『春のプロフェシー』~『愛なき時代』
『春のプロフェシー』は、私たちの世代で知らない者はいないだろうと思えるほど有名な曲だ。化粧品のCMとタイアップして、しょっちゅうTVから聴こえていた。そのCMのモデルも波間がやっていた。街にはこの曲が流れ、ショーウィンドーには大きな波間のポスターが貼られていた記憶がある。
なにかいいことがあるよ、という『春の予言』に胸を躍らせるという内容だ。波間は春先になると蘇ったように素敵な曲をリリースする。『青春の港』然り、『女性なんだもん』然り、『哀しい余生』もそうだった。
振り返れば彼女が実質的に活動していた時期と私たちの多感だった時期とはシンクロしている。「三人小娘」のなかでは最もコンスタントにヒット曲を飛ばしていた息の長い歌手と思われたが、『十七歳の証明』から七年しか経っていないのだ。
――たしか私は波間のベストアルバムを持っていた。近所のレコード屋で買った最後のレコードだったかもしれない。私が買うレコードは極端だった。ブリティッシュロックか、レトロな歌謡曲なのだ。
〝由美さおり〟のベストアルバムを買ったのは高校生のときだ。カウンターで店のオバサンが、ジャケットを見てヘンな笑顔を浮かべていたのはいまでも忘れない。私の好きな曲がどうしてもFMでかかることがなくて、ここで見つけたその曲が入ったアルバムを衝動買いしたのだ。同じように〝石田佐知子〟や〝ジュモンズ〟や〝岡崎由実〟等のベストアルバムも、抑えきれないノスタルジーに衝き動かされてゲットした。
波間のベストアルバムも、そんななかの一枚だったのだ。自分でも珍しい高校生だったな、と思わずにはいられない。だいたい、その齢でノスタルジーに浸りたいと思うこと自体がおかしい。
もし手元にあったら、この機会に聴き直したいのだが、大学の友だちか、「放課後観賞会」のだれかわからないが、貸したら返ってこなかった。
ちなみに安部マリアのベストアルバムも持っているが、これはだれも興味を示さないのだ。一番人気があったのに不思議なことだ。やはり私たちの年代のアイドルは波間シンシアだったのだろう。
TVや芸能雑誌を見なくなった私の目に、その頃のポスターの波間はえらくオトナの女性のように映った。世間知らずの子どもだった彼女は、いつの間にか理知的な気品を備えていた。
あの頃、私はこの先、この学校を卒業しても、なにかいいことがあるのではないかと予感していた。ところが私の場合、『春の予言』は当たらなかった。
S先輩と連絡が取れなくなったのだ。大学のことをいろいろきいて、アドバイスを受けようと思っていたのだが、先輩の失踪をきっかけに私の受験への意欲は急速に冷めていった。結局、私は付属の大学に進むことになってしまった――。
走馬燈の回転は速度を増して、模様がまるで生き物のように動きだした。いままでのように微風に惰性で回っているのとはちがう。
メリーゴーラウンドの馬は走りだし、子どもたちは声をあげて笑っている。紫色の星空には次から次へと花火が打ち上がっている。もの凄い速さで回転して、ときたま摩擦で火花を散らしている。もう止められそうもない。私の意識はコマのように回る走馬燈に釘づけになっていた。
ふと気づくと、登坂路を越え長い下り坂だった。大きなカーブを辿ってクルマは速度をどんどん上げている。私の感覚は完全に麻痺していた。下った先に妙な赤や緑の光が見えた。
(前のクルマのテールランプか?)
真っ暗な闇のなかに、小さな整然と並んだ光は横切るように動いている。私は、そこに交差点があるのだと気づいた。交差点を、電飾でデコレートしたコンテナを乗せて大きなトレーラーが横切っているのだ。私のクルマがそこに突っ込むまでに通り過ぎてくれるだろうかと思ったが、列車のように長いボディなのだ。まだ横切っている。
私はとっさにブレーキを踏んだ。フルブレーキングだった。タイヤを軋ませて、クルマは走馬燈同様に回転した。広い路面の真ん中でクルマは停まった。
オレンジ色のハイウェイ灯に濡れた路面が光っている。幸い、ほかに走っているクルマはない。私は胸をなでおろした。
我に返ってみると、私は高速道路を走っていることに気づいた。こんなところに交差点があるはずない。睡魔の仕業だろう。波間の歌に導かれ自分の記憶に落ちていた。
前方に見えるのは無表情なアスファルトの路面だけだ。私はクルマの外に降りて夜気に浸った。夜明けの空気は冷え冷えとして気持ちがよかった。
いま、どのへんまで戻ってきたのだろうか。それにしても高速に乗ってから、ほかのクルマを滅多に見ない。時間のせいなのだろうか。通る気配もないのだ。
その場で一服して、半回転して停まっているクルマのアクセルを再び踏み直した。相変わらずカーオーディオからは波間が歌い続けている。
(この曲は・・・・・・ )
私にとって、この『愛なき時代』という曲は特別に懐かしかった。取り立てて、これといった思い出があるわけではなかったのだが、部活という憂鬱な呪縛から解き放たれて自由を謳歌し始めた頃のことだったからであろう。当時の情景とともに潜在意識へ深く刻み込まれたのかもしれない。
彼の最近の素行がおかしいのであとをつけてみると、パーラーで見知らぬ女と待ち合わせをしていた、という興信所まがいの歌だった。曲もいままでの彼女のパターンにない、サビから始まり、サビの繰り返しでフェイドアウトするお手軽な構成で、波間はまた歌謡曲に戻ってしまったようだった。
思い起こせばこの曲を聴いた頃――
卒業アルバム制作委員会に出ているヤツから、あるときいわれた。
「カセ、オマエの写真が一枚もないから撮ってやる」
私は、そうかといってカメラの前に立つと、目ざとくそれを見つけたヤンチャ連がどっと集まってきた。K也もK蔵もK夫もパンパンも、みんなその枠のなかに収まって、その中心が私であるという、実にありえない構図の写真が出来上がった。
存在を消そうとしていたのにも拘らず、知らない人がアルバムを見たら、まるで私が彼らの仲間のように写っている。しかも他のスナップより扱いが大きかった。存在を消すどころか、私がこの学校に在籍していた証拠写真みたいになった。
卒業アルバムのクラス別の集合写真では坊主頭で垢抜けない田舎の高校生のように写っている私が、卒業間近の校舎の屋上から撮った全体の俯瞰写真では、隅の方だがオシャレな髪型でウルフやロバとともに斜に構えている。
青春は、きっちり帳尻を合わせてくれたようだ――。
ウルフは付属の大学の推薦試験をしくじり、希望の専攻に進めなくなったことから浪人を決めた。彼とは卒業以来会っていない。
エッチとは大学でもツルんでいた。彼は就職が決まっていたにも拘らず、大学卒業の単位不足で留年が決まった。
――あの当時、まだ制服姿のヤンチャな高校生のカノジョを連れまわしていた。いつだったか試験が終わった日に、エッチとそのカノジョ、ロバの四人で神奈川にあるダム湖にドライブしたことを憶えている。陽ざしが溢れる桜並木の湖畔の道を走っているとき、ルームミラーにまるで夫婦気取りのエッチたちを見て、運転していたロバがいうのだ。
「オマエら、ひとのクルマでよくイチャイチャできるな」
試験が終わった解放感が清々しい早春の空のようで心が弾んだ。湖の照り返しが眩しかった。あの頃はシアワセだった。なにも気に病むようなことがなかった。ただ、エッチたちが羨ましかった――
あのふたりはどうしたろうか。
一方、ロバは大学進学後も、エッチとともに仲がよかった。お互いの家に徹夜マージャンをしにいったり、評判の映画を観にいったり、おなじバイトをしたりした。
――就職の時期のことだった。彼は父親のコネで金融機関に内定しているといっていた。私はある業界誌の出版社に内定していた。ふたりとも余裕があったので、これから伸びるであろうコンピューターのソフト開発の会社を覗いてみようということになった。当時、計算機業界は人手不足でネコも杓子もかまわず、就職活動なしで取ってくれた。我々のような文系の人間でも関係なかったのだ。
待ち合わせの時間にロバは現れず、しかたなしに私独りで会社訪問したのだが、そこの楽しそうな雰囲気に、本来希望していた出版社の内定を蹴ってまで、こっちにのりかえてしまった。あとあと分野のちがう仕事に戸惑い、大変な苦労をして胃潰瘍になるのだが。
それ以来、学校でロバと会うことがなくなった。どうしたのかと電話を入れても、だれも出ないのだ。何日かして、べつの友だちからロバの内定の話が都合で取り消され、そのショックからどうやら引きこもってしまったらしい、ときいた。私がロバに会いにいったときには、もう彼の家は無くなっていた。家を売ったらしいのだ――
ゴッコは卒業後、調理師の学校に進み板前の修業に出たといっていた。楽天的な男だったが、パンパンの葬式で会ったヒデオキから、彼が十年以上前に糖尿が原因で死んだときかされたときにはダブルショックを受けた。
いま、だれに会いたいかと尋ねられれば、まごうことなくこの四人と答える。
私は大学卒業後、仕事の忙しさにかまけて彼らのことを気にかけている余裕がなかった。胃潰瘍がもとで計算機屋を辞めてから、飲食店相手の配送会社にいたのだが、そこも景気がおかしくなって同業者に吸収されてしまった。私はそこも辞め、請負の宅配をやっているときに現在の施設の理事長に出会ったのだ。すでに四十歳をこえていた。
思いもよらない仕事に就いたのだが、やっと定収入が得られる身分になれた。最初は事務処理だったが、計算機屋の経験がここで生きた。自分には向いている仕事だと思い始めた頃、施設長を任されたことで長い暗黒のトンネルにハマることになる・・・
それ以外のヤツらは、いまなにをしているのか。
ハードゲイは警官になった。都内で飲酒の検問をしていたハードゲイに停められたパンパンが、彼の顔を見るなり、ふりきって逃げたといっていたことを憶えている。話のひとつもあったろうに、逃げたということはなにか後ろめたいことがあったとしか思えない。もう彼がハードゲイに捕まることは二度とない。
ヒョロオとは大学時代に街でばったり会ったことがある。彼は有名私大の理工学部に進んでいた。実家が工務店だったので、建築関係の仕事をしたいといっていた。要領のいい彼のことだ、希望の道を進んだのだろうと信じている。
「放課後観賞会」の連中とは地元ということもあり、たまに集まっては吞みながら昔話に花を咲かせている――
Mの出来事があってから「放課後観賞会」の連中とはしばらく疎遠だったのだが、毎週日曜の夕方になるとマンキチが私の部屋にやってくるようになった。彼がその年に加入したバンドの、グルーピーだったカノジョに電話をかけるためだった。ケータイなどない時代、私の部屋には電話があったのだ。
マンキチはひとのウチに遊びにきて、だれの気兼ねなく延々とカノジョと話していた。私は横で、羨ましくも手持無沙汰にしている間にタバコをおぼえた。マンキチが女の子とどんな話をしているか、将来のために参考にしようと思っていたが、それよりタバコの方にとり憑かれることになってしまう――。
マンキチの当時のカノジョだが、実は最近会っている。ウチの施設にいた身寄りのないジイサンが、このカノジョの実家の寿司屋で飯炊きをかつてやっていたというのだ。
もう九十歳を過ぎていて、心臓が機能しなくなったせいで救急搬送されたとき付き添ったのが私だった。施設の相談員が機転を利かせて、住み込みで長く勤めていたこの寿司屋に連絡を取ったら、ウチで面倒を見るからと駆けつけてくれたのだ。
あの頃、マンキチのバンドのライブを観にいったときにいた、すらっとした長身の女の子とはまるで印象のちがう大柄な寿司屋のオカミサンになっていた。そのときは気づかなかったが、後日相談員にきいて、それが「元カノ」だったことがわかった。
店の職人と結婚して、それがいまの店主なのだという。もしかしたらマンキチは寿司屋の大将になっていたかもしれなかった。
そのマンキチは農家に婿として入っている。ギターをクワに持ちかえて、野菜をつくっている。一極集中型の彼には「田舎くささ」はないにしろ、「百姓くささ」には拘りがあるようだ。
フーチャンはイベント関係のバイトを始めたことがきっかけで、自分で会社を興した。ちょっとパンパンの経歴に似ているが、私たちの世代には、空前の景気の良さもあって、ピンキリだが起業家と呼ばれるヤツが多いのだ。いまは少し苦しいが、地道な経営者としてなんとかやっているようだ。
卒業してから私は、よほど他に興味が湧くことがあったのか、レトロな歌謡曲もブリティッシュロックも、レコード屋にすらいかなくなった。かわりに、そのとき流行っている音楽を聴くようになった。新しもの好きのロベルトの影響だった。
彼は卒業してから安い中古車を買って、よく私を夜のドライブに誘いにきた。カーステレオからは、いま彼が聴いているお気に入りの音楽が流れていた。私もいつしか、そんな今風のものに魅了されるようになっていった。
ロベルトはクルマが好きで、レースドライバーにでもなるつもりなのかと思わせるほどクルマの改造にカネをかけ、あげくの果てに究極の運転のプロフェッショナル、タクシードライバーになった。
ちょうどそのおなじくらいの時期に、ヒロシマが姿を見せなくなった。音響関係の専門学校を出て、いざ就職というときに体調を崩したらしいのだ。彼の安否がわからないのが気がかりだ。
ヒロシマとの、ささやかだが、最後の思い出がある――
あるとき、ラジオを聴きながら寝てしまい、朝になって爽やかな風とともに波間シンシアの歌声が流れてきて、その歌詞に半覚醒状態の潜在意識が刺激されて目が覚めた。三月の終わりだった。季節風が吹く眩しい朝。
その日は、ヒロシマと隣町にジーパンを買いにいく約束をしていた。そのショップがあるところは、ちょうど区画整理がすすんでいて奇妙な風景だった。
駅前だというのに、あちこちに空き地があり、そうかと思えばヘンに入り組んだ呑み屋横丁みたいな路地があったりした。人通りはほとんどなく午前中の明るい陽ざしに、呑み屋の《準備中》の札がくるくると揺れていた。
私が見立ててもらっているあいだ、ヒロシマはなかを物色するでもなく、ショップのウィンドーから見える空き地で、何度も何度も野球の投球モーションをしているのだ。架空のボールを投げては風に乱れた髪を直している。妙に微笑ましい風景だった――。
それがヒロシマとの最後の印象だ。あのときの景色はもうない。私にとってその景色は、これから始まる魅惑の季節に胸をときめかせていた記憶の象徴だった。
環境が変われば、それまでに持っていた志向性や人脈のしがらみも、あっという間に消えてしまう。大事に愛していた古いものを捨て、新しいものを求めてステップを踏み出したいという欲望に駆られるのだ。そんな吸収力旺盛な時代だったのだろう。
乾いた街の情景に『愛なき時代』が流れている。それらが真っ白い光のなかにホワイトアウトしていった・・・・・・
東京都下某養護老人ホーム。
午前九時。事務室に電話が鳴ると、二回目のコールで相談員が受話器を取った。
「老人ホームです」
ロビーでは現場のリーダーが、おもてのスロープを見ている。すでに陽ざしはギラギラと輝きだした。今日も暑くなりそうだった。
「いえ、まだ見えていません。ええ、勤務表では今日から出勤する予定なのですけど」
隣に座る事務長が「だれ?」ときく。「理事長です」といって受話器を渡した。
事務室のカウンターからリーダーが顔を出した。
「きそうもないですね。ミーティングやりましょう」
「どうしたのでしょうね、施設長」
相談員がいうと年長のリーダーが逆にきく。
「ケータイは繋がらないの?」
「切っているみたいですよ」
事務長が電話の受け応えをしている。
「なにもきいていません。連絡もないですよ」
事務室と廊下を挟んだ向かいの食堂からTVのニュースが漏れ聴こえている。
《今日未明、東名高速道路上り線の御殿場インターチェンジ付近で逆走してきた乗用車が大型トレーラーと正面衝突をして大破炎上しました。乗用車の運転手は死亡、大型トレーラーの運転手は軽傷の模様です。警察によりますと、乗用車は少なくとも百五十キロ以上のスピードを出していたと・・・ 》
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