表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

『揺れるGO!GO!』~『なにも見ず』

 私はもう一度、ルームミラーを見た。髪の本数が減ったぶん、皺の本数が増えている。どうせこれ以上、みっともなくはならないじゃないか。私も立場は倒れる前のシブイと、そうは変わらない。いっそ、倒れて解放されたいとさえ思うくらいだ。

 私のような気の抜けない毎日を送っていれば、どんな悠長な人でもどこかに変調をきたしてくるはずだ。遅かれ早かれ、気弱な人間にはすぐにその兆候が表れるだろう。

 施設の職員たちは気づいているはずだ。ただ、だれもそれをいわないようにしているだけなのだ。そんなことをいって仕事が増えることになるくらいなら、自分のことに集中していた方がマシだからな。私になにかあれば、それこそてんてこ舞いだ。

 ここのところ、通勤時に妙に動悸が激しくなることがあり、施設の看護師にパルスモニターを借りて測ってみた。水泳部時代、サーキットトレーニングで脈をとっていたときでさえ百そこそこだったものが、朝から百二十もあるのだ。看護師は器具が壊れていると思って、別のものを貸してくれたがやはり変わらなかった。

「なにか変わったことありませんでしたか?」

「そういえば最近、階段の踊り場で船に乗っているような目眩がすることがある」

 すると看護師は思いついたようにいうのだ。

「施設長さん、私もこの間、ものすごい立ち眩みがして」

「へえ」

「グラグラ揺れて地震みたいなんですよ」

「医者に診てもらった方がいいぞ」

 どっちが深刻なのかわからなくなってきた。

「おかしいなと思っていたら、なんと地震(・・)だったの!」

 私は、あいた口が塞がらなかった。心配して損した。看護師がこれだけ明るいと現場の職員もさぞ気が和むことだろう。それとも私に気休めでいったのか。


『揺れるGO!GO!』は、そのタイトルとは裏腹にまるで四畳半フォークのような曲だった。波間の曲にはこうした曲も少なくないのだが、なかでも最も湿っぽい純和風マイナー調だと思った。まして前の曲があまりに垢抜けた感じなので、その落差は大きい。

 することないから抱きあっていたとか、彼氏をまねてタバコを喫ったらムセたとか、こんな歌詞が流行ったのは私が中学生の頃ではなかったか。なにか狙いがあってこういう歌をリリースしたとしても、波間である必要性はまったくないと思えた。再び立ち上がろうとする暗い気持ちに拍車をかけているようだった。

(シブイ、オレもそう遠くないよ、きっと… )

 虚空の闇に浮かびあがる、あの日のシブイサンに語りかけていた。


 ――時代は遡って最後の競技会の日。私は唯一の出場種目に向けて念入りに身体づくりをしていた。他の連中がなにをしようと目に入らなかった。二年振りの大舞台で、慣れているはずだったが、思いのほか緊張していて、自分のこと以外なにも感覚器官に触れてこなかったのだ。

 アップの体慣らしも、召集のときも、後輩はだれもついてきてくれず、代わりにヒデオキがそばにいてくれた。彼の出番でもないのにと思ったが、そんなことを気にする余裕は私にはなかった。

 スタートの雷管の音とともに、私は飛び込んだ。これでもう、こんな舞台で泳ぐこともないだろうとか、最後だから滅茶苦茶飛ばしていこう、などという思いはまったくなかった。無の境地とでもいうのか、すべてを流れに任せて泳いでいるという感じだった。

 ブレスで半分だけスタンドが見える。ウチの学校のヤツはだれもいないようだった。もはや戦力にならない私のことなど、水泳部の連中は気にも掛けていなかったのだろう。こんな私を顧問の先生は、よくエントリーしてくれたものだ。

 だが、ヒデオキは去年の関東大会で私が世話係としてついていたのを忘れてなかったようなのだ。気がつくと、プールサイドの通路のところで、彼がずっと私の泳ぎを見ていてくれた。

(そうだ、彼にいわれたことを忘れないようにしなければ・・・ )

 水泳のようなあからさまに相手が見えない競技では、競い合いの対象といえば無機質なプールの水と自分自身だ。思い返せば初めてウチの学校のプールを見たとき、その冷たく無愛想に湛えられた水に恐れをなしていたような気がする。よもやそんなものと六年間ほぼ毎日つき合うことになろうとは、なんと皮肉なことだろう。私はそんなものを相手に、ずっと孤独で永遠な戦いをしてきたと思っていた。

 いまはちがう。長いかけがえのない友だちのような親しみすら感じる。これもめぐりあわせだったのか。私はコバルトブルーに透きとおった空間を落ち着いてキャッチした。

 結果は、入院前に持っていた自分の記録と同じだった。不思議なものでコンマ一秒単位まで寸分変わらないのだ。それでも私は満足だった。ブランクをやっと取り戻せたのだ。

 ヒデオキが見ていた通路を戻って帰るとき、顧問の先生がスタンドから声をかけてきた。

「どうした、ベストか?」

「ベストタイです」

「ああ、そうか。よかったな、御苦労」

「ありがとうございました」

 スポ根ドラマのような理想的な結末ではなかったが、ブランクを埋めることがこの学校でなにをしてきたのかという自分自身への証しになった気がする。入部したての、あの日の自分に『ふりむいたら電話して』といってやりたい――。


 そして私の水泳ライフは終わったが、まだあとがあったのだ。


『街角のラヴアフェア』は前の曲の反動だろうか、アップテンポの明るいロック調のノリだった。しかし、これもこの頃の波間が歌うのに相応しいと思えなかった。こんなのは昨日デビューしたばかりの新人アイドルが歌う、小娘が大はしゃぎするような歌だ。


 ♪私を探そうとしてもダメよ 私はどこにもいないから でも、本当はいつもアナタのそばにいるの・・・


 ――S先輩たちとちがい、早々に引退を決めた私たちの同期は夏休みに練習にいくことはなくなったが、受験のための補習授業があり、私は七月中だけいつもと同じように通学していた。付属の大学にいくのであれば補習に出る必要などなかったのだが、私は付属の大学にいかなかったS先輩と同じ大学にいきたいと思っていた。ウルフやロバなども出ていて、そこで彼らとの距離がますます縮まるきっかけになった。

 補習では英語と世界史を選択した。私は補習にくるのが楽しかった。

 グラマーの先生は、ちょっと小学校時代の「ミス女史」を彷彿とさせるハイミスで、いつもアルコールの臭いをぷんぷんさせていた。グラマーは自分たちの教室で授業をするため、教卓の真ん前の席だった私は、こっちが酔っ払いそうになるほどなのだ。彼女は、飼犬がいかに可愛いかという話に脱線していくのが常だった。

「これ、なにかの役に立つのかよ?」

 ロバは事あるごとにこんな愚痴をこぼしていたが、私は部活の呪縛から解き放たれて、なにもかもが面白かった。

 一方、世界史の教室にいくとヤンチャくずれがかたまっていて、いかにも勉強をするような雰囲気ではないのだが、一番まともな授業をやっていた。ここではクラス割りなど関係がなかったので、他のクラスのヤンチャくずれみたいな連中とずいぶん楽しくやらせてもらった。連中のなかにエッチもいて、「こっちこい」と呼ばれるから仕方なく私も仲間に入った。

 あるとき、昨年の某大学の受験問題を先生が私たちに出題した。三十人近くいて、だれもわからないようだった。私は教科書の欄外の註釈に注目して、これじゃないかとまわりの連中にいった。彼らはちがうと悉く首を振った。エッチなどは冗談と思ったらしく、笑っているのだ。

(本当にオマエらにわかるのかよ)

 すると、先生は一番目立つグループだった私たちを端から指名していった。「わかりません」という答えが続き、私に番が回ってきたので直感で彼らに否定された答えをいった。

「なに?」

 クラス中が大笑いになった。本当にちがっていたらしい。大恥をかいた。これで私も立派なヤンチャ仲間になってしまった。

 先生は次に、せっかく補習にきていながら机に突っ伏して寝ているヤツを指名した。彼はまわりの者に起こされ、かったるそうに上体を起こしながら答えをいった。それをきいた先生は目を真ん丸にして「正解」といった。

(ひえ~っ! こんなヤツじゃないと合格できないのかよ)

 おそらく、こいつはいつも朝方まで勉強しているのだろう。だから眠いのだ。

 この世界史のクラスで一番勉強しなければならないのは私だ、ということが明確になった瞬間だったろう。私は真面目に受験に取り組まなければいけない、と考えを新たにしなければならなかった。

 補習は午前中だけなので、帰りはこの連中の何人かに、別の科目をとっていたロバやウルフを加えて駅前の喫茶店に寄るのが日課のようになった。彼らにとっては受験という精神的閉鎖環境から、しばし解放される時間なのだろうが、まるで私は青春を謳歌しているような気分でいた。

 話題は、たいてい音楽のことだった。この期に及んで受験の話など、だれもしたくはない。私もポピュラーミュージックは好きなつもりでいたのだが、彼らとは志向性がだいぶちがっていることが初めてわかった。私のような暗く湿っぽいブリティッシュロックが好きな者は皆無といってよかった。ほとんどがルーツミュージックをベースにしたアメリカのウェストコースト志向だった。

 私は、そういう泥臭いものが嫌いだったから、喫茶店では黙ってアイスコーヒーを嗜むことに専念していた。まして古い歌謡曲の話をしようなんてヤツはいなかった。ここでも私は浮いていた。それでも楽しくて仕方がなかったのだ。

 皮肉なものだ。あと半年でこの学校ともオサラバというのに、いまさらのように楽しみが増える。小学校の最後のときもそうだった。あの楽しかった雰囲気をずっと探していたのだ。もともと自分の身近にあったものをあえて遠ざけていたのかもしれない。

『街角のラヴアフェア』の歌詞の意味がわかった気がした――。


 メリーゴーラウンドがゆっくりと減速していく。知らない間に私の意識は、あの当時にいったままになっていたようだ。暗い闇に映っていた記憶の映像は過激に走り続け、加速度的に私自身を引き込んでいた。

 この『五十嵐のせい?』という曲のおかげで、現実に引き戻された。覚えやすいポップなメロディの曲だった。初めて聴いたと思うのだが、波間はこんな意味不明な曲を歌っていたのか?と首を傾げた。

『五十嵐』って、だれだ?

 だいたい、こんなタイトルがあるか?

 私は夢を見ているのじゃないかと一瞬耳を疑ったが、オーディオからはたしかにそのタイトルの曲が流れているのだ。歌詞の内容は頭に入ってこないのだが、タイトルだけ見れば内向的なフォークの世界だ。およそアイドル歌謡の延長線上にいるひとが歌うタイトルじゃない。

 波間クラスになると、どう考えてもやる気のないタイトルですら売れたのだろう。いまなら大炎上だ。

 遠くの地平に赤みが射してくる。夜が明ければ、まわりの景色が鮮明になるだろう。いやでも現実に目を向けなければならなくなる。私は先を急いだ。

 気分を紛らわすために、どんどんアクセルを踏み込んでいく。車線の多い登坂路を天空の星を追うように駆け登っていった。他に走っているクルマの影もなく、私独りが漂う宇宙気流のなかのようだった。脳内麻薬の過剰分泌から気分は高揚して、ふと速度計に目をやれば一六〇キロを超えていた。でも、私を遮るなにものもここには存在しない。いま、星間(インターステラ)航行(オーバードライブ)の真っ最中なのだから。


《さて、波間シンシアさんは七八年にニューミュージックから、さらにアダルトなメロウ路線の『春のプロフェシー』という作品で、ふたたび注目を集めることになります。この流れで二曲をリリース後、突然芸能界から姿を消してしまいます。また海外留学したとか、結婚をしたらしいという情報だけが先行しましたが、彼女のその後の行方は杳として知れず・・・ 》


(えっ、なんだって?)

 私は『五十嵐のせい?』同様に、もう一度自分の耳を疑った。たしかに、この頃の波間のことを私はあまりよく知らない。そういえば、いつ引退したのかも知らなかった。

(行方不明? なんだ、それは? しかも、いくら昔のこととはいえ、堅い日放協の番組でこんなことまで紹介するか?)

 私は少し混乱してきた。そして波間シンシアが、その後どうなったのか無性に知りたくなってきた。早く家に戻ってネットで検索しなければ・・・


《放送時間も残り少なくなってまいりました。今夜の波間シンシアさんの特集、最後のコーナーは三曲お送りします。

『なにも見ず』、『春のプロフェシー』、そして最後のシングルとなりました『愛なき時代』です》


 私の頭のなかのメリーゴーラウンドが、また巡り始める。ゆっくりと、そして徐々に速度を上げて、くるくると走り出す。あの年の春先、高校三年の三学期のことがカラフルなプリズムに彩られて走馬燈から立ち上がるのだ――


 その年、全校一斉で漢字の書き取りがおこなわれた。漢字を知らない高校生が増えているという傾向に警鐘を鳴らす新聞記事が出たことをきっかけにしていたようだった。ウチの学校は一年から三年まで同日、同時刻一斉にやらされた。

 抜き打ちでやったわけではないのだが、こと範囲のない漢字の書き取りなど予習のしようがないので、私はなんの準備もしていなかった。もともとインドア派の私は、水泳を始める前は本ばかり読んでいる暗い子だったおかげで、自慢じゃないが小学校低学年のときは「漢字博士」などと異名をとったこともあるのだ。

 当日は得意顔で、監督の先生の目を盗んでは「見せろ」というゴッコやウルフ、まわりのヤンチャたちに教えていた。直後、すぐに答え合わせがあり、けっこうまちがえていることがわかると、見せた連中に「すまん、すまん」と謝ることになった。なにしろ「嗚咽(おえつ)」という漢字に読みガナをふる問題に、私は「あゝ」と書いたぐらいだったから。小学校の「漢字博士」などアテにならない。

 それよりも好意で見せたのに、どうして私が謝らなければならないのかと、しまいに腹立たしく思えたくらいだった。

 数日後、担任のゼニガタがホームルームで先日の全校一斉書き取りの結果が出て、上から十位までの者を昇降口の掲示板に貼り出すといった。

 十位までといっても同点同順位だから、全校レベルではけっこうな人数になる。点数では二位だが、人数でいけばトップの次は十人目ということもありえる。

 しかし、この吹き溜まりクラスの私たちには関係のない話だった。いつものひと通りの連絡事項だろうくらいにしかきいていなかったのだが、ゼニガタは驚くことをいった。

「このクラスから二位が二人も入っている」

 教室内に「エーッ」というざわめきが一瞬漏れた。もっと驚いたことには、その二人のうちの一人が私だった。あまりのことに私はフリーズするしかなかった・・・ と、いうことは答案を見せてやった連中も入ってないとおかしいではないか。

「オマエら、見せてやったのを書かなかったの?」

 すると彼らは口々に、全部は写せないといった。もし、私と同じ答案が彼らの分だけあったとしたら、面白いことになっていただろう。二位はウチのクラスで占められていたはずだ。ゼニガタも、さぞ鼻が高かったにちがいない。

 同時に、おなじ答案ばかりならカンニングの疑惑も出て、卒業を目の前にして大問題ともなりかねなかった可能性も秘めているのだが… 

 冷静に考えてみると、あれだけまちがいがあって、それでも二位ということは十位のヤツはどれだけ正解していたのだろうという疑問もわいてくる。ウチの学校だけでは判断できないが、たしかに漢字を知らない高校生が多いのだろうとは推測がつく。

 そう思えば、まる写しをしなかった彼らは賢明だったのだろう。まるで『なにも見ず』だ。このことが、あとになって思わぬ展開になる。

 以前に夏休み明けのホームルームで、自分の将来のことを書かされたことがあった。ゼニガタとしては、本人の進路について再確認したいという意図があったのだと思う。事実この後、ウチのような半端ないヤンチャばかりのクラスなのに、一人一人真摯に相談にのっていたときき、私はこの先生は尊敬に値する立派な人物だと思ったほどだ。

 私はこのとき、将来できれば出版や編集のような活字に絡んだ仕事をしてみたいと書いた。するとゼニガタは、私の書き取りの結果も踏まえて、卒業文集の編集委員会に出ろといってきた。受験のヤマ場を迎える時期になんてことだと思ったが、編集委員会も興味があったので、やってみたいという気持ちがあったのも事実だった。

 それだけではなかった。私は付属の大学の推薦試験を受けるほかに、S先輩の大学への願書も出していたのだが、それを知っていてゼニガタはこういってくれた。

「その大学を受けるのもいいが、オマエならH大学を推薦してやるぞ」

 そのとき私は「H大学」などきいたこともなかったので断ったのだが、文系選抜クラスの連中が滑り止めにするような大学だとあとでわかった。

 昇降口の掲示板には一度しかいかなかった。自分の名前が貼り出されているのを見ているのは気分がいいものだが、それを他人に見られるのはバツが悪い。他人は自分のことでないことなど、すべてたいしたことではないのだ。自慢げに見ているんじゃないよ、と。これも『なにも見ず』だ。

 だから自分の前に何人いたかなんてことも憶えていない。しかし、私にとって水泳で表彰状をもらうよりも勲章になった。その副賞が卒業文集編集委員会だった。卒業間近になって、やっとなにか自分のやりたいことができるような気がした。小学校の卒業文集編集委員をやっていたマンキチに抱いた羨望の気持ちが、やっとかなったのだ。

 委員会に与えられた部屋は、無駄にアイデアの宝庫のようだった。あのうるさいゼニガタでさえ、オマエたちでしかできないような文集を作ってみろ、と完全に放し飼い状態にしてくれた。各クラスから出てきた編集委員たちは、しのぎを削って面白い企画を考えてきたが、私にとってはどれもイマイチだとしか思えなかった。

 そこへいくと、わがクラスから私と一緒に委員になった〝N〟のアイデアは、シンプルだがいい味が出ていると思えた。彼はこういうことが好きで、志願して委員になったのだ。美大志望で漫画を描いているところなどは、私が水泳をやっていなければこんな高校生になっていたろうと想像させた。

 わがクラスの企画のほとんどはNのアイデアで、私はそれを手伝う程度だった。私は毎日、放課後の委員会活動に遊びにきているようなものだった。事実、ほかのクラスのメンバーは編集後記や隙間を埋めるコラムなどで、不毛なディスカッションを繰り返し、どうでもいい時間を費やしていた。その間、Nと私はシコシコと暖めたアイデアを具現化していた。

 クラスの頭のページには、Nが得意のゼニガタのイラストで埋め尽くされた。その裏には、だれもが知っているゼニガタの口癖が名言集として並べられた。それは常日頃から、授業で予習、復習をしなかった者を容赦なく吊し上げるときに使われたセリフの数々だったのだ。

 できあがった文集が配られた日はクラス中が大笑いになった。ゼニガタからは、苦笑しながら「オマエら、留年」といわれた。もちろん冗談だろうが、私は「なかなかいいじゃないか」などという、ありきたりで社交辞令的な褒め言葉より心がこもった言葉に思えて光栄だった――。


 後年、水泳部の後輩が私たちの卒業文集を見て「カセさんのクラスが一番面白かった」といってくれたときは本当に嬉しかった。これも私にとって、他人にはわからない勲章になった。史上最悪の掃き溜めクラスと自他共に認めるゼニガタ教室の面々は、分厚い卒業文集の最後尾にいまも光り輝いている。


毎週金曜日23時に更新します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ