アオギの言葉に、セオドアは驚いた。
「急だな」
「食材の日持ちを考えますと、早い方が良いかと思います。料理の手配と、各方面への連絡は私及び直属の部隊が行いますので」
アオギは満面の笑顔で言う。
「奥方様には領主様より直接、ご連絡をお願いいたします」
エロイーズが、午前中はドミリオ宛てに私信を書く予定だと言っていた事を、セオドアは思い出す。
私書箱を設置したと目を輝かせていた彼女なら、手紙を誰かに出すように命じるのではなく、自ら郵便基地局まで行こうと考えるはずだ。
今回は護衛が付き従っているから、リスク回避の変装をする必要もない。馬車を使うかも知れないし、徒歩かも知れないが、食事は街でするだろうし、彼女の性格から、挨拶代わりに顔を出しそうな場所もわかっていた。
その予想通りに、セオドアが店のドアを開けると、狭い通路の突き当たりにあるカウンター席に、紺色のドレスを着たエロイーズの後ろ姿が見えた。
いらっしゃい、とアリアの元気な声が迎えてくれる。
振り返ったエロイーズが目を見開き、ロス辺境伯封蝋のついた手紙を大事そうに胸に抱えているのを見て、セオドアは急に、歩き方を忘れた。
彼女を見つける度に、恋に落ちる気がする。
セオドアは、足をギクシャクと動かして、彼女の傍に立つ。
エロイーズは立ち上がって優しい微笑みを浮かべ、彼を出迎える。
「セオドア様? もしかして、今からお昼ご飯でしょうか?」
「君を探してた……」
彼女の小柄な身体を、抱き寄せる。
ずっと君を探していた。
何年も。
もしかしたら、生まれた時からかも知れない。
(私の心を理解し、大切に抱き締めてくれる君を──)
すぐ隣にいる侍女や、店主のアリア、護衛達の視線を感じながら、セオドアはなかなかエロイーズへの抱擁を解く事ができないでいた。
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私兵騎士団拠点の入り口にあるホールでは、並んだテーブルの上にご馳走が並び、酒も樽のまま運び込まれ、宴の準備が進んでいた。
騎士達が、ジョッキを持って樽の前に並ぶ。
ホールには、領主館の使用人達の姿もあった。彼らは率先して給仕係を引き受け、折を見てはセオドアとエロイーズのところへ謝罪に来る。エロイーズのすぐ横には、侍女のハルが控えていて、彼らに冷たい視線を送っていた。
正直なところ、使用人達がエロイーズに対して行った仕打ちを、セオドアは許せてはいない。エロイーズが無事だったのは、偶然アリアに救われたからだ。よりにもよって、凶悪な異国の犯罪者が逃亡中の街へ、領主の妻を追いやるような状況を作るとは。
領主であるセオドア自身を、侮辱した行為だとも言える。
だがエロイーズは、タイミングが悪かっただけだと思っているようだった。領地への到着が深夜でなければ、あるいは難破船の件がなくて、翌日の朝にちゃんと領主夫人としての紹介が行われていれば、悪意のある唆しがあったとしても、使用人達は対応を間違わなかったはずだと言う。
確かにその通りだろう。
街を封鎖してエロイーズを路頭に迷わせたのはセオドア自身だし、いろいろと間が悪かった。
そう思って、彼女の意向を受け入れて使用人達の参加を認めたが、もしもあの時エロイーズに万が一の事があったらと考えると、セオドアは当分の間、彼らを許す気になれそうになかった。
慰労会は、椅子の数が足りないので基本的には立食パーティだが、一番奥の中央にひな壇が設けられて、セオドアとエロイーズはそこに座らされた。
二人の目の前にはなぜか、かなり大きなフルーツケーキが置いてあった。
「いやぁ、このままだと痛んでしまうというフルーツが大量にありましてね、買わされてしまったのですよ」
などとアオギは嘯く。
「ここに置いておきますので、挨拶に来た者に、切り分けて与えてやってください」
ロス領には、ウェディングケーキを切り分けて新郎新婦の幸せを分け与えるという風習があった事を、セオドアは思い出す。
「騎士団の慰労会じゃなかったのか?」
「騎士団の慰労会兼、奥方様の歓迎会です」
アオギは真面目な顔で、嘘は吐いておりませんと訴えかけると、ジョッキを手に大急ぎで酒樽へと向かった。
「切り分ければ良いのですね? 大きさはどれぐらいですか?」
エロイーズは添えられていた大きめのナイフを手にする。
「一人一口程度でいいだろう」
ナイフを握ったエロイーズの手に、セオドアは自分の手を添える。
「結婚式みたいですね?」
ついにエロイーズも気づいた。
「どうやら、アオギに嵌められたようなんだ」
セオドアは呻くように言う。
二人は顔を見合わせて、破顔した。
観念して、セオドア達がケーキに入刀すると、見守っていた人々から一斉に、「ご結婚おめでとうございます!」の声が上がる。
そして、大勢の手にラム酒入りジョッキが掲げられ、セオドアとエロイーズにとっては二度目の結婚披露宴が始まったのだった。
- 終 -
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