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20:陸風

 エロイーズは、自分の胸をかき抱くように掴んでいる大きな手に、そっと自分の両手を添える。


 初めはセオドアの容姿に惹かれた。

 でも、その容姿には関係なく、領主として夜中でも対応に当たる姿勢や、神聖帝国の悪者と対峙した時に見せた強さ、格好良さ、頭の良さ、そして、今見せてくれているような、小さな欲望に負けてしまう人間らしさも、いいなと思い始めている。おそらく兄ドミリオは、そういう彼をまるごと知った上で、妹の幸せを願って結婚話を強引に推し進めたのだろう。


「私も好きです、セオドア様。……大好きです」

 ごく自然に、その言葉が出た。


 耳朶に、後ろから柔らかなキスが押し当てられる。

 ひゃ、とエロイーズが小さく声を上げると、

「可愛い……」

 と囁かれた。

 その声の色っぽさに、今彼がどんな顔をしているのかと想像して、エロイーズの鼓動が早くなる。


 馬は、倉庫らしい建物群の横を通り抜けていくところだった。

 潮の匂いが強くなったと思ったら、ふいに、道の両側を遮っている建物が途切れて開けた場所に出る。

 そこには大勢の騎士達がいた。

 目の前に見えているのは、入り江になった海だ。

 護岸に並ぶ松明の火が、黒い海のうねりを照らしている。


 大きな桟橋がいくつも海に向かって突き出ているが、今係留されているのはマスト一本の小型船が一隻のみ。

 本来なら、この桟橋に船が何隻も停泊し、消灯にはまだ少し早い時間だから、カンテラの灯が灯されて、賑やかなはずだ。

 港が閉鎖された、とアリアの店に来ていた男達が言っていたのは、大型船がこの港に接岸するのを禁じられた状態、という意味だろう。


 騎士達が、沖合をさして何か叫んでいる。

 月明かりの下、入り江の出口を目指す二本マストの小型帆船の輪郭が見えた。

 セオドアが馬を止める。

 彼が下馬して、エロイーズに手を貸しているところへ、アオギがやってきた。

 エロイーズが降りた後、馬は、近くに厩舎があるようで、騎士の一人に連れられて行く。


「船を奪った者の一人は、金髪に碧眼、長身という風体からみて、ベリシュテ神聖帝国の者だと思われます」

 アオギは、後ろに控えている騎士の一人を指し示す。

「ですがもう一人については、この者の報告によれば、別の可能性があると」

 進み出た騎士が、少し青い顔をしながら報告する。

「北エリアを担当していた第六部隊のロイドです。私は火の手の上がった古い木造の馬小屋付近から逃げた者を、港まで追って来ました。向こうは走っていて、私は馬に乗っていましたが、追いつけませんでした。あれは、人間ではありません。化け物です。能力が人間を超えています」


「それでは、この国の者ではなさそうだな」

 ほっとした顔で、セオドアが言う。

 第六部隊のロイドはその反応に驚いたらしく、まじまじと彼を見た。

「作戦終了までこの場で待機していてくれ」

 ロイドは不思議そうにしていたが、頷いて、下がった。


 アオギが報告を続ける。

「その者と神聖帝国の者二名で、しばらく起重機類の陰に待機していたようです。村で捕縛した連中と、ここで落ち合う予定だったのでしょう。諦めて二人で船を奪い、出航に踏み切ったのが、たった今です」


「合計で四名いたという事か。あの難破船を動かしていたにしては少人数だな」

 セオドアが、エロイーズを振り返る。

「猩猩達に、大型帆船の操船ができると思うか?」


「指示さえあれば、マストに登って帆を操るのは、人間よりも得意なのではないでしょうか」

 と、エロイーズは答えた。

「猩猩は、言葉こそ話しませんが、人の言葉を理解します。手足の構造も、マストを上り下りするのに向いていますし、器用な手はロープを結んだり解いたりできるでしょう。私の知識は小説から来たものですが、さっき本物を見て、小説内にあった猩猩の記述はほぼ真実だと思いました」


「だからこそ、奴隷としての、需要がある訳ですな」

 アオギが言う。

「あのたくさんの猩猩達はおそらく、神聖帝国に運ばれる途中だったのでしょう。共和国はこの件で、神聖帝国に戦争をしかけますでしょうか?」


「それはない。我が国が現在共和国と緊張状態にあるのは、奴隷狩り疑惑のせいではなく、別の事件のせいだ」

 セオドアは厳しい表情で、遠ざかりつつある小型帆船を見送っている。

「猩猩を二匹生かしておいたのは、帰りの航路で手伝わせるつもりだったのか」


 共和国と緊張状態にある、というのはエロイーズにとって、初めて聞く話だった。

 共和国には変わった動物が住み、狩猟が盛んで、技術力も発達しており、決まった窓口を通じての王国との交易品目は多いが、人の行き来は制限されている。どこに緊張状態に至るような事件が発生したのか、エロイーズには想像もつかない。


 だが、今回の猩猩の件にモスタ王国が関わっていたとしたら、非常に良くない結果を生む、という事は、エロイーズにもわかった。

(だから、さっきセオドア様は化け物と聞いて、ほっとしたお顔をされていたのね。悪い人達を全員捕まえて、共和国に、王国の無実を証明しなくてはならないのだわ)


 今逃げつつあるあの悪者達の末路は、どうなるのか。

 そう問う間もなく、船の航行が明らかに異常を来し出した。

「始まりました」

 と、アオギが揉み上げを引っ張りながら、愉快そうに言う。

「人が乗ると、小さな破損箇所が水面下になり、水の侵入が止まらなくなるんですよ。偶然の産物ですが、修理前で良かった」


「もう一隻の方を彼らが選んでいたらどうなった?」

 とセオドアが尋ねる。

「あちらは、ステイロープが劣化しておりますので、陸風を受けて入り江の出口を目指し始めた途端に帆が飛んで行くでしょうね」

 その様子を想像したのか、アオギは喉の奥で笑っている。


 セオドアが、本来停泊していた船を入り江から遠ざけ、壊れた船だけを用意しておくように、指示したのだとエロイーズは気づいた。

 異国人達は、港の普段の様子を知らないから、罠だとは気づきにくかっただろう。囚われたオレンジ村のラゴも、港の位置だけを教えたようだ。


 陸風というのは、夜に陸から海に吹く強めの風の事だ。

 理屈はよくわからないが、日中は海から陸へ風が吹き、夕凪を挟んで、夜は逆に陸から海へと風が吹くと聞く。朝凪もあるらしい。

 今、陸から海側に、割と強い風が吹いていた。


 沈みゆく船を見捨てた乗員が、夜の海に飛び込んだらしい音がかすかに聞こえた。彼らは騎士達がまばらに待ち受ける桟橋か、もしくは騎士達が多数待ち受ける護岸に向かって、泳ぐしかない。


 後は、泳ぎ着いた彼らを捕縛するだけ、というやや緩んだ空気感が漂い始める。

 部隊ごとの長が指示を飛ばしているが、その声が弾んでいた。

「帆船が完全に沈む前に、曳航しなくては」

 とアオギが言ったのも、明日から港を正常稼働するなら、入り江に帆船が沈んでいるのは事故の元だという考えからだろう。

 エロイーズも、アリアの店に居た男性達の事を思う。

 彼らもやっとこれで、仕事に復帰できそうだ。


 少し離れた護岸で、長身の男が一人、海から引き上げられた。

 彼が捕縛される様子を、セオドアが見守っている。

「これで三人……」


 ふいに、数人の鈍い悲鳴が上がった。

 そちらを見ると、護岸中央にある桟橋を守っている騎士達が、隊列を乱している。


「下がれ! 下がるんだ! 距離を取れ!」

 叫んでいる騎士が、別の騎士を支えながら桟橋を後退してくる。

 その桟橋は、エロイーズ達から近い位置にあったので、支えられている騎士が肩から腕にかけて負傷している様子が見えた。

 セオドアが、エロイーズを自分の後ろに下がらせる。


 松明と月の薄い明かりを受けながら、桟橋の端に仁王立ちしている人物は、上半身に衣服を着けていない。

 身体を大型犬のように震わせて、水を弾き飛ばすと、全身の毛を逆立てた。

 大きな耳が、上に向かってぴんと立っている。


 その頭部は、犬に似ているが犬ではない。

 前を眼光鋭く見据える目は、つり上がっている。

 威嚇するように大きな歯がむき出しにされ、鋭く尖った牙が見えた。


「狼男だ!」

 誰かが叫び、桟橋にいた騎士達は一斉に護岸へ向かって走り始めた。

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