19:タンデム
アリアの家の手前辺りまでは領主館が見えていたはずだが、今は山に隠れているのか、それとも夜の暗闇のせいか、月明かりにうっすらと煙る空しか見えない。村の南寄りの位置からなら、炎が見えたのだろう。
「想定の範囲ですな」
と、グレーの揉み上げを引っ張りながらアオギは言った。
「ああ」
セオドアも頷いた。
「領主館の皆様は、大丈夫なんでしょうか?」
どこかのんびりとした様子の二人に、エロイーズは不安を拭えない。
「セオドア様は、今から向かわれるのですね?」
「君も一緒に行こう」
セオドアが、エロイーズの手を引いて、用意された馬へと向かう。
大勢の騎士達とアオギも馬に乗る準備をしている。
「火を消しにですか?!」
「悪人達の末路を見に行くんだ」
セオドアは、爽やかな笑顔を浮かべる。
その顔に見惚れている間に、ひょいと幼子のように脇を抱えられて、エロイーズは馬に乗せられた。
貴族学園を出てすぐに第二師団に入り、以来軍人として身体を鍛えてきたセオドアにとっては、エロイーズの体重など無きに等しいらしい。
「でも、侍女のハルがまだ、近くの民家に隠れているのです。私が行かないと、ずっと隠れている事に」
「彼女なら見つけたよ。だから、ここがわかったんだ」
セオドアが事もなげに言うので、エロイーズは驚いた。
「あの扉を、見つけたのですか」
「うん」
エロイーズの賞賛するような視線を受けて、セオドアは嬉しそうに微笑む。
彼が鐙に足を掛け、エロイーズの後ろに乗ると、馬は二人分の重荷に不満を表す様子もなく、ゆっくりと歩き出した。
セオドアの左腕が、馬から落ちないようにと、しっかりエロイーズの胴を抱えている。
後ろ髪を引かれる、という表現が、エロイーズの読む小説にはたびたび出てくる。
だいたいは、恋人の元を去る時に使われる言葉だが、今エロイーズの心情を言い表すならまさに、後ろ髪引かれ状態だった。
振り返りたいのに、できない。
(私のポーチ!)
セオドアに気づいて動揺したのか、男にぶつけたタイミングで、彼女は思わず手を放してしまった。
(それを敵に拾われて武器として使われ、セオドア様にあのような迷惑をかけるなんて)
と、彼女は意気消沈していた。
だから今更、ポーチを持っていきたいなどとは言い出せない。
男が捕縛されている間にこっそりと拾おうとする企みも、失敗した。
ハルに、拾っておいて欲しいと伝言する事もできなかった。
(誰も中を見ませんように……)
気にはなるが、仕方が無い。
万一の時には、よく見ずに適当に買った、という言い訳が、通用するように願うしかない。
(それよりも今は、この状況をよく考えなくては)
エロイーズは、気持ちの整理をつけようとした。
『君は、私が初めて好きになった人だ』
と、セオドアが言った。
『好きになった』
その単純な言葉を、彼女は何度も頭の中で繰り返す。
(好きになった……? 私を……?)
背中に感じる彼の逞しい身体と、胴に回された腕を、エロイーズは急に意識する。
(私を……? お兄様ではなく……?)
兄のドミリオを見た瞬間の、セオドアの笑顔が、頭の中に何度もちらつく。
(こんな、素敵な方が、私を)
こんな素敵な方が私を好きだなんて、信じてはいけない……その考えは、もしも勘違いだったと後でわかったら、自分が酷く傷つくだろう、という保身の気持ちから来ている。
私が、好かれる訳がない、という卑屈な思いが自身のどこかにある事に気づいて、エロイーズは自分を俯瞰した。
(自己中心的な保身や卑屈さで、セオドア様の純粋な気持ちを拒絶するなんて、馬鹿ね、エロイーズ)
自覚する事で、すっと、負の感情が消えた。
『君は、私が初めて好きになった人だ』
改めてその言葉を思い起こして、エロイーズは体中が熱くなるのを感じた。
(私の事を、好きとおっしゃった)
幸福感と、気恥ずかしさが、同時に襲って来る。
『使用人達に、君の部屋を用意しろと言ったのは、本がたくさん入る部屋という意味だったんだ』
そうだったのね、とエロイーズは思う。
兄のドミリオが、本をたくさん買ってやれと言い、セオドアがそれを生真面目に実行しようとし、使用人が勝手に、別館へ追い出せという意味に曲解したのだとエロイーズは察した。
(大変だわ! お兄様に、訂正の手紙を送らないと!)
本と言えば、さっき、
『どうか、君の好きな本について、教えて欲しい』
と言われた事を思い出す。
無理……それは無理です、とエロイーズは表向き無表情のまま、身悶える。
『一緒に街へ出るたび、君の好きな本を一冊贈ろう』
それが、街へ行って一緒に本を買おう、という意味だとしたら、エロイーズは彼の目の前で、あの手の小説を買う事になる訳で。
(一般の小説に擬態しているものも多いから、案外わからないかも知れない)
エロイーズは楽観的に考えようとするが、初見で食器棚の隠し扉に気づくほど目端の利くセオドアが、気づかない訳がなかった。
『君の本棚が、君の好きな本でいっぱいになった頃』
という言葉でエロイーズが想像したのは、本棚いっぱいの、いかがわしい本だ。
(お兄様と違って、まだそこまでは踏み切れません……)
などと考えていたエロイーズだったが、ふと、北へ行くなら月の位置が逆だと気づいた。
「行き先は、領主館ではないのでしょうか?」
馬は噴水広場を経由して、南に向かっていた。
夜なので、道の両側に並ぶ店の殆どは閉まっていて、人気はほぼ無い。酒場だけが営業中を知らせるカンテラを下げている。
騎士を乗せた他の馬が、時々エロイーズ達を追い越していった。
それにつられたように、馬が時折速度を上げるが、セオドアがその都度手綱を操って、元の速さに戻す。エロイーズに危険がないようにという配慮だろう。
「領主館の火付けはただの陽動だ。悪人達は北側に騎士達を集中させておいて、南側で事を起こすつもりのようだ」
セオドアは身を屈めたらしく、彼の声がすぐ耳元で言った。
とても柔らかいものが耳朶をかすめ、エロイーズは身をすくめた。
「大丈夫。この辺境の地では、外敵からの侵攻を想定して手順を決めてある。領主館を守っている騎士達は、手筈通りに動くだろう」
「あの……」
エロイーズは、セオドアの腕の位置が変わった事に気づいた。
「では南へお急ぎになった方が……」
「アオギ達が先に行った。昨日のうちに、作戦は立てておいたから大丈夫」
「……セオドア様」
エロイーズは自分の大きな思い違いを、改めて実感する。
(そう……セオドア様は、『女性には勃たない』方ではなかった訳で……)
当初エロイーズは、兄を好きで、男性しか愛せないセオドアと結婚したので、身体の関係は一生無いものと思っていた。
セオドアを傍で眺めていられるのなら、そうした仮初めの結婚でも良かったのだ。
それが全て勘違いだったと知った今、エロイーズは、自分を好いてくれている男性と本当の意味で結婚していて、今後は顔や容姿を鑑賞するだけでなく、身体を触れ合って、あれやこれやする関係なのだと、思い当たった。
(あれや……これや……この方と、私が……)
一瞬、気が遠くなった。
「うん、その……」
セオドアは、うろたえたような声が、エロイーズを現実世界に引き戻す。
「私は、君との心の距離を充分に詰めた後、こういう事をしていいか訊こうと、思っていたんだが……今ちょうど、掴みやすかったので」
掴みやすかったので……エロイーズが小柄なので、場所的に胴よりも胸の方が、手が届きやすい、という事だろう。
「そ……そうですわね。しっかり掴んでいただかないと、私、馬から落ちます」
馬の歩みはゆっくりだったが、落ちたらちょっとした怪我どころでは済まない高さだ。
はるか下に見える道は、馬が歩きやすいように固められている。
「……嫌ではない……?」
「ええ、もちろん! 旦那様ですもの」
つい今し方その事に思い至りました、という事はおくびにも出さず、心得た風にエロイーズは言う。
そんな事とは気づかないまま、結婚に至るまでの短い日々や領地に到着した日の会話で、何か変な事を口走らなかっただろうか、と彼女は必死に思い出そうとしていた。
(兄の事をしきりに話題に出してしまったけれど、世間話程度に収まっていたはずよね?)
「さっき、あんな事を言って、その……まずは文を交わし、それからデートをして、もっとロマンチックに進めようと思っていたんだが、……それまで待っていられないような気がしてきた」
と言うセオドアの手は、エロイーズの胸から離れない。
「それは、もちろん夫婦ですから」
(ロマンチックに進める、というのは、本棚を私の好きな本でいっぱいにする話ですね?)
エロイーズは、自らの腹黒さにそそけ立つような思いを抱きつつ言った。
「遠回りせずとも、自然に任せていただいて大丈夫ですよ。でも、お手紙は書いてくださいね」
これで、好きな本を告白するという羞恥プレイは回避できそうだと、エロイーズは安堵する。手紙については、文章を読む事も書く事も大好きなエロイーズなので、セオドアからもらえるものなら是非とももらいたかった。
「書くよ、何度だって書く。君の事をたくさん知りたいから、たくさん返事が欲しい」
セオドアの返事に、エロイーズは嬉しくて前のめりになる。
「私も、セオドア様の事をたくさん知りたいです。どんなものが好きか、どんな子どもだったか、亡くなられたご両親の話や、貴族学園時代の話、騎士団時代の事を、たくさん教えてください」
何気なく口にしたその願望が、セオドアの魂を揺り動かした事に、エロイーズは気づかない。
セオドアは、自分の事ばかり喋る令嬢達から、愛の言葉を求められる事はあっても、彼自身について教えて欲しいなどと言われた事はなかった。
生真面目故に彼は、家人や私兵達には常に、領主として接してきた。
個人としての自分は、辺境伯となってからは無いに等しい。それが当たり前だと思っていたし、不満を感じた事は一度もない、が。
エロイーズに教えて欲しいと請われて初めて、セオドアは、役目を果たそうとするあまり、何年も置き去りにしてきた自分自身の存在に気づく。
エロイーズから差し伸べられた手は、領主としての彼ではなく、セオドア自身に向けられていた。
(だからこそ、私の、一人の人間としての人生は、エロイーズと出会った時から新しく始まったんだ)
感極まった声でセオドアは言う。
「ああ、エロイーズ。君が好きだ。本当に好きだ」
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