16:戦うエロイーズ
ハルは洗った食器を棚に片付けているところだったが、猩猩を見て、悲鳴を上げた。
「ハルちゃん、この子は大丈夫。猩猩っていう、とても賢い子よ」
エロイーズはカンテラを居間のテーブルに置き、食器棚を動かした。
避難部屋が現れる。
「でも、悪い人がこの子を追って、ここに来るの。多分、街で騎士達が探していた悪の親玉だわ」
エロイーズは猩猩の子を抱き上げた。猩猩は人の子どものように、自然に腕の中に収まった。
「海岸に流れ着いたのは、この子のお父さんやお母さんや家族じゃないかと思う」
ハルは、戸惑ったような顔のまま、猩猩を見ていた。
猩猩の子どもは、悲しげにキュンキュンと鳴く。
エロイーズは、緊急避難部屋に猩猩の子を下ろした。
「ハルちゃんもこの子と一緒に、ここに隠れていて。川の下流に村の人達が大勢いるようだから、私、助けを呼んでくるね」
エロイーズがそう言った事でようやく、ハルは我に返った。
「いけません、エロイーズ様。一緒に隠れましょう」
全員同じ場所に隠れてしまったら、万が一見つかった時に、この狭い部屋では逃れる方法がない。
「ずっと第三王子をお守りしていたから、私、こういう事には慣れているのよ」
エロイーズは、ハルの持っていた皿を取り上げながら、避難部屋に押し込めた。
皿は、動かした食器棚に収める。
「エロイーズ様!」
閉めようとする食器棚兼扉を、ハルが押し返す。
泣きそうな顔が、扉に挟まれた。
「どうか、ご一緒に……お願いです」
「大丈夫。さっき二階からちらっと見たけれど、悪の親玉って言うほど強そうな人ではなかったわ」
まだ月が昇っていないから、遠くが見える訳がないのだが、エロイーズはそう言った。
「猩猩の子を、守ってね。声を出しちゃ駄目よ」
勝手口の扉がノックされた。
ハルが恐怖に息を飲み、後退った隙に、エロイーズは食器棚扉を完全に閉めてしまう。
「こんばんは」
若い男の声が、勝手口の外から聞こえる。
「夜分にすみません。うちのペットが迷い込んで来ませんでしたか?」
答えないでおこうかと、エロイーズは一瞬考えた。
だが、キッチンの小ぶりの窓には、カーテンなどの遮るものがない。
ガラスの透明度は低いものの、回り込まれて覗かれたら、いる事がばれてしまう。
「どちら様でしょうか? アリアさんのお知り合い?」
エロイーズはハルが出てこないように、食器棚を押さえたまま答えた。
「はい。ラゴと言います」
エロイーズは、アリアの知り合いの息子も、巻き込まれたのだと知った。でなければ、その名を出してくるはずがない。そして本物なら、猩猩をペットだと偽って探す理由がない。
「ああ。あなたがラゴさん?」
動揺を見せないようにしながら、エロイーズは答える。
「ペットはワンちゃんよね? 家の周りで鳴いていたから、まだどこかその辺にいるんじゃないかしら? ちゃんと繋いでおいてくださいね?」
「すみません。家の者が逃がしちゃったみたいで」
といいながら、外に居る何者かは、勝手口のドアを押したり引いたりし始めた。
「とりあえず、入れてくれませんか? 中にうちのペットが逃げ込んでいるかも知れないでしょう?」
絶対に出てきちゃ駄目よ、と食器棚に小声で念を押すと、エロイーズは居間のテーブルに置いてあったカンテラを手に、玄関へと向かう。
玄関は、勝手口の反対側にあった。
そこから外に出ると、土を固めた道が、街の方へと続いている。
エロイーズはカンテラを掲げると、歩き出した。
『いいですか、エロイーズ嬢』
やや潰れたような声が言う。
『男の力で押さえ込まれたら、それを外そうとする動きは全て無駄だと思ってください』
ラモンは叔母と第三王子のために、公爵家で雇った護衛だった。
現役時代は現国王の護衛を勤めており、引退してからも臨時雇いの兵士として働いていた。鼻が潰れているのは、任務中に賊ともみ合って怪我をしたからだという。
『手、足、腕、頭、腰のうち、どこを動かせるかをその場で判断し、動かせる部分で相手の急所を攻撃するのです。肘が動くようなら振り向きざまに顔へ肘鉄。腕ごと押さえ込まれたら、動かせる足を使って踏んだり、相手の足を引っかけて転ばせる。お尻を突き出して相手の体勢を崩すのも、顔面に頭突きするのも、金的もありです。目や耳を攻撃できそうなら、躊躇なく攻撃する。さて、咄嗟にこうした対応するために、重要な事は何でしょう?』
『練習する事ですか?』
『そう、それも大事です。が、一番重要なのは、冷静でいる事。冷静でないと、押さえ込んだ相手の手をひたすら外そうとする、という無駄を、やってしまいますからね』
エロイーズは叔母と組んで、押さえ込む役、脱出する役を交代しながら練習した。実地で試す機会は、殆どなかった。エロイーズも叔母も第三王子も、何人かの護衛に守られていて、向けられた刃を受けるのはその護衛達だったからだ。
『ご武運を』
最期にラモンは言った。
『大丈夫。貴方はやり遂げられますよ』
今私は、とても冷静だ、とエロイーズは思う。
カンテラの灯を掲げて、街への道を辿っている。
その灯を追って、気配を消そうともせず、相手は後を追ってくる。
(私は守られて、ここに生きている。次に誰かを守るのは、私の役目)
ハル達の居る家から、エロイーズは敵を引き離した。
万が一敵が他にいて、家に侵入したとしても、あの食器棚にすぐ気づくとは思えない。
早足で歩くエロイーズの後ろに、足音が迫る。
すぐ後ろに、男の呼吸が聞こえた。
追いつかれそうだ。
男が、息を詰めた。
予備行動だと察知し、エロイーズは咄嗟に姿勢をかがめる。
横に身体を逃がすと、彼女を押さえ込もうとした両腕が空振りして、男はよろめいている。
エロイーズは、男の両足を、抱き付くようにしてすくい上げる。
男は、頭から地面に激突した。
(できた!)
エロイーズには、カンテラを道の端に置く余裕まであった。
(私、冷静に対処できましたよ、ラモン)
肩に提げていたポーチを手に持ち替えると、男が体勢を立て直すのを待ちながら、振り回し始めた。
初めは重くて、ポーチ側に手を添える必要があったが、勢いが付くと片手で紐だけを持って回転させる事ができた。
「このっ、ちんちくりんがっ!」
怪我をしたらしく、流れ出る血を手で押さえながら、男が立ち上がろうとする。
カンテラの灯で見えた男は、金髪に碧眼で、身長が高い。一般的には美形な顔立ちだが、悪意で染まった表情には魅力の欠片もない。
その顔に、いかがわしい本の詰まったポーチが激突した。
エロイーズは男を足でつつき、立ち上がってこない事を確認する。
起き上がって来たら何度でも、この禁書武器で打ちのめそうと思っていたが、一度で事足りたようだ。
靴下や布袋に石を詰めて、グルグル回してから当てると、人を殺せると妹のアメリアが言った。
公爵邸を護衛する兵士が話しているのを、通りすがりに聞いたのだそうだ。
共和国の本は紙質が良くて軽いが、他の国の本は重量があるし角が硬い。それでも、本には石ほどの殺傷能力は無かったようで、男は意識を失っているだけだった。
エロイーズは男の両腕を後ろに回して、親指同士と手首同士を縄で縛った。なぜこんなに都合良くポケットに縄が入っていたのかとエロイーズは考えて、思い出す。
さっき猩猩の首に付いていた縄だ。
ナイフで切った後、ポケットに押し込んでいたのだった。
『あとは、両足の腱を切れば完璧です』
ラモンの声が頭の中で囁いたが、エロイーズは首を振った。
殺されそうになった訳ではないから、男が気絶している今、そこまでする気は無い。
騎士団が探している人物なら、この状態で放置していれば捕獲に来るだろう。
それよりも、ハル達の確認をしに戻らなくては、とエロイーズは立ち上がろうとして、身体の力が抜けている事に気づく。
冷静でいようと、恐怖心を押さえ付けていたが、実のところ結構怖かったらしい。
(大丈夫。私はまだ動けるわ)
猩猩の子どもが、必死に空き家の方を指さしていた。
この男から逃げるためだけなら、そんな事をする必要がない。
猩猩の生き残りか誰かが、空き家にいるから助けて、と訴えていたのだ。
捕まったアリアの知り合いも、そこにいるに違いない。
敵がこの男一人なら、朝を待って、誰かを呼べば良い。
けれど、この男に仲間がいるのなら、早々に何らかの行動を起こすだろう。すでにアリアの家に入り込んでいるかも知れない。
ゆっくりとしてはいられない。
エロイーズは立ち上がり、アリアの家の方向へ戻り始めた。
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