23:劣情
この時、エロイーズの胸を蕩かせていたのは、所謂ギャップ萌えというものだった。
金色の髪に碧い瞳の美しい貴公子、セオドア。
しかも腕が立って頭も切れ、どこから見ても完璧に見える彼が、こんな悩みを抱えているなんて、と、気掛かりだったポーチの事も忘れ、エロイーズはセオドアへの萌え心に蕩け、笑みを浮かべた。
セオドアの瞳に、まさに劣情と言うべき炎が宿ったのはその刹那だ。
いつも小説で読んで、妄想していた『劣情』を、エロイーズは目の当たりにする。
キャビンのシートに押し倒され、のし掛かられて、捕食される小動物のように、彼女は喰われていた。
(あ……んんっ)
荒々しく腔内を犯され、エロイーズが夢中で応えている間に、セオドアの手がシャツのボタンを外していく。
(それは駄目……諸事情で駄目……セオドア様……待って)
馬車のキャビンは、カンテラで照らされている。
キャビンから見た外は暗くても、周囲から見れば、まるで照明に照らされた舞台のように丸見えのはず。
セオドアの大きな男らしい手に、エロイーズの手が添えられる。
押し止めようとするが、セオドアはあっさりと襟元を広げて、手を滑り込ませた。
口づけが、耳へとずれていく。
「エロイーズ」
耳元で囁かれ、彼女はゾクゾクと身を震わせる。
「セオドア様……」
甘い吐息と共に吐かれるその呼びかけが、ますますセオドアから理性を奪っている事に、彼女は気づかない。
(今日は二回キスをして……結婚式でも、ほんの少しだけ触れたから……だから……キスは三回目……)
数を数えておかないと、……何か違う事に意識を逸らしておかないと、変な声が零れ出てしまいそうになる。
巧みに触れてくる指先が、彼女を昂ぶらせていく。
自分の内側が湿り気を帯び、彼を迎え入れる準備を始めている事に、エロイーズは気づく。
これまで彼女は、麗人同士の睦み合いを想像するだけで、幸せだった。
自分自身が、誰かと愛し合うなんて必要ない、有り得ないと、ずっと思っていたのに。
「あ……セオドア様、……っ」
彼が欲しい。
自分の中に、こんな肉欲が眠っていたなんて、と手放しそうになっている自我の中で、エロイーズは驚いている。
「エロイーズ……エロイーズ……可愛い、エロイーズ」
囁かれる名前が、彼女も知らない彼女自身を引きずり出す。
無意識のまま、快楽を求めて、エロイーズは身体を揺らしそうになる。
(はしたないわ、エロイーズ、駄目よ、この馬車、窓が大き……御者台の方にも小窓が……あ、あっ……セオドア様、だめっ……そこは)
彼女の窮地を救ったのは、御者を勤める第六部隊所属騎士ロイドの、脳天気な声だ。
「領主様! そろそろ到着ですが、焼け落ちた厩舎を先にご確認されますか?」
ロイドは初め、馬車の行く手を見ながら、やや横を向いて声をかけたのだが、返事がない。
蹄の音、嘶き、車輪の回転音、石の跳ねる音、サスペンションの軋む音等が終始うるさく響いているので、声が届かないのだろう。
同じ台詞を大声で繰り返しつつ振り返ったロイドは、キャビン内から小窓越しに見返してくる領主の、殺気立った両眼に射貫かれた。
「ひっ」
慌てて前を向いたロイドは、焼け落ちた厩舎横をやや通り過ぎた辺りで、馬車を止めた。本館前には松明がたくさん焚かれて、人が大勢集まっている様子が見える。
ロイドが御者台から下りてキャビンの扉を恐る恐る開けると、具合が悪そうによろめいている辺境伯夫人を支えながら、セオドア・ロス辺境伯が馬車のステップを降りてきた。馬車酔いだ、とロイドは誤解した。
馬を急がせたからキャビンが揺れて、それで奥方様が酔ったために、領主様が怒ったのだと、扉を押さえるロイドの、ソバカスの散った朴訥な顔面が、真っ青になった。
ところが領主は、ステップを下りると彼の肩をぽんと叩いて、
「ありがとう。騎士たる君に、従者の役目をさせて悪かったね」
と、にこやかに言った。
「いえ、とんでもない! お役に立てて嬉しいです!」
訓練通りの直立不動姿勢で、ロイドは答える。
夫人にぴったりと寄り添い、本館に向かう領主を見送りながら、底の知れない恐ろしい方だ、などとロイドは思う。
進み出てきた厩番の男に馬車を任せると、彼は領主の後を追った。
領主館の本館周辺は、騒然としていた。
全ての階で灯が点され、建物の周囲には松明スタンドが多数立てられている。
玄関ポーチに、家令、侍女長、執事他、上級使用人達が並んでセオドアを出迎えた。
その周囲を第六部隊の騎士達が固め、警戒を強めている。
「ご報告します」
玄関前で第六部隊の部隊長ホンブロアが、セオドアの面前に立ち、不動の姿勢を取りながら言う。
「火災発生のため、手順通り地下牢を解き放ちました。鎮火の後必ず戻ってくるよう未決囚達には言い含めたのですが、二名がまだ戻ってきておりません。応援を呼び、警戒中です」
セオドアは、彼の差し出す書類を手に取る。
領地内で犯罪を犯したとされる容疑者のうち、複数の領地から手配を受けている者や、貴族、異国の者、王都出身者など、対外的な問題が生じそうな者を、この領主館地下で拘置していた。
一枚目にあるのは、広域で性犯罪を繰り返した男の名前だ。容疑内容が多く、ページの半分がその男に関する情報で埋まっていた。他領とこの男の処遇について話し合っている途中で、セオドアが王都に出向いたので、拘置したままになっていた。欄外のメモによれば、戻ってきていない容疑者の一人がこの男だ。
その下に、既に刑が確定して専用の刑務所に移送され、線で打ち消された者の名前が続く。
仕方なくエロイーズと繋いでいた手を放し、セオドアは二枚目、三枚目のリストを確認しようとした。
「ハル!」
エロイーズが、弾んだ声で呼ぶ。
セオドアが顔を上げると、別館へ続く小道の入り口に、薄い金色の髪に青い目の、見覚えのある少女が泣きそうな顔で立ってる。
「エロイーズ様!」
アリアの家で、隠し部屋に隠れていた少女だ。
「すみません、侍女と少し話してきますね、セオドア様」
と、嬉しそうに言うエロイーズを、セオドアは引き留められなかった。
「ああ」
少々寂しさを感じながら、セオドアは頷く。
エロイーズがハルを抱き締め、無事を確かめ合い、顔を近づけて、話している様子をセオドアは眺め、ふと気づく。使用人達と自分の周囲には、騎士達が守りを固めているのに、エロイーズと侍女の周囲には誰もいない。
「ホンブロア部隊長」
やや苛立った口調でセオドアは目の前の男を呼んで、エロイーズ達の方を指さす。
「あの二人にも護衛を」
部隊長が二人の騎士を呼び寄せ、護衛役に指名している様子を確認すると、セオドアは再びリストに目を落とす。
二枚目のリストにある者は全て、厩舎の火が沈火した後、牢に戻ってきていた。そして、三枚目のリスト。
『伯爵令嬢 マリー・ベスナド 辺境伯邸に不法侵入。辺境伯夫人に不敬を働く』
逃亡中、とある。
あの女か、とセオドアは思い出す。
前辺境伯の遺言で婚約者に指名された、などと勝手な理由をつけて、何度も領主館にやってきた女。
そして、エロイーズを辺境伯夫人の部屋から追い出して、入れ替わろうとした女。
スタイルが良く、長いうねった金髪にブルーの瞳、整った顔立ちで、世間一般的にはあれが『美しい女』と評されるらしい。だが、父親の伯爵に連れられて来た彼女と初めて会った時、物欲しそうな目でセオドアをじっと見てきて、気味が悪かった。女がうっすらと浮かべる笑みも、ほくそ笑んでいるようにしか見えない。
とても、『美しい女』などとは思えなかった。
何よりも、もう来るな、という簡単な一言が通じない。
ベスナド伯爵は、ここから北方面へ山を幾つか越えた盆地に小さい所領を持ち、セオドアの亡き父親とは貴族学園で同級生だったという。マリーの押しかけ行動についてセオドアは何度か苦情を入れたが、伯爵は丁寧な謝罪の手紙を送ってくるのみで、何の対処もしない。今回の件でセオドアは、王家を巻き込んで伯爵にも処罰を下してもらう方向で考えていた。
逃げたなら逃げたで、さらに厳しい処罰を願い出るまでだ──。
悲鳴が聞こえて、セオドアは顔を上げる。
松明の光を反射する、刃物のきらめきが見えた。
キッチンナイフを構え、ドレスを着た金髪の女がエロイーズに向かっていく。
二人の護衛が駆け寄ろうとしているが、間に合わない。
悲鳴を上げているのは、エロイーズの侍女だ。
後ろを振り向いたエロイーズは、避けなかった。
避けられなかったのか、それとも、避けたら侍女が代わりに刺される、などと思ったのかはわからない。
血が滴り落ちる。
女とぶつかった衝撃で、エロイーズが侍女を庇うように抱き締めたまま、倒れていく。
何もかもが一瞬の出来事で、セオドアの伸ばした手は彼女に届かない。
血まみれのキッチンナイフを握りしめたまま、伯爵令嬢が叫んでいた。
「権力を振りかざして無理矢理結婚した性悪女を、退治したわ! これであなたは自由よ、セオドア!」




