11:幽霊屋敷
子どもの頃のエロイーズは、宵っ張りだった。
好きな時間まで思う存分に本を読み、朝は寝不足のまま家庭教師の授業を受け、昼からは少し寝て、起きては本を読み、夕食の後にまた本を読んだ。
今のエロイーズは、夜は早く寝て、朝日と共に起きて動き出す。
夢中になって本を読んでいたら朝でした、というような事もない。
生活を蔑ろにしてまで本を読む事は避けたいという、大人の判断がはたらいているのだが、今はその『生活』自体が、少し寂しい。
浮上させるためには、本の力が必要だ、とエロイーズは思う。
もう一度、時間を忘れるぐらい何かに夢中になりたかった。
アリアに借りた家で、早朝に起きたエロイーズとハルは、古家の台所を掃除した。
とても古い家だったが、おそらく彼女が定期的に手入れをしていたのだろう。エロイーズもハルも、充分居心地良く過ごす事ができた。
くすんだ色の、煉瓦造りの二階建て古家は、元々は農園だったであろう朽ちた低木群に囲まれて建っていた。
街とは反対の方向に川があり、その向こうに低い山が連なって見える。
川沿いには、オレンジ色の実が成っている農園と家が並んでいる。
アリアの家には、二階に寝室が二間ある。広い方をエロイーズが、子ども部屋らしいもう片方をハルが使う事になった。厨房には勝手口がついていて、外に井戸があるので、水汲みの労力も軽く済みそうだ。
当初の懸念はトイレだった。
各部屋の片隅に設えられた小部屋には、おまるが置いてあった。
使用人の多い貴族の家では、下働きの者が各部屋から回収してまとめて捨ててくれるが、ここでは、エロイーズもしくはハルがおまるを手に持って、近くの川に捨てに行くしかない。
街のトイレは先進的な下水設備に繋がっており、汚水は地下水路を通ってまとめて処理される仕組みのようだった。この辺り一帯は、そうした社会基盤から取り残されたエリアなのだろう。
到着したばかりの昨日の午後、部屋の割り振りを決める際に開催された『第一回アリアの家に居心地良く住むための対策会議』にて、
「近くに穴を掘って埋めましょう、お姉様」
とハルが小声で囁くので、
「それだと地下に染みて行って、井戸水に混じっちゃうわね」
とエロイーズも囁き声で言った。
ハルは愕然とした様子で、首を横に振り続け、その案は却下された。
その後家の裏手で、トイレと洗濯場、風呂が一緒になった別棟の小さい建物と、そこから川に下っていく石造りの導管を見つけたので、通常使うトイレはそこであり、オマルの中身の捨て場所も、川ではなくそこだと気づいて事なきを得る。
ちなみにエロイーズは、妹のアメリアから『水は必ず一度沸かしたものを飲め』と言われている。
人の生活圏にある川の水や、浅い井戸の水は飲料水には向かず、沸かす事で、水の中に含まれている毒がある程度無効化されるのだそうだ。刺客から逃れて、叔母と共に公爵領で居場所を転々と移っている間、エロイーズは言いつけを厳密に守っていた。
そのおかげか、付き従っていた護衛達が謎の腹痛で倒れている時も、エロイーズと叔母、第三王子は元気でいられた。
アメリアは子どもの頃から不思議な子だった。どんな本にも書かれていないような知識で、トラブルを解決してしまう。第三王子が喉にコインを詰まらせた時は、後ろから拳で王子のお腹をぐっと圧迫しながら一気に持ち上げ、無事に吐き出させていたし、侍従の一人が割れた陶器で手の甲を切った時は、圧迫止血法とやらで血止めをしていた。どこから得た知識なのかと訊けば、小さい時に誰かから聞いたような気がするとしか言わない。
(そう言えば、簡単に作れる武器の話をしてくれた事があったわ)
女だけで暮らすのは不用心だから、作っておいてもいいかも知れないと、エロイーズは手元にある材料を心の中で確認する。
エロイーズが竈に火を入れて、台所にある適当な鍋で飲料用のお湯を沸かしているところへ、来客があった。
アリアが様子見がてら、食材を持ってきてくれたのだ。
絞りたてのヤギのミルクに、バター、卵という、朝食に欠かせないものばかりだったので、エロイーズは大喜びで手早くスクランブルエッグを作り、アリアも誘って朝食にする。
「あたしゃこの家で育ったんだよ」
居間のテーブルについて、アリアが懐かしそうに言った。
「もう一度この家で、賑やかに食事ができるなんてねぇ」
花柄のバンダナを外した彼女は、白髪交じりのグレーの髪を後ろで一括りにしていた。
年齢は五十から六十だろうか。
がっしりとした体格と、太いしっかりした指に、今まで懸命に働いてきた人生を感じる。
一重瞼の垂れがちの目と涙袋には、人の良さが滲み出ていた。
「二階の子ども部屋を、ハルがお借りしています。あそこがアリアさんの部屋だったのですね」
薄く切ったシュトーレンと、温めたミルクを出して、エロイーズもテーブルについた。
「そう。ベッドが少し小さいけれど、大丈夫かねぇ? まあ、女の子なら、あれぐらいで大丈夫か。あたしゃ、十三歳で街に出たから、子ども用ベッドのままなんだよ」
「全然大丈夫です!」
と言うハルを、アリアはニコニコしながら見ている。
「ここの地区は山にも港町にも近いから、昔から輸出用柑橘類の栽培が盛んで、オレンジ村と呼ばれていてねぇ。川向こうの山は全部ミカン畑だから、収穫時期には子どもも大人も大勢集まって、お喋りしながらお互いの畑を手伝うのが楽しかったねぇ。今は街で働いた方が収入が良いってんで、廃れる一方さ」
朝食を食べながら、彼女はこの地域の昔話をしてくれた。アリアの両親の農園は小さかったが、他家の畑を手伝う事で糧を得ていたという。港町が貿易港へと発展していく過程で、多くの働き手は港湾に流れ、アリアも街中の飲食店で働いて家計を支えた。
「街に近いところから、農園はなくなって、住宅地になっていってるよ。いずれはここも、垢抜けた街になるんだろうさ」
「お隣って、誰が住んでるんですか?」
ハルが、窓から見える建物を指さした。
隣と言っても、農園と川を挟んでいるので、かなり離れている。レンガ作りの二階建てで、パステル色のしゃれた風合いのせいか、この古家よりは新しく見えた。
「あれも空き家だよ。それがね、あたしが子どもの頃、若い夫婦と子どもの三人で住んでいたんだが、ある日子どもだけいなくなっちゃってねぇ。みんな、川に流されちゃったんだろうって言ってたんだよ」
何気なく始まった昔話が、不穏な方向へ流れていく。
「結局遺体も見つからなくてね。その後若い夫婦は家を売って、引っ越したんだ。ところが、新しくその家に入った人達がみんな、夜中に変な音がするって言って、出て行っちゃうのよ」
「変な音って、どんな音ですか?」
興味を引かれたらしく、ハルが尋ねる。
「小さな子どもが、部屋を走り回ったり、階段を上ったり下りたりするような音だって」
アリアは声のトーンを低くする。
「灯りで照らしてみても誰もいないのに、夜中ずっとその音がしていて眠れないって。小さく、ママって呼ぶ声を聞いた人もいるらしくてね」
「それはもしかしたら、家のどこかに、その子が……」
ハルが言いかけてて、エロイーズの悲しげな表情に気づいてやめる。
エロイーズは、溺れ死んだ子どもの魂がやっと家を見つけて帰ってきたら、両親がどこにも居なくて、ずっと探しているのではないだろうか、という想像に耽っていた。
「実際床を掘り返した人もいたらしいんだけれどね、何も見つからなかったって」
ハルの憶測を受けて、アリアはそう言った。
「子どもを殴って死なせてしまって、こっそりと家の敷地内に埋める親は、たまにいるからねぇ」
「どれぐらいの間空き家なんですか?」
ハルは、隣の家がなぜだか気になるようで、質問を続ける。
「もう十年にはなるかねぇ」
アリアがそう言ったタイミングで、隣家のカーテンが、チラリと動いたように見えた。
三人は、黙ったまま暫くその窓を見つめていた。
距離があるので、本当にカーテンが動いたのか、昇りつつある太陽の光が一瞬反射したのか、判別がつかない。そもそも、それほど質の良い窓ガラスではない上に、全体が薄汚れているので、見えているものが本当にカーテンなのか砂汚れなのかもわからなかった。
「見間違えかねぇ」
「そうでしょうね」
そんな会話をしつつも、アリアは万が一の事を考えたようだった。
「そういえば、台所の棚が隠しドアになっている小部屋があるんだよ。緊急避難部屋って言うのさ」
この家が建てられた時代、まだ治安が悪くて、強盗が入る事もよくあったという。金品や品物はともかく、命だけは助かるようにと、先々代の住人が隠れるための小部屋を作っていたらしい。
食事を終えた後、アリアが台所へ行き、ほぼ空っぽの食器棚を手前に引いてみせた。エロイーズが横に二人ほど隠れられるような小部屋が現れる。
「鍵はかからないから、気づかれたらおしまいなんだけれどねぇ」
「他の使い道もありそうですね」
エロイーズは、街に本屋がないかとアリアに尋ねる。
本屋というよりは、各地から舶来本を買い付けにくる問屋のようなものがある、とアリアが地図を書いてくれている間に、ハルは食器を片付けて洗った。
そろそろ仕事に行くと言うアリアを、エロイーズ達が改めて食材の礼を言いながら、見送りのために玄関ポーチまで出た時、呼び声が聞こえた。
振り返ると、右足をやや引きずるようにして、川の上流側から男が近づいてくる。
「バッソ?」
「帰っていたのか、アリア」
男はアリアと同世代に見えた。髪の毛がほぼないにもかかわらず、眉毛はフサフサだ。彫りの深い顔には、薄茶色のシミが散っていた。
「この娘達に、しばらく家を貸す事になってね」
そう言いながらアリアは、エロイーズ達を紹介する。
バッソは、黒い瞳を興味なさげに二人へ向けてから、尋ねる。
「ラゴを見なかったか。昨夜から見当たらなくてね。家出かも知れないが」
「喧嘩でもしたのかい?」
「いいや。ただ、街で暮らしたいと駄々をこねる事があったから」
「黙って行くような子じゃないよ。どこかで遊んでいて、寝ちまったんだろうさ」
「いくつぐらいの子ですか?」
隣家にまつわる怪談を聞いたばかりのエロイーズが、川で溺れたかも知れないと心配しつつ尋ねる。
「今年で三十二かな」
という返事が返ってきたので、川で溺れた可能性は低くなった。
詳しく聞くうちに、黒髪に黒い瞳の、口ひげを生やした三十二歳の男の子が、昨日自宅近くの農園の手入れをした後、いなくなった事がわかった。
「それは心配ですね」
エロイーズがそう漏らしたのは、昨日騎士達が探していた悪の親玉の話があったからだ。
「街に出たのなら、あたしの仕事先に来るかも知れないねぇ」
アリアはそれほど心配していないようだった。
「もし会ったら、さっさと帰って来いと伝えてくれ」
そう言って、髪の無い男は他へ探しに行き、アリアは手を振りながら街の方へと歩いて行った。
「私達も買い物に行きましょうか。明るいうちに帰らないといけないから、早く行かないと」
エロイーズは、ドミリオからの返信はまだ届いていないだろうから、今日は郵便基地局へは行かず、着替えと小説本を買って帰るつもりでいた。
それに、できれば難破船の続報を知りたい。
(ロス辺境伯様は、今どうしていらっしゃるのかしら?)
エロイーズは、寂しい気分で彼の笑顔を思い返す。
王都に帰る事になるとしても、一度は直に話をして、この結婚についての本当の気持ちを聞きたかった。だが、難破船の処理に奔走する彼の邪魔にはなりたくない。
(きっとお忙しいのでしょうね……)
念入りに戸締まりをすると、エロイーズとハルも街へと出発した。
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