『青春に恥はない』~『メロディ』
《さて、七〇年代も半ばになりますと「ニューミュージック」という言葉が盛んに使われるようになります。既存のプロテストソングやトラッドフォークや極端に庶民的な「四畳半フォーク」と呼ばれる歌と違い、非常に洗練されファッション感覚に優れたポップスへと変貌してきたのです。
波間シンシアさんの歌も、こうした時代の流れに沿ったものになっていきます。このコーナーでは、波間さんがニューミュージック系のアーティストに提供されたものを中心にお聴きいただきます。
まず、アーメンこと天井由芽さんから提供された『青春に恥はない』、次に八〇年にデビューしたアイドル歌手〝芦田マコ〟さんがカヴァーすることになる『ふるさとの雨が空から降れば』、三曲目は波間さんが歌手として最も尊敬していたといわれるアメリカの女性シンガーソングライター、〝ジャニーズイヤン〟から提供され、「私の代表曲」と公言していた『哀しい余生』、そして当時〝ある日〟という名前で活動していたフォークグループから提供された『懐かしぐれ』。四曲続けてどうぞ》
この頃、土曜日の練習が終わり、帰宅する時間に桜木健作がDJの番組を放送していて、よく聴いていた。この番組は、いまや私にとって瀕死の状態のポップス歌謡を紹介してくれて、後半のリクエストコーナーになると七〇年代のヒット曲が次々にかかるのだった。
尾崎豊彦や〝シュリッシュ〟、もちろん桜木本人の『涙くん、さよならと言おう』などは毎度のようにかかっていた。
ほんの三、四年前のヒット曲なのにFMでは、とくに民放では、まず耳にすることはなかった。ときには〝由美さおり〟や〝馬場アキ子〟など渋めの曲もかかった。
私にとっては夢のような番組だった。当然かかる曲は全部エアチェックするのだが、そのなかに波間シンシアの『青春に恥はない』もあった。ただ、この曲は当時としては新曲で、あまり思い入れがないのだが、このタイトルで思い出す胸が疼くような出来事があった――
その冬、私はシーズンオフのトレーニングから復帰した。また暗くなってから帰宅するようになった。ある日、帰りのバスのなかで田舎方面組の後輩のゴズラが、私の肩を叩いた。振り向くと、ゴズラは同じバスに乗ってきたグループを指さしている。
「?」
私は最初、意味がわからなかったが、よく見るとそのなかの女の子には見憶えがあった。ボーイッシュなショートカットの髪から覗く大きな眼…
(あのコは・・・ ゴズラがいってくるということは、なにかの知りあいだったかな?)
彼女は暖かそうなダッフルコートにデニムのロングスカート、ブーツといういでたちだった。近くにある都立高の生徒だろう、あそこは制服がないからと思っていたら思い出した。
そうだ、「通学電車のマドンナ」じゃないか! あのコを思い出すのはこれで二度目だ。こんな大事なことを忘れているなんて、まるで『粗忽の使者』だ。
「なんでオマエがあのコを知っているの」
「彼女、同じ駅から乗ってきますよ」
ゴズラも私と同じ駅からこの学校に通っていた。家は私のウチの目と鼻の先だった。彼女もウチの前を通って駅にいくということは、おそらくこの三人の家は極めて狭い範囲のなかにあるだろうと想像ができた。
「そうだよ。いつも朝、同じ電車だった・・・ 」といいかけて、ということはゴズラも同じ電車だったのか、と勘繰った。だが朝、ゴズラと一緒だったことはない。そういえば私は学園祭を境に電車の時間を変えていた。
きけばゴズラは毎朝、彼女と同じ電車だという。しかも、降車駅までの間に乗ってくるゴズラの同級生たちには評判になっているようなのだ。どうやら彼女は、ついに「通学電車のマドンナ」デビューしたみたいだった。
ふと向こうのひとかたまりの方に目をやれば、やはりあのコも、ちらちらこっちを見ているのがわかる。ゴズラは、どうやら朝いつも同じ電車に乗ってくる自分を見ていると思っているらしい。
しかしゴズラがそう思うということは、マドンナがだれにでもそんな素振りをしているとも考えられる。私はなんだか、あまりいい気持ちがしなかった。
(べつにオレのものじゃないから、いいか・・・ )
そのとき、私は彼女たちの集団のなかに幼なじみの同級生がいるのを見つけた。彼も私とわかったらしく、こっちに移動してきた。
「部活?」
「そう、軟式テニス部。カセクンは?」
「オレは水泳」
「水泳? 冬だぜ」
「ウチは硬式水泳なのさ」
どうやら、マドンナとコイツは同じ部活のようだ。彼女のことをきこうかとも思ったが、あまり物欲しそうな顔をするのも悔しいから、そこは耐えた。
駅に着き、そこで都立高の連中とは別れた。田舎方面組を引き連れてホームに降りていくと、こともあろうに私たちが乗るポジションではない位置にマドンナが独りで電車を待っていた。
気のせいか、熱いまなざしでこっちを見ているのだ。たぶんゴズラも、後ろ髪を引かれるような思いで、いつものポジションへ向かうためにマドンナの横を通り過ぎたのだろう。
(なにもこんなときに・・・・・・ 神様は意地悪だ)
そのときを境に、ゴズラはどうだか知らないが、私は朝も帰りもマドンナに会うことはなかった。あれが最後のチャンスだったのだろう。あそこでなにかしらのアクションをしていれば、その後の展開がちがっていたかもしれない。しかし、そこは後輩たちの手前、制御がきいてしまう自分に歯がゆさもあった。
『青春に恥はない』というかもしれないが、その『恥』の敷居の高さは、当時の私にとってオゾン層に空いた穴くらいあったのだ――。
そして『ふるさとの雨が空から降れば』。この曲は、世がニューミュージックだといっているさなかに初めて耳にしたのだが、揺るぎのない昭和青春歌謡の流れを汲む作品といえる。波間本人がニューミュージックに傾倒していこうとしているのに、まるで時代に逆行しているかのような甘酸っぱいノスタルジー感覚の完全な歌謡曲だった。
♪目を閉じれば揺れている雨のなかのアジサイの花・・・・・・
デビュー曲より典型的な歌謡曲に思えた。それもそのはず、この曲はシングルリリースではない。彼女のデビューアルバムの挿入歌なのだ。ここで紹介されたのは、波間が提供されたものばかりではなくて、この後アイドル歌手の芦田マコにカヴァーされたからということなのだ。
たしかにアルバムの挿入歌で終わるのは惜しい、私にとっては隠れた名作と思える歌だった。ただ、芦田マコが歌ったバージョンは、アレンジからなにからまったく同じにも拘らず、この曲の良さが出ていない。その証拠にヒットした形跡もない。芦田マコでは役者が違ったということだろう。
この曲は雨の季節が舞台になっていることから、高校二年の一学期の期末試験の頃とシンクロする――
試験中は部活動ができない。試験の中休みの朝、私は梅雨空の街へ出た。溜まり場だった私の部屋にタバコを置いていくヤツがいて、私はそれを定期的に近くの赤川に処分しにいっていた。
それだけが目的ではなかった。午前中の閑静な田舎の風情を残す道を辿って、Mと遊んだ場所をもう一度たしかめたいと思ったのだった。
なぜそんな気になったのかといえば、夕べ私がスタンドの灯りだけで机に向かっていると、部屋の外を歩き回っている足音がしたからだった。あの音はMのサンダルだ、と私は直感した。耳を澄ますときこえなくなるが、シャーペンを走らせ始めると、静寂のなかに際立つ筆音に混じって足音がきこえる気がした。
(M? こんな時間にまさか。アイツは関西にいったはずだ・・・・・・ )
どんよりと曇る空の下を赤川が流れていた。いまの季節は河川敷に藪が勢力を広げ、ジャングルのようになっている。Mがいたら大はしゃぎで飛び込んでいきそうだ。
Mは「放課後観賞会」の連中を集めては、このへんをうろついていた。私もよく一緒にいた。ときには足を延ばして町境にある山の大きな防空壕を探検しにいったり、この町にある都立動物園に裏山から忍び込んだり、赤川の水源までサイクリングしたり、ボウリングをしたり、小学校時代に世話になった先生のウチに遊びにいったり・・・・・・
(アイツはいま頃なにをやっているのだろうな。アイツのことだから、どこででも楽しくやっているのだろう… )
つい数年前のことなのに、妙に感傷的になって赤川を後にした。近くの図書館のあたりまで戻ってきたときに、向こうの路地を通り過ぎる人影を見た。それがマドンナに見えた。
(マドンナは、このへんに住んでいるのか?)
思いもよらない遭遇に私の胸は高鳴った。人通りもなかったので、そちらの方向に走ったが、もうどこにもいなかった。こうして徐々にマドンナへの淡い想いは、移り気の激しい私のなかでフェイドアウトしていった。
実は後日談があって、それから十五年ほど経って、ウチの近くのコンビニでマドンナとニアミスをすることになる。
夜、私がひと気のない店内で立ち読みをしていると部屋着としか思えないリラックスしきったスウェット姿の女性が入ってきた。彼女は財布を握って、ひとしきり店内を見回すとカウンターにいた店員に「○○は無いの?」ときいた。店員が置いてない旨をこたえると、なにもいわずに踵を返した。なんだかずいぶん横柄な態度に思えたので、私は一瞬そっちを見た。
(あれは、もしかして「通学電車のマドンナ」じゃないのか!)
あの頃と髪型も子どもみたいな内股の歩き方も変わっていない。ただその表情からは、あの日私を見つめた潤んだようなまなざしが消えていて、乾いた冷淡とさえいえるような目つきになっていた。まるで自分の家族にしか興味のない母親に見えた。いや、マドンナはその雰囲気から、間違いなくだれかの配偶者なのだろう。
(そうか、キミはママになったのだね・・・ )
私の記憶のなかから、忘れていたマドンナの章が閉じた瞬間だった。
『ふるさとの雨が空から降れば』を聴きながら目を閉じると、あのどんよりとした空の下の赤川の風景と閑散とした街の佇まいと、そこで見かけたマドンナの最後の面影が浮かぶ。
数日後、いよいよシーズンも本格的になってきたという時期だった。エッチと廊下で立ち話をしているときに、Mの足音のことがなんとなく気になって、軽い気持ちでその話をした。そのとき、エッチとMが同じ中学校にいっていたことなど私の頭のなかにはなかったので、Mの名は伏せて話した。
「テレポーテーションかもね」とエッチは冗談めかしていった。超能力繋がりで彼は数年前に、超能力者の〝バラゲラー〟のTV特番を観たときの話をした。
「止まっている時計を動かすっていうのさ」
「止まっているって、壊れているっていうこと?」
エッチは頷いた。まだクォーツだの、電池時計が一般的ではない時代だ。止まっているということはメカになんらかの支障があって動かないということになる。そういう時計をTVの前に並べておけば、バラゲラーが動かすといったらしい。
「動いたのかよ?」
「いや、そんなことやってみようなんて思ってなかったし、だいいち壊れた時計を探すのが面倒だろ? どうせ動くわけがないと思っていたから」
(壊れた時計が動いたという話じゃないのか?)
「ただ、自然と部屋にある時計に目がいくじゃないか? そのとき部屋にあったのは電気時計でさ、こんなもの止まるわけがないと思っていた」
「電気時計って、コンセント入れるヤツか」
「そうそう。文字盤がロール式にくるくる捲れていくヤツ。そのとき部屋にはそれしかなかったのさ」
「それは動いていたの?」
「ちょうど時間が変わるところでさ。べつに気にもしていなかったけど、バラゲラーがいま念力を送ったから止まっていた時計が動き出したはずだっていうのさ」
「オマエのところは関係なかったんだろ?」
「それがTV局に電話がバンバンかかってきて、回線がパンクしたっていうのさ。時計が動いたって」
「ええ、本当かよ?」
「オレも信じてなかったから、ニヤニヤして観ていたのだけど、ふと部屋の電気時計を見たら止まっている」
「え? オマエのところだけ動かす念を送られたら止まったっていうのか?」
「たしか、さっき動いていたのを見たと思ってよく見たら、なんとコンセントが入っていなかった。そんな電気時計まで動かしたのだ、バラゲラーは!」
「そんなバカな。オマエの見まちがいだろ」
「カセ、オマエ超能力を信じてないだろ?」
「信じる根拠があれば信じるよ。でも、その話はなあ・・・ 」
「オレの同級生でもすごいヤツがいて」とエッチが奇妙な話を始めた。
中学生のときにコックリサンが流行って休み時間にみんなでやっていたら、その「すごい同級生」というのが見ていて、コックリサンが出すお告げを次々に予言したというのだ。
そこに参加していたのなら自分で動かしたとも思えるのだが、質問するたびに次はこう答えるぞ、と見ていたそいつのいう通りのお告げをいい当てたという。
ケータイやゲームのアプリなどない時代だったので、そいつはいつもトランプを持っていて、神経衰弱をやるとそいつが全部取ってしまうのだそうだ。それだけでなく、裏返しのカードをいい当てることもできたという。
「本当かよ? なんかタネがあるのだろ?」
「なにもないよ。あるときなんか、学校帰りにぞろぞろ生徒が歩いているだろ? 前の方を歩いているアイツにこのゴムボールを落としてみようかっていうのさ。それで思いっきり空に向けて放り投げて。オレたちがボールの行方を目で追っていたら、当たるといったヤツの頭に吸い込まれるように落ちてさ。もう夢を見ているのかと思ったぜ。何度やってもその通りになる」
そこまでいわれると、たしかにそれは超能力かもしれないと思える。
「どんなヤツなの、そいつは?」
「なにしろ目立っていた。女の子の追っかけがいつも何人もいて、ファンクラブなんていくつあったかわからないくらいだったよ」
「へえ。そんなヤツがいたの」
「中三のときに引っ越しちゃったけどね。それが引っ越した先で事故に遭ってさ、死んじゃった… 」
そういうヤツほど寿命が短いのかもしれないのかな、などといってその場は終わった。ところがこの話は、あとで意外な展開をすることになる――。
無表情の未明の景色は、私を得体の知れない寂莫とした気持ちにさせる。思えば気が重くなるような不安は、いつも私を取り巻いていた。その度合いは齢を経るごとに大きく過酷にのしかかってくるようだった。
先日、かねてより懸念していた物故者の遺産相続者がやっと見つかった。九十歳を超えるバアサンだったが、最後はもう人間ではなかった。そういう状態で十年以上生きていたのだ。その間、彼女にとって、おカネの価値はもはやない。食べて寝るだけの生活ならウチは無料同然だ。年金だけでも相当貯まっていた。
若い頃は奔放な生き方をしていたらしく、いまなら離婚結婚を繰り返すゴシップ女優のようだったらしい。身体一つで家を飛び出し、暮らせなくなると親戚を頼ってカネの無心をしていたせいで、親類縁者すべてから縁を切られ、入所時には身寄りがないことになっていた。年金があること自体、不思議なくらいだった。
そうか…
私はパンパンが、なんでこんな遠くの町でセレモニーもない告別の会をしなければならなかったのか、わかった気がした。おそらく彼は景気が悪くなってから会社を手放し、そのせいで家族と別れなくてはならなくなったのだろう。
持病で働くこともできず、入院した病院でも手の施しようがなくなって、養護施設に入らざるをえなかったのだ。どこが措置の実施をしたのか知らないが、入れる施設があの町にしかなかったということなのだろう。
数奇な人生で最後は残念だったといわれるかもしれないが、私はなんだか彼らしいと思えてきた。
パンパンは無一文だったが、亡くなったバアサンの方は所持金をどうするかという話になり、彼女の入所措置を実施した役所は施設で処分してくれといってきた。処分といっても百数十万にもなる金額だ、捨てるわけにもいかない。親類を当たってくれと役所に依頼したが、該当なしといってきた。
仕方がないので彼女の墓所がある霊園に、永年供養は無理だとしても、せめて管理料として納めようとしたら、百年以上の先払いになるといわれた。そんな話は未だかつてきいたことがない、と。
施設の経営者から、せっかくおカネがあるのだから専門家に頼んで親類を捜してもらったらどうかと司法書士を紹介された。既に役所から回答をもらっていたし、いるとしても相続するという殊勝な親類がいるだろうかと勘繰った。
案の定、数人の相続権がある親類が見つかったが、説得まで司法書士はやってくれない。これも私の仕事になった。無駄だとわかっていても、他に処分の方法がない以上、やるしかなかった。相続権のある親類のほとんどが、おそらく借金を肩代わりして欲しいといわれるだろうくらいのことを考えていたにちがいない。かなり辛辣な言葉で断られ続けたが、なかの一人がなんとか考えてみるというところまでいってくれた。私の感触としては、これでいけると思った。今度は相続の手続きを世話してやらないといけない。
よけいなお荷物が一つ片付いたと思っていたら、今度は別の物故者の所有資産の件で、私に直接照会がきた。このバアサンも身寄りがいなかった。死亡診断書には私がサインしたのだが、それが所有資産のあるところの役所に回ったようなのだ。
要はその町に彼女は土地を所有していて、固定資産の納税義務者を捜してくれというものだった。いない場合は、土地の所有権はともかく、私が納税義務者になる可能性があるという。
そんなバカな話があるか、と私は役所に掛け合ったが、決まりは決まりだからと頑として受け付けてくれないのだ。これも司法書士に相談することになったが、今度はおカネがない。経営者は、それも含めて司法書士の先生とうまくやれということだった。
私を取り巻くすべてが責任逃れをしようとしている。私の心労は尽きない。現在のこの境遇を思えば、あの頃抱えていた精神的負担など負担のうちに入らないくらいだ。だいいち、いまの常に張りつめたままの状態とちがい、きちんと締めるところ、緩めるところのメリハリがあった。その間隙に物語が生まれ、そのたびに成長した気がする。
――遡って高校二年の春、私は復帰後初のシーズンで戸惑っていた。私が本来いるはずのポジションがなくなっていたのだ。入院前に0コースや7コースでゆらゆら漂っていた後輩たちの練習についていくことができなくなっていた。
コーチは私のブランクに配慮して、練習を知っていることから中学の練習を見ながら、徐々に参加していけばいいといってくれた。シーズンオフの基礎訓練では、そんな遅れなどないと思っていた。いまや私のモチベーションは、崩れる寸前の崖みたいなものだった。
思えばもともと好きで始めた競技ではなかったが、いやいやでも続けることで、いつの間にか地区大会程度では優勝することも当然のようになっていた。賞状などありがたくもなく、メダルは欲しがる後輩たちにくれてやったりしていた。
そのプライドが私にも芽生えていた。しかし、もはや入院前のレベルでさえ、どうやったら取り戻せるのか自分にもわからなくなっていた。
かつて水泳部に入部した中学一年のとき、友だちとキャンプにいくので一週間休ませて欲しいとコーチに頼んで叱られたことがあった。
「一日休めば、休む前の状態に戻すまで三日かかるぞ。一週間ならひと月遅れると思え」
私には一年というブランクがある。私が勝負できる時間は来年の五月頃までだ。戻せるわけがない。投げやりになってもおかしくなかった。その気持ちを繋ぎとめてくれたのが後輩たちの成長だったし、競技会に臨むスイミングの連中の真摯な姿勢だった。ヒデオキたち、スイミングの連中を受け入れたことが効果をあらわしていたのだ。
個人競技ではなかなか壁を越えられなかった関東大会に、昨年からヒデオキを交えたメドレーリレーで東京都の予選を突破するようになった。身体が戻ってしまった私は当然メンバーに入っていなかったが、今年も関東大会に出場するための遠征にマネージャーとして随伴することになった。もともとマネージャー専業の部員がいたので、私は個人メドレーで予選突破したヒデオキ専任となった。
ヒデオキは中学の頃こそモヤシのような華奢で小さな体格だったのに、この頃はもう私が見上げるほど身長も伸びて、肩幅もあり、立派なアスリートという体形だった。顔つきも精悍になって、眉間の上のスポーツ刈りのエッジは塩素焼けで、まるでメッシュを入れているようなクールさだった。
その会場で見たのは、ヒデオキとおなじスイミングの〝ジョー〟の人気ぶりだった。ジョーは女の子に囲まれサイン攻めにあっていた。まるでアイドル扱いだ。ジョーは次のオリンピックの長距離の出場候補になっていたのだ。私はそれほど懇意ではないが、彼のことはまだほんの子どもだった中学生の頃から知っていて、あまりに間近で見るその光景に目を疑った。
「アレが〝N子〟だよ」
ヒデオキが指さした「N子」とは、いま世間で注目されている将来有望な女子選手だった。私も新聞等では何度か見たことがあるが、実物は初めて見た。さすがに関東大会ともなるとスターが集まるものだ。
青い男もののような大きなシャツの腰をベルトで締めて洒落たワンピースみたいに着こなし、それこそスター気取りでプールサイドを歩いている。脇に入った深いスリットからナマ足が見え隠れして、まるでセクシーアイドルのようないでたちだ。およそ水泳選手とは思えないナリをしているところが、大物たる所以なのだろう。
「あんなカッコして彼女はエントリーしてないの?」
「こんな大会に出ても意味ないからな。冷やかしにきているのさ」
N子は記録を持っているので、直接インターハイへの出場権があるのだ。これはジョーも一緒である。
ヒデオキは、彼女は有名になってから全然練習をしなくなったらしいといった。ある程度の実績をつくると指導者も、なかなか選手にいい辛くなるというのだ。
「タイムが出ないらしい。N子も、もうダメだよ。みんな、ああやって潰れていく」
私はたったいま見たジョーの大フィーバーぶりを思い出した。一時の持て囃され方で気が大きくなり、激しい勘違いをするのだろう。
ジョーは大丈夫か? ジョーこそ、こんな大会に出ている場合ではないのだ。彼が見ているのは、もう「世界」なのだから。
遠征初日の午前中に別行動だったメドレーリレーの予選落ちが決まり、その夜、民宿のTVで『メロディ』という映画を観た。本国イギリスやアメリカではコケたのだが、日本では大ヒットした一種の青春映画だ。
ユーモラスなジャブがところどころに入るリアルで等身大の描写の前半と、胸がキュンとなるファンタジックな展開の後半との絶妙なバランスの映画だと思った。虚実入り混じる大騒動は、どこか『オレは青春だ!』にも通じる私にとってノスタルジックな世界に映った。また、挿入歌がこれを引き立てていた。
♪メロディ 人生は競争じゃない それはメリーゴーラウンドのようなもの・・・
この映画の主人公とヒロインは、日本で公開された時期と重なり、私にとって輝かしくも懐かしい時代のMと仲睦まじかった女の子を思い出させた。このまま終わればノスタルジックな切なさを抱えたままで眠ることになったのだろうが、大舞台から解放されたリラックス感もあり、コーチが民宿からポルノのフィルムを借りてきて、布団部屋で上映会を始めたのだ。
寝つかれなかった私もパンパンたちに誘われ参加していた。そこへ部屋が空っぽなのに気づいた顧問にばれて、遠征にきてなにをやっていると砂利の庭に座らされて説教された。参加していないのは翌日も出番があるヒデオキだけで、コーチや先輩たちは顧問から二度とスイミングの連中のことで不満はいわせないと窘められた。
翌日、メドレーのメンバーたちは帰るわけにもいかず市内見物に出てしまったのだが、午後から個人競技があるヒデオキの世話役として私はずっとついていた。彼は、そのルックスから学校ではヤンチャグループの一人だったが、こと水泳になるとストイックだった。このとき彼が競技に臨む姿勢から、いろいろなことを教えられた気がした。ただ、残念ながらヒデオキも予選突破はならなかった。
遠征の帰途、乗り換えの西日が眩しい東京駅で剣道部の連中とばったり会った。彼らは段位認定にいった帰りだという。
剣道部の顧問の「ゼニガタ」と呼ばれる先生は、学年の生活指導担当で厳しいことが有名だった。風紀を乱す者に対して容赦のないことから、時代劇の敏腕岡っ引きに例えてそう呼ばれていたのだ。
手を出すようなことは一切ないが、授業中の威圧感が凄かった。ゼニガタが教壇に立つだけで教室は静まりかえる。あの感情のない氷のようなまなざしのなかで、よく剣道なんてやっていられるなといったら、主将の〝I〟はいうのだ。
「そんなことはない。いい先生だよ」
「またまた。こんなところで段位認定の点数稼ぐなよ」
そのときIは苦笑いしていたが、三年になってこの先生が自分の担任になるとは夢にも思っていなかった—―。
その後、ジョーは世界選手権の千五百メートル自由形に日本代表として出場し、日本記録を塗り替えたが、政治的な理由からオリンピックはかなわなかった。風の噂に、彼はいま民放局のスポーツ編成部長をやっているときいた。
あのときのヒデオキの禁欲的な態度を思い出し、私は後輩に負けている自分を鼓舞した。
(コイツらに負けてたまるか!)
好きでもないことに打ち込むという現象は、われながら不思議なことで、水泳をやっていなければこんな経験をすることはなかったろう。
このことが大好きな音楽漁りを少し遠ざけることになった。もちろん好きなことだから、まったく断つなんてわけにはいかないが、ブリティッシュロックと六〇~七〇年初期の歌謡曲以外は切り捨てられることになる。
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