24:君の居る場所
別館へ続く小道の入り口に立っていたハルは、エロイーズの重い巾着袋を提げていた。
巾着袋は表面の布が少し破れて、中を補強しているヌメ革が見えているが、上から布を縫い付ければまだまだ使える。
セオドアの許可を得ると、エロイーズは浮かれながらハルに駆け寄って、抱き付いた。
「ハル! ここで会えて良かった!」
「エロイーズ様ぁ」
ハルも抱き付いてくる。
「ご無事で何よりですぅ」
「ごめんね。セオドア様と一緒に、悪者の末路を見に行っていたの」
「そんな危ない事を、なさってはいけません」
ハルは大きく目を見開き、真剣な表情で咎める。
潤んだ青い瞳が、離れている間ずっと不安だったと訴えている。まだ幼さの残るその顔に頬ずりしたい衝動を、エロイーズは堪えた。
「私は何もしなくて、見ているだけだったわ」
心配させたくなくて、エロイーズはそう言った。
「セオドア様がすっごく強くて、悪人達を次々に退治したのよ!」
「仲直りされたのですか、ロス辺境伯様と」
ハルは少し不満そうだった。
「別館に追い出されたのは、誤解だったみたい。お忙しいのに、心配して探しに来てくれて」
危ないところを助けられた、という言葉は省略。
「馬で港まで連れて行ってくださったの」
「でも、荷物はまだ別館です。本館には入るなと言われました」
ハルは、子どもっぽく口を尖らせる。
「それはね、地下牢から囚人が脱走したらしくて、本館も捜索対象になっているのではないかしら? ベッドの下やカーテンの陰に隠れていたらと思うと怖いわ。今日は移動する余裕は無さそうよ」
本当のところはエロイーズにはわからないが、ハルの頭をよしよしと撫でて宥める。
「猩猩の子どもはどうしたの?」
ハルの説明によると、騎士達に誘導され、子どもの猩猩を抱いたまま『幽霊屋敷』まで足を運んで、もう一人の猩猩と、囚われていた村の人が助け出されるところを見たそうだ。
そこには、人定のために連れて来られたアリアの知り合いもいて、猩猩二匹抱き合ってキュンキュンと鳴く横で、アリアの知り合い親子が抱き合ってワンワンと泣いていたという。
「悪者退治の物語的には、これでめでたしめでたしですね」
とハルは私見を加える。
「そうね。これが子供用の物語なら、悪者が捕まって、人質が助けられて、いつまでも幸せに暮らしました、で終わりそう」
そのおめでたいシーンで、ハルはエロイーズのポーチを見つけて拾った。
「アリアさんの家は、しばらくの間猩猩達と騎士達が使うと言って、私は荷物と共にここに送られました」
「猩猩達は、アリアの家に保護されているのね」
難破した犯罪者達は、騎士達の捜索の手を逃れている間、あの幽霊屋敷に潜伏していたのだろう。できるだけ見つからないようにはしていたはずだが、完全に真っ暗な中で暮らすのは難しいから、カンテラを使った。それがハルには、鬼火に見えたのだ。
生き残った猩猩達の事を、エロイーズは考える。
二匹は無事だったけれど、彼らは親兄弟などの家族、一族を喪っている。その痛みは、当事者でない者には計り知れない。モスタ王国は責めを負うべき者達を捕らえる事ができたが、共和国にとっては『めでたしめでたし』という訳にはいかない。
とにかく、これで国同士の緊張が少しでも緩和されますように、とエロイーズは願う。
ふいに、ハルが悲鳴を上げた。
その視線が、エロイーズの背後に向けられている。
振り返ると、背の高い女がいた。
乱れた金髪に整った美しい顔立ちが半分隠れてしまっているが、昨日の朝押しかけてきて、セオドアの婚約者だと名乗った女だ、とエロイーズは気づく。
やや派手なドレスが、薄汚れていた。昨日もその服を着ていたかどうか、関心が無かったためエロイーズはよく覚えていない。だが貴族令嬢としては有り得ない状態だ、という事だけはわかった。
彼女はキッチンナイフをお腹の前に構え、両手で力一杯握りしめていた。ためらいもせず真っ直ぐに向かってくる。今エロイーズが身を躱して避けたら、刺されるのはハルだ。
ハルを喪う訳にはいかない。
父一人、娘一人なのにここに連れてきてしまった。
この三年はなかなか一緒には居られなかったけれど、子どもの頃から可愛がってきた、少し泣き虫な、可愛い妹分だ。もう少し一緒にいて、大人になるのを見守ってあげたかったのに……。
婚約者の女がぶつかってきた途端、衝撃を受けて、エロイーズはハルと共に倒れた。
「エロイーズ様!」
ハルは、エロイーズの身体を下から掻き抱くようにしていた。
「そのポーチの中身、絶対誰にも見せないで」
彼女にだけ聞こえる声で、エロイーズは囁く。
「もし私が死んだら、叔母様に渡してね」
ちゃんと、伝わっただろうか?
(特に、セオドア様には見られたくない……)
最期の言葉が、いかがわしい本の隠蔽になるとは、なんとも嘆かわしい。
でもせめて、あの禁断の画本を一読してから死にたかった……。
女が叫んでいる。
「権力を振りかざして無理矢理結婚した性悪女を、退治したわ! これであなたは自由よ、セオドア!」
ハルのすすり泣きが聞こえる。
何かが変だと、エロイーズは気づく。
どこも痛くないし、死ぬ気配が無い。
(そういえば、私)
第六部隊の騎士達が、叫んでいる女を取り囲み、剣でキッチンナイフをたたき落として、あっという間に捕縛した。
セオドアが駆けつけてきてエロイーズの傍に跪くのと、彼女が侍女の膝の上で、上半身をぴょこんと起こすのが同時だった。
「エロイーズ!」
「エロイーズ様ぁ!」
生きていてくれた!
セオドアには、それだけで充分だった。伯爵令嬢への対処は騎士達に丸投げした。
エロイーズの助かった理由は、なんとなくわかっていた。さっき馬車の中で、彼女のシャツを半分脱がせていたから。
「大変です、セオドア様」
とエロイーズは、囚われて、叫び、もがいている女を見上げながら言う。
「私、手製の防刃腹巻きをしておりましたの。それが切っ先を防いだので、あの方はナイフの刀身を、握り込んだ両手の中に滑らせてしまったのでは」
状況を想像して、エロイーズは青ざめている。
エロイーズの言った通りで、キッチンナイフは横向きに使う前提で鍔などはついていないから、縦に突き刺そうとすれば、刺そうとする力が作用して、手が持ち手から刃の部分に滑っていって怪我をする。
「君という人は」
セオドアは、彼女を掻き抱いた。
「殺されかけたばかりだというのに、その犯人の心配をするなんて」
「血がっ、血がたくさん出てます! 血が!」
エロイーズは、ズタズタになった女の手から大量に出血している様子を見て悲鳴を上げそうになっている。そのすきにセオドアは、彼女が本当に無傷なのかを確かめた。『手製の防刃腹巻き』と彼女が言った、硬貨を並べて収めている胴回りの下着には、一部ほころびがあった。
たまたま、本当に運良く、ナイフの切っ先はその部分に収められた金貨に当たったのだ。
切っ先の位置が少しでもずれて、金貨と金貨の間に刺さっていれば、エロイーズは死んでいたかもしれない、と思うと、セオドアは震えるしかない。
エロイーズが瀕死の重傷でも負っているかのように、セオドアは彼女を両腕で掬い上げて立ち上がる。
「セオドア様?」
お姫様だっこされて、エロイーズが驚いた声を上げる。
「私、無傷なので自分で歩けます」
「君は、私が手を放すとすぐにどこかへ行ってしまうから、このままベッドに直行する」
セオドアがそう宣言すると、エロイーズは頬を染めて抗議した。
「私、どこにも行きません」
「でも、この二日間」
セオドアは、泣きそうな気分で言う。
「手違いで別館に追い出されたり、ちゃっかりとオレンジ村に住んでいたり、王都に帰ろうと計画したり、やっと連れ帰ってきたと思ったら、今、死出の旅に出ようとしたじゃないか」
「それは……すみませんでした」
エロイーズがションボリと言う。
「いや。君が悪い訳じゃ無くて。何かが私達を引き裂こうとしているようで、怖いんだ。このまま大人しく運ばれてくれないか?」
セオドアが真剣にそう訴えると、エロイーズは素直に頷いた。
「ちょっと必死過ぎたかな」
セオドアは苦笑する。
彼とエロイーズは間近に顔を見合わせて、微笑み合った。
伯爵令嬢を地下牢へ入れるように指示を出した部隊長が、セオドアの所に駆け寄る。
「護衛が間に合わず、申し訳ありません」
部隊長が直立したまま、謝罪した。
「もっと早く、指摘いただく前に手配するべきでした」
「起きてしまった事はもういい。あの女に、医師を手配してやれ。それから、逃走経路を聞き出して、どこからナイフを持ちだしたか、手引きした者はいないか、武器の獲得ルートを調べろ。後は任せる」
医師という言葉に、エロイーズはホッとした様子を見せた。
「医師を手配し、武器の入手方法を調べます!」
復唱した部隊長が本館に向かうと、セオドアの落としたリストを拾ってすぐ傍に控えていたロイドが、その後に続いた。
セオドアも、本館の方へ歩き出そうとするが、エロイーズの言葉に足を止める。
「あの、私、荷物と着替えを別館に置いたままですので、そちらで着替えなくてはなりません。一旦別館へ向かっていただますでしょうか?」
ポーチを提げた彼女の侍女が、隣に立ってうんうんと頷いている。
「ああ」
セオドアは、玄関ポーチ前に並んで待っている使用人達を、ジロリと見た。
「別館は、私の祖父母時代の領主館だったんだ。当時の服も備品もそのままにしてあるはずだ。私も今日から、あそこに住む事にしよう」
「別館にですか? セオドア様も住むのですか?」
エロイーズが驚いて言う。
「君の居る場所が、私の居場所だから」
セオドアは自分の言葉に満足し、自ら大きく頷いて、別館へ通じる小道へと向かう。
その後ろに、ポーチを提げた侍女が続く。
さらにその後ろに、多数の護衛が付き従う。
本館前では、待ちぼうけを食らった使用人達が呆気にとられて、領主の後ろ姿を見送っていた。




