22:領主としての義務
ニコニコとしてセオドアを出迎えたエロイーズは、平民のようなズボンとシャツを着ている。胸の大きさで窮屈そうに見えるシャツの胸元が、どんなドレスを着るよりもなまめかしい。
「格好良かったです、セオドア様!」
弾んだ声でそう言って見上げるエロイーズを、セオドアは両腕で掻き抱く。
戦いの余韻なのか。
血が滾るのを、セオドアは感じる。ちょっとした切っ掛けで、雄としての自分を抑えられなくなりそうな予感があった。
「私と結婚して欲しい、エロイーズ」
感情の赴くまま、いきなりそう口にしたセオドアは、あらかじめ考えておいた全ての台詞について、言うべきタイミングを間違えた事に気づいた。場所も、けが人多数の騒がしい捕り物現場を選ぶべきじゃなかった。そうしたセオドアの後悔やもどかしさを、エロイーズは、その小柄な身体で包み込んでくれた。
両腕で縋り付くように、エロイーズはセオドアを引き寄せて、少し恥ずかしそうに、耳元で囁く。
「私も、セオドア様と結婚したいです」
どれだけの幸福が、セオドアを貫いたか。
自分自身の言葉で、声で、セオドアは彼女に求婚したかった。
エロイーズは彼のその気持ちを、的確に汲んでくれる。
もう結婚しているでしょう、などと茶化さないで、真っ直ぐに受け止めてくれて、彼女自身の言葉で応えてくれる。
そんなセオドアの感動を、彼の後ろ姿から察知できるような繊細な部下は、この場にはいない。
「馬車の用意が調いました!」
と、元気に呼びかけた第六部隊のロイドは、振り返った主の、恐ろしいまでに睨み付けてくる様子に後退った。
「そうか。ありがとう」
返ってきた言葉は、その表情からはかけ離れたごく普通のものだったので、ロイドはやや呆気にとられた表情で主の顔を見返す。
「馬車は助かりますわ」
エロイーズがロイドに微笑みかけた。
「オレンジ村で、私の侍女が待っているのではないかと思うので、迎えに行ってあげても良いでしょうか」
「彼女は猩猩と一緒に、騎士団で保護されているから大丈夫だ」
セオドアは、ロイドに向けられる彼女の視線を遮るように、自分の身体を割り込ませて言った。
「君は私と共に領主館に帰って、領主としての義務を果たすのを手伝ってはもらえないだろうか?」
「もちろんですわ。私ができる事でしたら何でも、お手伝いいたします」
と言ってから、エロイーズは少し考える様子を見せた。
具体的には何を手伝うのか、と訊かれたらどう答えようかとセオドアは身構えるが。
「猩猩達は、この後どうなるのでしょうか?」
さすが、情の深い彼女らしい疑問だ。
「中央に、この顛末を報告してからの決定にはなると思うが、最終的には共和国へ移送する事になるだろう」
と、セオドアは答える。
難破船乗組員達の調書と共に、なるべく早く中央に書簡を送らなくてはならない。
「故郷へ帰れるのですね」
と、エロイーズは嬉しそうだ。
その彼女の純粋さに比べて、自分はなんと不純な男だ、とセオドアは思う。
(別の男に向けられる微笑みが許せなくて遮ったり、領主としての義務、などという欺瞞を……いや、欺瞞ではない、後継者を作る事は、確かに領主としての義務のうちに入るのだから)
「領主館の被害は、厩舎だけか?」
とセオドアはロイドに問う。
「はい。木造の厩舎と飼い葉、それから若干の付属物が燃えた程度です」
それは、セオドアの予想通りの答えだった。
少人数の奴隷商人達に、騎士達と家人に守られた頑丈な領主館を落とせるとは思っていない。領主館の南側に古い木造の厩舎を放置していたのは、わかりやすい『弱点』を置いておけば、万が一敵襲があってもまずそこを狙うだろう、という先代からの指示が生きていたせいだ。
敵が弱点に攻撃を仕掛けている間に、本館の守りを固める時間が取れる、という意味合いがあったのだが、獣人は領主館の襲撃を目論んだ訳ではなく、街の南で船を奪うために注目を北側に集めたかっただけだから、厩舎に火を付けた後はすぐに逃亡したようだ。
本館に問題がないなら、帰ればすぐに『領主としての義務』を果たす事ができるな、などと思うセオドアだが、エロイーズは気遣わしげに言う。
「こちらでは怪我人がたくさん出ましたが、領主館の皆様はいかがですか?」
「厩舎は老朽化が激しく、使われていない建物だったので、火災に巻き込まれた者はおりませんし、『狼男』は逃げるのに必死で攻撃して来なかったので、怪我人は一人もおりません」
ロイドがそう答える。
「それは何よりです」
と、にこやかに応じるエロイーズが、セオドアの目に眩しい。
馬車の待機所まで移動する間中、彼女が自分を追い出した家人の無事を心配しているのに、お前は挿れる事しか考えてないのか、と内なる声がセオドアを責め続けた。
港から領主館まで、馬車で十五分ほどの旅程だ。
キャビンの四隅外側には、それぞれランタンが備えられており、中にいるエロイーズ達と、馬車の周囲を照らしていた。
黒地に金の縁取りをされた馬車は、途中、噴水広場を通りがかる。
エロイーズは、オレンジ村の方角にチラリと視線を向けるが、夜の闇に沈んでいて見えなかった。近くにあるカンテラの灯りが明るいせいだろう。
(ハルは今どこに居るのかしら)
騎士団に保護されたというから、彼女の身の安全については心配していないが、エロイーズが気にしているのは、ポーチの行方だ。
誰が拾って、中を検めて、何を思っただろうか?
特にあの二冊の画本。
見ただけで、発禁図書だとわかってしまう。
(いえ、あれは困った方から買い上げたもので、そのような恐ろしい内容だとは知らなかったのです……)
エロイーズは心の中で、言い訳を練習する。
(側妃様への贈り物にどうかと買ったものです……確かに、少し不思議な本だなとは思いましたが、側妃様はたいていの本をお持ちなので、これぐらい不思議な本でないと、と思いまして)
一冊も読めないままあのポーチを失ってしまったらどうしようと、惜しむ気持ちもあるが、あの画本を買ったのは悪手だったという、後悔の方が大きい。
(せっかく心が通じ合ったのに、セオドア様にあのような本の存在を知られたら、離縁されてしまいます)
隣に座ったセオドアは、難しい顔で黙り込んでいる。
何か深刻な悩みがあるのだろうと、エロイーズは思った。
難破船の件は、緊急に対応しなくてはならない段階は過ぎたとしても、今から各方面に報告し、中央からの調査団を受け入れ、猩猩の移送に関しては共和国と直接対話する必要があるかも知れない。
(調査団の方々には、領主館の別館を使っていただく事になるかしら。貿易については、中央にいる貴族達が窓口になっていて、共和国側の人は空を飛ぶ船で王都に来るそうだけれど、猩猩の移送に関しては、どうなるのでしょう。このロス領は最南端だし、共和国からは近いはずだから、王都ではなく直接この地に、空飛ぶ船で来てもらえたらいいのに)
セオドアの負担を軽くしたくて、つい心の中であれこれと考えてしまうエロイーズだが、それが全く的外れだとは気づかない。
(領主としての義務を果たす前に、中央への報告用書簡の草稿を作らなくては。いや、その前に、エロイーズを部屋に案内しよう。使用人達が、綺麗に整えているはずだ)
部屋に入るまで、彼女の手を放さないぞ、とセオドアは思う。手を放したら、エロイーズがどこかへ行ってしまうような気がして仕方が無い。
(部屋に着いたら、彼女に説明をしなくてはならない。『領主としての義務』が、具体的に何をさすのか)
欲望を剥き出しにして軽蔑されたくないので、セオドアはあくまでも義務だと言い張るつもりだった。
(それから、私に女性経験がない事を説明し、許しを請おう。できるだけ努力はするが、おそらく、痛みだけを与えてしまうと……)
セオドアは、ドミリオから聞いたある童貞の話を思い出す。ドミリオより一つ下のその男は、大変見目麗しい容姿をしてたために、夜会で美しい令嬢に気に入られ、褥に誘われたが、初めてだったために彼女を満足させる事ができず、罵られ、裸で部屋の外に放り出されたという。
『それ以来彼は、美しいご令嬢がトラウマになってしまったようでね。美しくない女性達の間で浮き名を流し、最後にはとうとう、男性と駆け落ちしてしまったんだ』
エロイーズが誰かを罵るとは思えないが、心の中で落胆されてしまったらどうしようと、セオドアは不安に駆られる。貴族学園時代、ドミリオが学内に持ち込む書籍の内容に呆れていたが、思えばあれは、今の自分に最も必要な知識だ。羞恥心にまみれながらも一通り読んだ当時の自分を、褒めてやらなくては。
「セオドア様」
呼びかけられて顔を上げれば、エロイーズがすぐ隣から心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? 何かお悩みでしたら、私で良ければ聞きますよ。話しているうちに気持ちが軽くなって、解決方法を思いつくかも知れません」
「エロイーズ」
彼女の両手を取って、セオドアは自分の両手の中に包み込む。
「私は、君との子どもが欲しい」
「子ども……」
驚き、恥じらう表情のエロイーズを見ながら、ああ、何を言っているんだ私は、順番も内容も考えていた事と全然違うじゃないか、とセオドアは焦る。焦れば焦るほど、冷静さを失っていく。取り繕う事もままならず、彼は言い募った。
「いや、あの、違うんだ。子どもは、どうでも良くて、いや、どうでも良いわけじゃなくて、その、後継者をもうけるのが領主の義務なんだが……」
駄目だこれは。
好きでもないのに子どもを作るためにやる、みたいな言い方になってしまう。
「本当は義務なんてどうでもいい。ただ、私は君と繋がりたい。あああ、そんな。そんな言葉を使うつもりはなかったんだ。……でも私には、女性経験がなくて。君に痛い思いをさせるのかと思うと……。すまない。こんな、ロマンチックの欠片もない男で。君に失望されはしないかと、今とても怖い」
エロイーズは、優しい笑みを浮かべた。
その蕩けるような甘い笑みに、セオドアは魅入られる。
「大丈夫ですよ、セオドア様。一人で気負う必要はありません。私達、これから毎日、夫婦として過ごせるのですから、ゆっくりと、二人一緒に経験を積み重ねて参りましょう」




