白い女
密集した木々の葉は遥か頭上にあり、緑の濃淡からこぼれ落ちてくる陽光は柔らかい。差し込む光で育った草は膝上まで育ち、歩くだけでもひと苦労する。
ぽっかりと空いた天と地の間には葉を諦めた茶色い幹が立ち並んでいる。そこに止まっているであろう蝉や鳥の声があちこちから聞こえてくる。
何かしらの生き物の存在を感じるのは、安心か恐怖か。
出来得るならば、熊や猪に会いませんようにと祈りながら、柚月は草をかき分けかて前に進んだ。
獣道とも言えない山の中を彷徨うこと数時間。まだ道らしい道に出ていない。
山で遭難した時は下手に動いてはいけないのは分かっている。でも、じっとしているのは怖くて不安で恐ろしかった。
それに、知っている。もう少しで道に出るはずなんだ。
更に数十分ほどまっすぐに進んで行くと急に視界が開けた。
木だらけの空間は唐突に終わり、三メートルほど下には古びた道路が敷かれている。左側はゆっくりとしたカーブがありその先は見えない。右側には道路よりも古びたトンネルがあった。
そのトンネルの周囲には蔦や草が侵食しているせいか崩れている箇所もある。覗き込んでも真っ暗な空間しか見えず、いかにも寂れた山のトンネルといったところだ。
こういう場所が怪談のネタになるのかもしれない。
それほどまでに人通りがない。少し待っても車一台も通らない。
柚月は降りれる場所を探して足を進めた。左へ数メートル進めばデコボコとしたコンクリートの壁が低くなっており、足をかけて降りられそうだった。
ブーツで下りるのは意外と難しいし、勇気もいるが、流石にもう慣れた。
なんとか下りて久々のコンクリートの地面に安堵の息が漏れる。
「さて、と」
下りてきた壁を背に左を見てから右を見る。
相変わらず車も人も自転車も見かけない。
右側にあるトンネルは陽の光の中でもおどろおどろしく、とてもではないが入ってみようとは思えない。
だが、柚月には入らないという選択肢が無かった。
「うぅ。やだよぉ。行きたくないなぁ」
半泣きで右側へと歩き、トンネルの正面に立つ。
電気が無いのか、元々付いてないのかトンネルの中は真っ暗だ。こちらもカーブしているのか、トンネルの出口らしき光は見えない。思っているよりも長いのかもしれない。
「やだなぁ。行きたくないなぁ」
返事がないとわかっていても独り言が漏れでる。
心底行きたくない。この中に入るなら山に戻りたいとさえ思った。
「〜〜〜。行きたくないなぁ」
諦め悪く呟くと、柚月は着ていたコートの前を握りしめて歩き出した。
─── ………イ
柚月がトンネルを選んだのには理由がある。
最初にこの道に出たとき、柚月は迷わず左の道へ向かったのだ。
意気揚々と歩いた先では、見えなかったカーブの先にある道路が見えるはずだった。だが、カーブを曲がると柚月は山の中にいた。
さっきまで立っていたコンクリートはどこにもなく、湿った柔らかな土の上で茫然と周囲を見回した。背の高い木々には蔦が絡み、柔らかな緑の若葉が頭上で揺れている。下を向けば、盛り上がった土の周りには若草が萌え出ている。
そこは、数時間前に柚月がいた場所だった。
狐につままれた気分で、そろりと一歩後退る。
なんで。
どうして。
山の中を彷徨ってようやく道路に出たのに、どうしてまた山の中にいるのか訳が分からなかった。
恐ろしくなった柚月は何かに駆り立てられるように走り出した。
早く、さっきの場所へ戻りたかった。人工物のある、人の気配がある場所へ行きたかった。
そうして、山の中を彷徨ってあのトンネルのある場所へ辿り着いた時は思わず泣いてしまった。
柚月は前回と同じように左へと歩き出した。全身で警戒しながらそろりそろりと左のカーブを曲がる。
瞬きひとつしただけなのに、目の前には木立があり足元には柔らかな土が盛り上がっていた。
「………なんで…」
呆然と呟いた柚月の言葉に応えは無かった。
─── ………シイ
あれから数回、左を選んでは山の中に戻るのを繰り返した。
三回目は右にあるトンネルへ進んでみようかとも思った。でも、古びたトンネルを前にすると足がすくんでしまう。
朽ちた石積みの間には苔が生え、所々に伸びた細い木の根や蔦が這っている。その中は真っ暗で先が見通せない。
まるで人を飲み込む怪物の口のようだ。
あの中へと進む勇気がなくて、今度こそはと思い左へ進んでは山の中へと戻るのを繰り返してしまった。もういい加減にトンネルの中へと進まなければならない。
柚月は道路の真ん中に立ち、前方で大きな口を開けているトンネルを見る。緊張のせいか喉が鳴った。
「大丈夫。……大丈夫」
自分に言い聞かすように呟き、両手をグッと握りしめる。
「大丈夫。ここを抜けて、帰るんだから」
もう何度も不思議な巻戻りをくる体験し、柚月は心寂しくてたまらなかった。
一人暮らしのマンションに戻れたら、すぐに実家に帰ろう。お母さんのご飯を食べて、お父さんと野球中継を見ながら応援して、飼い犬の小春と散歩に行こう。煩わしく感じていた実家がいまは無性に恋しかった。
その為なら薄気味悪いトンネルのひとつやふたつ通り抜けてみせる。
柚月は頰を叩いて気合いを入れると一歩を踏み出した。
─── …ビシイ
電気一つもない穴の中は思っていたよりも中は真っ暗だった。
入口から十歩も進めば外の光が届かなくなる。うっすらと見えていた周囲がどんどんと暗くなっていくが、柚月は振り返ることはしなかった。いや、出来なかった。一度でも振り向いてしまえば戻りたくなってしまう。そうすれば、もう二度とトンネルに入れなくなってしまう気がした。
細く息を吐きながらゆっくりと、だが確実にお化け屋敷前へと歩く。
ゆっくりと歩いていたせいか、暗闇に目が慣れてくる。うっすらと足元にある雑草などが見える。それもほんの数歩先まで。
恐怖心を抑えるために柚月は色々と考えた。
トンネルの出口はどうなっているのだろうか。もし、左の道のように出た途端に山の中だったらどうしようか。いっそのこと、助けが来るまで待っていようか。
けれど、こんなにも人通りのない道路のさらに奥にある山の中へ誰が来てくれるだろうか。
両親や友人が私の不在に気がついて捜索隊が出たとして、こんな山の中まで来てくれるだろうか。
まるで陸の無人島のように人の気配がない。唯一の人工物がこの古びたトンネルひとつ
車も免許も持っていない。
山登りの趣味なんてないし、そもそも格好からして山登りや山歩きには不向きだ。
一目惚れして買ったダークブラウンのコートに、お気に入りのブランドのワンピースはオフホワイト。リボンが可愛いブーツはもう土まみれで汚れている。
バッグも無いし、スマホも財布も持っていない。
私、どうやってこんなところまで来たの?
重大なことに気がついたら柚月は、いいしれぬ恐怖に身を震わせた。
この山から出ることばかりに気を取られていたが、そもそもこんな場所に来た記憶がないのだ。
自分で来るはずはない。
では、誰かに連れて来られた?
だが、気がついてから今まで人っこ一人会っていない。
なんで。
どうして。
自分が知らないということが恐ろしい。
柚月は小さく震えながら自分の体を抱きしめた。はぁはぁと漏れ出る息は荒く、体がくの字に曲がる。
叫び出しかけたその時、強烈な光が柚月を照らした。
真っ白に視界を焼く光に目を閉じると、激しいブレーキ音が周囲に響き、トンネルの壁に何かがぶつかる音がした。
─── サビシイ
心霊スポットに行ってみよう。
そう言い出したのは、奈津実のバイト仲間の広幸だった。
お昼の賄いを食べている最中に怪談話で盛り上がり、そこから近くの心霊スポットに行ってみようという話になったのだった。
奈津実には霊感はないが、特に怖いとも思っていなかった。話に乗ったのはなんとなく面白そうだと思ったからだ。たぶん他のメンバーもそんな感じだろう。本当に幽霊を見たいわけではない。ただそんな場所に一緒に行って楽しく騒ぎたいだけなのだ。
お店の定休日に行くメンバーは四人。広幸と彼女の穂花、バイトの先輩の圭佑と奈津実だ。車を出す広幸が運転席なので助手席は穂花、運転席の後ろに奈津実が座り、隣に圭佑が座る。
「それで、どこに行くの?」
奈津実が問いかけると穂花がひょこりと後ろを向いて近くの山の名前を言った。
それを聞いて圭佑は声を弾ませて「廃遊園地か」と笑った。
景気の良かった時期に出来た遊園地だが、奈津実が八才の時に業績不振で閉園になった。以降十二年もの間買い手もなく放置されたままだ。ジェットコースターなど買い取られた遊具もあるが、ほとんどがそのまま残り朽ちている。
廃墟好きの間でも有名らしく、申し訳程度のバリケードを乗り越えて探検する人たちはかなりいた。
そして廃墟に付きものの幽霊の話も多かった。
廃遊園地にまつわる怪談や又聞きした体験談を話しているうちに車は山道を登り始めた。人家が減り青々とした木々が増えてきた。
「なんでこんな山の中に遊園地なんて作ったんだろうね」
「土地が安いからじゃねぇの?」
「なんかぁ、ホテルも建てる予定だったけど、お金足りなかったって聞いたぁ」
「ホテルもあったら廃墟感増したのになぁ」
「ほんとねぇ。その方がおもしろそうだったのにね」
おっとりとした穂花は怪談やお化け屋敷が大好きで、デートで行く映画はほとんどがホラーなのだと広幸は苦笑しながら話していた。
「うわっ」
広幸が急に驚いた声を出したので、みんなが正面を見ると道路の先に靄がかかっていた。
「え?霧?」
「さっきまで晴れてたよな?」
奈津実は慌てて周囲を見るが、いつの間にか四方八方を霧で囲まれている。
「ビックリした。急にでてくるんだもんなぁ。対向車とか無くてよかったー」
「山の天気は変わりやすいって言うけど、そんな標高も高くないのに」
前方の霧は益々濃くなり視界は真っ白となっている。広幸は車の速度を大幅に落として運転に集中する。
圭佑は周囲を不安そうに見回してから首を傾げた。朝でも夜でもなく、天気の良い日中に濃霧が出てくるものだろうか。それに、登り道の途中から一台も車とすれ違わない。後ろにいたはずの車はいつの間にかいなくなっていた。
人通りが少ない山道とはいえ、この先には隣町にも通じている。日中にこんなにも往来がないのはどう考えてもおかしい。
「なぁ、なにか変、じゃないか…」
「ちょっ、話しかけんな。前見えなくて怖いんだよ」
「もぉ圭佑センパイ、そんな声出して怖がらそうとしてもダメですよ」
不安がる圭佑の声に広幸はイライラと返事をし、穂花はほんの少しの不安を振り払うように明るく笑った。
奈津実も嫌な胸騒ぎがしていたが、大抵の場合ただの杞憂で終わるものだ。それでも不安を拭い切れなくて、祖母からもらった数珠をポケットの中で握りしめた。
未だに晴れない濃霧はまるで異界にでも招かれたようだった。不安の中、ゆっくりと車を走らせていたのはほんの数分だったが、四人にはもっと長く感じられた。
表れた時と同じように突然に濃霧から出たのだ。本当に突然のことで、四人とも驚きながらも顔は晴れやかだった。
「うわっ、抜けた」
「やだ、もぉ〜、ビックリしたぁ」
「山の天気、変わりすぎだろぉ」
「ちょっとドキドキしたよね」
わざとらしいほどに明るく話だしながら、車は速度を上げる。
少し走っていくと広幸が不思議そうな顔をして「おかしいな」と呟いた。過剰に反応した穂花が聞き返すと、広幸は「こんな道だったかな」と不安を煽るような返事をした。
「道を間違えたのか?」
「いや、一本道のはず…」
「さっきの霧で間違えたとか?」
初めて行く奈津実には道が違うのかどうかさえ分からない。おろおろと広幸たちと窓の外の景色を見る。
車はゆっくりとカーブを曲がる。すると、正面にいかにも幽霊が出そうなトンネルが表れた。
離合するのもギリギリなほどの狭さで、電灯が無いのか中は真っ暗で出口も見えない。
怪しげなトンネルを前にして、広幸は思わずブレーキを踏んだ。
「なんか……出そうだな」
「ヤバぁい。すっごい雰囲気ある〜」
「いかにもって感じがするね」
「…こんなトンネルなんてあったかな……」
ワクワクしている穂花の横で広幸は首を捻った。だが、確認してもカーナビはこの道を指し示していたし、目的地はこの先になっている。
「いいじゃん。行こうよ。出たら出たで面白いじゃん」
「んー、まぁ、そうだな」
穂花の発言で広幸がハンドルを握りしめ、ヘッドライトを点けた。
奈津実はほんの少し逃げ出したい気持ちになったが、盛り上がっているみんなに言い出すことはできなかった。
「しゅっぱーつ」
穂花と広幸の明るい声と共に車はトンネルの暗闇へと入り込んで行った。
トンネルは意外と長いようだった。
電灯が切れていたのは入口だけだったようで、中に入ると小さな灯りが点々と中を照らしていた。光量の少なさは朽ち果てた内部をほんのりと浮かび上がらせ、気味の悪さが増していた。
「ちょっと鳥肌たつなぁ」
圭佑が腕をすると怖がりだと広幸が笑った。圭佑と同じ気持ちだったが、奈津実はそんな自分を笑うように笑みを浮かべた。
「きゃあっ!!」
「うわっ」
穂花と広幸の声に驚いた奈津実と圭佑はすぐに前を見た。
フロントガラスの向こう側。
薄暗いトンネルの道の真ん中に白い人影が見えた。
一気にブレーキを踏んだせいで奈津実と圭佑の体が前の座席に激しくぶつかった。車は前輪を中心にスピンし、後方をトンネルの壁にぶつけて停止した。
激しく振り回された奈津実の体は座席の下に落ちた圭佑に乗っかっていた。
体のあちこちがひどく痛むし、頭がくらくらする。痛む体をゆっくりと起こせば、前の二人はシートベルトのおかげで無事なようだったが、どちらもエアバックに体を預けてしまい動く様子がない。
無事を確認したくとも頭がぐらぐらと揺れて考えることができない。
洗濯機の中に入ったような気分だった。
『………さびしいの』
震える手を動かして座席に体を横たえた時、奈津実の耳に知らない声が聞こえた。
『さびしいの。ねぇ、いっしょにいてよ』
耳元で囁く声は女の人のもので、しくしくと泣きながら訴えてくる。
『さびしいの。ねぇ、いっしょにいてよ』
動かない体の代わりにキョロキョロと目を動かすが車内には他に誰もいない。
『さびしいの。さびしいのよ』
泣き声は現状を訴えながらも頷かない奈津実を非難する色が含まれてくる。
うらめしそうに、悲しげに、何度も「さびしいの」と訴えてくる。耳を塞ぎたくても指一本も動かない。初めて体験する金縛りと不気味な声に、奈津実は恐怖に震えた。
誰の声なのか、どこから聞こえるのか知りたくて、奈津実はキョロキョロと視線を動かす。その時、白いものが見えた。足のほう、横たわった奈津実の足の先にある窓ガラスに白いものが見えた。動かない体を力を込めて頭をなんとか動かせて見た窓の外には女がいた。
ベタついた黒髪から汗のように流れた血が白いワンピースを赤黒く染めている。血まみれの女は、窓に手をピタリと当てて奈津実を凝視していた。
『さびしいの。ねぇ、いっしょにいましょう』
女の口が動くたびにゴポゴポと血が溢れ出てくる。見開いた目が狂気に満ちていて、奈津実は恐ろしかった。
女が話しかけるたびに、ヒビの入った窓ガラスが割れそうな音を立てる。
『さびしいの』
ついに窓ガラスが割れて女の手が車内に入ってくる。
「いやあああああぁぁぁぁ!!!」
奈津実は在らん限りの力を振り絞って叫ぶと、ポケットに入れていた数珠を女めがけて投げつけた。
奈津実が次に目を開けたのは救急車の中だった。
意識を取り戻した奈津実に救急隊員が体に関する質問を問いかけてくる。ぼうっとした頭でそれらに答え、聞かれるままに名前や住所を答えた。
奈津実の怪我は打ち身や打撲だけで、軽傷で済んだ。他の皆も似たようなもので軽傷だったが、運転手の広幸だけは肋骨にヒビが入っていた。
警察にも事情聴取をされた奈津実は、広幸が急ブレーキを踏む前に白い人影を見たと話した。だが、警察官はそんな形跡はないと言う。
「他の人も似たようなことを言ってるんだけどね、人を跳ねた痕もないし、君たち以外に怪我人もいなかったんだよ。……本当にそんな人を見たの?」
疑うような発言に、奈津実は白いワンピースの女の話をするのを止めた。話しても信じてもらえないと確信したからだ。
代わりに、警察官に車の状態を問いかけた。後ろの窓ガラスは割れていたのかが気になったのだ。
だが、警察は窓ガラスはどこもヒビはあるが割れていないと言う。
奈津実が見たのは幻だったのか。あの泣きそうな声も幻聴だったのか。
奈津実は確認したいとは思えなかった。
「これは君のかな?」
そういって差し出されたのは紐が切れてバラバラになった数珠だった。
震える手でそれを受け取り、胸に抱くと奈津実はぼろぼろと涙を流して泣き始めた。
柚月を通り越した車は大きなブレーキ音を立てて壁に激突した。バンパーがひしゃげて潰れている。
大事故だが、そんなことよりも柚月にはその車が自分を通り抜けたのが信じられなかった。
狭いトンネルの中だ。道の真ん中を歩いていた柚月を車が避けることなんてできるはずもない。信じられない気持ちのまま、柚月はふらりと大破した車に近づいた。後方のドアを開けようとした手は虚しく宙をかいた。
触れられない。
嘘だ。
声にならない呟きを繰り返し、ヒビの入ったサイドミラーを覗いてみればそこには誰も映っていなかった。
「ねぇ!嘘でしょ!嘘よ!」
助手席でぐったりとしている女性に話を聞きたくて、窓を叩く。何度もすり抜けたが、諦めずに叩こうとすると手応えがあった。パタリとしたガラスの感触がある。
柚月は必死で何度も叩いた。
そうしていると、助手席の女性は意識を取り戻したのか瞬きをしながら目を開けた。
柚月が必死に窓を叩くと女性と目が合った。
その瞬間、女性は恐怖に顔を歪ませて「お化け」と叫び気を失ってしまった。
その後、数台の車や救急車がやってきたが、彼らには柚月が見えていなかった。なにもかもが柚月を置いて進んでいく。
柚月はようやく自分が死んでいることに気がついた。
薄暗いトンネルの中で呆然としているうちに思い出した。アパートへの帰り道に車に轢かれたことを。
自分を轢いた相手は覚えていない。微かに覚えているのは車を降りてきた靴が男物だったこと。
男が、私を殺した。
柚月の中に言いようのない怒りの火が灯った。
男が運転する車が、私を殺した。
絶望と怒りに身を堕とした柚月はトンネルから出れなくなった。もし出てしまえば、また山の中に戻るかもしれない。それは避けたかった。
殺した相手が許せない。
私を殺した男が許せない。
男が運転する車が許せない。
─── でも、寂しい…
いつしか通る車は激減した。新しい道ができたことなど柚月が知るはずもない。
未だに消えない怒りを内に抱えたまま、やってきた車の前にふらりと立ちはだかった。
*終わり*