17:猛者
「神聖帝国の人間のようですな。心臓の上に、ベリシュテ神の紋章が入れ墨されています」
倒れていた男を調べて、アオギが言った。一人の若い騎士が彼の後ろから、カンテラの灯を翳している。
「神聖帝国からこの領に入った者は全員把握していますが、この男には見覚えがありません。まあ、顔を酷く殴られたようで、鼻が折れているし、カンテラの灯では別人に見えるだけかも知れませんが。頭にも裂傷があります。いったいどんな猛者とやり合ったのでしょうね。剣を使わずに、ここまで圧倒的に制圧するとは」
探していた奴隷商人かも知れない、という事で、監視役として騎士を二人その場に残す事にした。
セオドアは、馬を下りて命じる。
「この男は絶対に逃すな。我が国の今後の安全にも関わってくる可能性がある」
騎士を一人街に戻して、運搬用の荷車を呼ぶ事にした。
馬に乗って来たのはセオドア一人だったため、街に戻る騎士に馬を託す。カンテラを持つ騎士一人とアオギを伴って、セオドアは徒歩で先を急いだ。
エロイーズが居るはずのアリアの家は、目の前だ。
そのすぐ近くに、酷く殴られ、後ろ手に拘束された神聖帝国の人間が落ちているなんて、不穏過ぎる。
胸騒ぎを覚えながらセオドアは、教えられた場所にある家を訪ねた。
アリアの家は二階建てで、二階は暗く、一階の窓からは明かりが漏れていた。
ノッカーの音に、反応はない。
玄関には鍵がかかっておらず、開けてみると、玄関から入ってすぐの居間のテーブルの上に三叉の燭台があった。
燭台に載った三本の蝋燭には火がついたままだが、人の姿はない。
「エロイーズ!」
呼んでも返事は無く、小さな民家は静まりかえっている。
居間の奥の、短い廊下の向こうにキッチンらしいスペースが見えた。
キッチンへ行ってみたが、誰も居ない。
壁の燭台には、灯の点った蝋燭がある。
竈にはまだ、火の熾った薪が赤いままだ。
ついさっきまで、エロイーズがここに居た事は間違いない、とセオドアは思う。
「二階を見て来ます」
そう言って、うしろについて来ていたアオギともう一人の騎士が、階段のある玄関へと戻る。
火の始末をしないまま部屋を離れたという事は、何か危急の用があったはず。
「いったい、何があった?」
セオドアは呟く。
さっき見た、あの異国人が関係しているのだろうか?
キッチンから外に出る勝手口には、掛けがね式の鍵があったが、鍵は掛かっていない。
開けてみると、暗い夕闇が見えた。
おそらく井戸やトイレがあるのだろう。
勝手口の扉を閉め、アオギ達の方へ行こうと歩きかけて、ふとセオドアは足を止めた。
奇妙な気分に陥る。
何かが変だ。
傾いだ家の床に立っているような、納得のいかない感覚がある。
セオドアは、暗い燭台の炎に照らされた情景から、この家の間取り図を心の中に描いた。
一階にあるのは、玄関と居間とキッチンだ。
階段は玄関の脇に位置し、アオギ達はそこから二階に上がった。
玄関と居間の間に仕切りはない。
キッチンは、短い廊下で居間と繋がっていて、居間側の壁に、作り付けの食器棚がある。
本来なら、食器棚の奥行きと廊下の長さは同じのはずだが、合わない。
セオドアは無意識のうちに、その長さを測って比べていたようだ。食器棚がほぼ空でなかったら、奥行きが浅過ぎる事には気づかなかっただろう。
セオドアは、食器棚に手を掛けてみた。
動く。
彼はそっと、棚を手前に引いた。
棚が扉のように開いて、小さな部屋が現れる。
十四、五歳ぐらいの少女が座り込み、目を見開いて、こちらを見上げていた。
セオドアは、自分を落ち着かせるために、長い息を吐き終わってから、しゃがみ込んで、少女と目線を合わせた。
大きな毛布のようなものを、少女はしっかりと抱いている。
「私は、セオドア・ロスだ。君は、エロイーズの侍女の、……ハル?」
怯えていた少女の目が、安堵の色に染まる。
彼女はくしゃりと表情を歪め、頷いた。
「はい。この子は、猩猩です。とても賢い子で、悪い人に追われているから、エロイーズ様が、守れと」
エロイーズの居場所を訊こうと思ったら、思わぬ話をするので、一瞬何の事かとセオドアは困惑した。
だが、毛布だと思っていたものが動いて、犬のような顔がこちらを向いた時、彼は理解した。
「生き残りがいたのか……!」
そして、この犬の顔をした猿は、猩猩というのか。
エロイーズはどうやってその名前を知ったのだろう?
(彼女は読書家だから、カプリシオハンターズ共和国の書籍なども読んだ事があるに違いない)
そうセオドアは思い当たる。
猩猩が、キュンキュンと鳴き始め、少女が宥めるように、その背を撫でた。
「それで、エロイーズはどこへ?」
気が急くあまり、その質問を怒鳴りそうになるのを、セオドアはさっきから懸命に耐えていた。
「アリアの知り合いが囚われているかも知れないとおっしゃって、幽霊屋敷へ」
「幽霊屋敷?!」
「隣の空き家です。勝手口を出て、川を渡ったところの」
少女が勝手口を指さすと、猩猩もそちらを指さして、キュンキュンと鳴いた。
「今の話を、後から来るもみあげの濃いおじさんにも伝えてくれ」
言い終わらないうちにセオドアは、勝手口を開けて外に飛び出した。
暗いので、まず薪割り用の台にスネをぶつけ、苦しんだ。
次に井戸の縁にぶつかった。
行く手を阻む小さな小屋をどうにか避けて、なだらかな斜面を下る。
正面に、二月齢分欠けた月が昇り始めていた。
(エロイーズ、君は)
まだ充分とはいえない月明かりの下、セオドアは足を載せる岩を選びながら川を渡る。
(そんな可愛らしいなりをして、あの猿君を助け、今また勇敢にも、見知らぬ領民を助けに行ったのか)
愛おしさに、胸が苦しい。
一目惚れから始まったが、これはもう、一目惚れの領域ではない。
セオドアは、彼女のもとへ駆けつけるべく、必死に坂道を駆けた。
灯りの点いていない、家らしき影が見える。
不意に前方から、連続する爆発音のような凄まじい音が聞こえてきた。
(これは……爆竹か?!)
思い浮かんだのは、貴族学園時代のドミリオだ。
彼は、剣の修練の時間が嫌いだった。
長めの導火線を付けた爆竹を修練場近くに仕掛けておいて、騒ぎで授業を一つ潰したのだ。
(さすが、お前の妹だ)
我知らずセオドアは、笑みを浮かべる。
セオドアは、残りの坂道を全力で駆け上がる。
そこにあったのは、アリアの家とほぼ同じ造りの、小さな民家だ。
川に面した勝手口があり、その扉の近くに、小柄な女性がこちらに背を向けて立っている。
足下にカンテラを置き、手で何かを振り回している様子が見えた。
「エロイーズ!」
思わず呼びかけると、彼女はこちらを振り返った。
不思議そうな顔に、カンテラの灯が下から当たっている。
次の瞬間、勝手口のドアが開いて、慌てて飛び出して来た背の高い人物が、吹っ飛んだ。
彼女の振り回していたものが、その人物に当たったらしい。
『いったいどんな猛者とやり合ったのでしょう』
アオギの台詞が、思い浮かんだ。
「ああ、エロイーズ!」
一足飛びに彼女の傍に立ったセオドアは、思わずその小柄な身体を抱き締めていた。
「なんて可愛い猛者なんだ!」
「かわ……、え……?」
驚いた様子で、エロイーズはセオドアを見上げる。
「ロス辺境伯様? どうしてこちらに……?」
その改まった呼び方に、セオドアの心が潰れそうになる。
セオドアと、呼んでくれていたはずなのに。
どうしてこんな事に。
『政略結婚の相手に嫌われたと、悲しそうに仰っていましてねぇ』
さっき女店主がそう言った。
(本当に、私に嫌われていると思い込んでいるのか)
その誤解だけは、絶対に解かなければと、セオドアは思う。
「エロイーズ、私は……」
呻き声と共に、足下に倒れている男が身動きした。
セオドアは、エロイーズを背後に庇うと、腰の剣をベルトから外し、鞘付きのまま構えた。
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