『想い出通りになった』~『チンチラ』
《三曲お聴きいただきました。
さて七〇年代も半ばになりますと、歌謡曲もだいぶ作風が変わってまいります。フォークブームの到来とともに、歌謡界もフォーク風の歌が大勢を占めるようになりました。
とりわけ波間シンシアさんは、もともと洋楽に影響を受けていたうえ、大学生活でフォークへの造詣も深くなり、このあたりから徐々にフォーク調にシフトしていきます。
その頃の歌を聴いていただきましょう。
『想い出通りになった』、『ひと声かけて』、『ひるねむり』三曲続けてお聴きください… 》
このあたりになると曲名をきいただけでは思いだせない歌もある。ちょうど歌謡曲が衰退していった過渡期だったのだろう。FMを聴いていると、たしかにどれもみんなフォークのようなものか、フォークだった。「ニューミュージック」という言い方をしだしたのもこの頃ではなかったか。
私は淋しくもあった。あの懐かしい時代に流行った歌謡曲がなくなっていくのを見ているのだ。思えば当時はバリエーションに富んだものばかりだった気がする。
〝堺正臣〟の『さらば変人』、〝美川きよし〟の『十円ちょうだい』のようなオーソドックスなものから、浅丘ルミ子の『ひとの花嫁』や安部マリアの『ふたりの日曜日はダメよ』などのアイドル歌謡、ベテラン役者と児童合唱団とのコラボで〝左朴念仁&じまわりシティーズ〟の『老人と子供のオルガ』等の企画もの…
これら、歌謡ポップスの名曲は、おそらくもう出てこない。この頃が歌謡曲の成熟期だったのかもしれない。私にとって一番楽しかった時期と重なる。これらの曲は、だんだんとFMでも聴かれなくなっていった。そして私にとって、とても楽しかった思い出がどんどんと遠ざかっていく気がした。
「三人小娘」も「中三小娘」も、あんなに活躍していたのが嘘のように名前をきかなくなった。この頃にトップアイドルといえば、ゴルフウェアに身を包んだ三人組〝キャディーズ〟と攻撃的なダンスが売り物の二人組〝パンクレディ〟が世の中を席巻していた。
ラジオで聴く限り、コンスタントに新曲をリリースしている波間シンシアはニューミュージックシーンに移っていったし、浅丘ルミ子はもともと演歌系で売っていたので意識しないのも無理はないのだが、安部マリアはどうしたのだろうか。いつの間にかフェイドアウトしているではないか。このへんがショウビジネスの怖いところかもしれない。
『想い出通りになった』は聴いた途端、あの真っ白い窓辺を思い出した――
春休みが明け、私は高校生になった。同時に私の気持ちも変化していた。懐かしがってばかりいた後ろ向きの姿勢が、環境に慣れ親しんだせいか、生活にメリハリが出てきた。そして日々を刹那的に過ごしていた気持ちにも安定して余裕が持てるようになった。
いつからか通学の同じ電車に乗ってくる女の子がいた。同じ駅から同じ車輌に乗り、そして同じ駅で降りる。彼女は私の学校のすぐ近くにあった都立高に通っていた。いままで見たことがないということは新一年生なのだろう。もし私が私立にいっていなければ、同じ公立中学で同級生だったかもしれない。ちょっと勝気な感じのボーイッシュな髪型で目の大きなカワイイ娘だった。
いつからか私は彼女がウチの前を通るのを見はからって、わざわざ同じ電車に乗れるように合わせていた。彼女を見つけたときから、初めて学校にいく楽しさを実感したようなものだった。毎日、憂鬱な気分でベッドに入っていたことが嘘のように、明日また学校にいくのが楽しみになっていた。
ある日の午後、その日は体育祭の練習があり、運営委員として出ていた私は一緒に委員会に出ていた同じクラスの〝E〟の前で座り込んだという。
「どうした?」
「いや、なんでもない。ちょっと腹が痛いだけだ」
私はいつものことだと思っていた。ちょくちょく、食事のあとで腹痛を催すことがあったのだ。Eは過分に心配してくれて、ついに私は早退することになってしまった。
大げさな、と思っていたのだが、帰途の電車のなかでは立っているのも辛いほどになった。家に帰ると母親がいつもより早く帰ってきたことと、異様に顔色が悪いのを察知して、すぐ医者に連れていかれた。
検査の結果、どうも尿道炎らしいといわれた。抗生物質をもらい、その日は休んだのだが、私は翌日も学校にいくつもりでいた。
ところが翌日の朝、トイレで真っ赤な小便を見ることになり、私はその鮮烈な色に貧血を起こしそうになった。すぐまた医者にいくと、血尿はともかく、タンパクの量が基準値より多いといわれ、総合病院できちんと検査を受けられるように紹介状を書いてくれた。
その日のうちに総合病院で診てもらったら、やはりタンパクが多いといわれ、様子を見るため入院を余儀なくされた。もし、このままタンパクが出続けたら腎機能が正常でないという結果になるらしいのだ。腎臓は一度壊れると移植しない限り、元には戻らない。もう学校にいくどころの話ではなかった。
あの娘に会うことはかなわなくなったが、水泳部の厳しい軍隊生活からは思いもよらないところで逃れることになった。なにしろ安静に寝ていろというのだ。この若さでこんな楽な日々を送ることになるとは思ってもみなかった。
しかし、二週間もすると下腹部や放尿の際に伴っていた痛みもすべてなくなって、ほぼ普通の人と同じように快復したと思えた。しかし、医者がいうにはある程度の時間様子を見る必要があるというのだ。それからが退屈な日々との闘いとなった。これが闘病生活というものなのかと思った。
入院した当初はよく眠れた。そのうち消灯後が苦痛になった。なんともない健全な肉体で暇を持て余しているのだ。疲れてないのだから眠れるわけがなかった。母親に頼んでラジカセを持ってきてもらい、また音楽三昧が始まった。
時期は五月から初夏に向かって、いい陽気だった。病室の窓の外は日々刻々と風景が鮮やかに変化していった。街にはさぞ爽やかな風が吹いていることだろう。こうなって、初めて健康なヤツらを羨ましく思えたものだ。
午前九時から民放FMで『朝のメロディ』という番組をやっていた。三十分間、歌謡曲のリクエストに応えるのだ。ほとんどがニューミュージック系のアーティストで、よくかかったのが、その当時ほとんど無名に近かった女性シンガーソングライターだった。
『恋のスーパーパラライザー』、『山下につかまれたなら』、『ベルベットトースター』、そして『ルーズな伝言』。そう、それから何年もしないうちにブレークして、その後日本を代表するアーティストとなった「アーメン」こと〝天井由芽〟だった。
実は、私は彼女がデビューするときから知っていた。私が洋楽に傾倒しだして、毎月購読していた『ミュージック生活』という雑誌の最後の一ページ広告にでかでかと出ていたのを憶えている。レコード会社は相当、力を入れていたのだと思う。ただならぬ才能があることを見抜いていたのだろう。なにしろ作詞、作曲、編曲、歌、各種キーボード演奏からプロデュースまで、すべて彼女がやったような表記だった。
中学三年の合宿のときに、音楽には先取り精神旺盛な〝S〟という先輩が、合宿所で暇さえあれば流していた。このとき初めて、その才女の歌を聴いた。はっきりいって妙に耳に残る歌い方で、フックありすぎという独特の音楽性だと思った。それまでに聴いたことがない、好みが激しく分かれる個性だとも思った。新しもの嫌いの私は、当然否定派だった。
毎日、明るい窓際の風にそよぐ無色のカーテンを見ながら、またあるときはミルクのように白く濁った梅雨空を眺めながらアーメンの歌を聴いていると、その世界が頭に浮かんで、退院したら彼女のアルバムをじっくり聴いてみたいと思うほどになっていた。
反比例して、聴くのもかったるく思えたのが波間シンシアの『想い出通りになった』だった。この曲もほぼ毎日、しかも必ず一曲目にかかるのだ。
彼氏と表参道をおしゃれに遊びまわるという能天気な歌詞で、軽薄としか思えなかった。この両者の歌を聴きくらべていると、いかに波間の歌詞の底が浅いかということが思い知らされる。
それはおそらく波間の、ということではなく、アーメンの感性が突出していたのだろう。幸い、波間シンシアというシンガーを嫌いになったわけではなかったので、他の曲はほとんどエアチェックしたにも拘らず、この曲だけは録ろうという気も起きなかった。
眠れない夜はそうして録音したテープを聴きながら、なぜか女子部のC子サンのことばかり考えていた。私は年上の女性に憧れがあったので、身近で憧れるとすればC子サンしかいない。どうやったらC子サンと仲よくなれるのか、この間みたいなチャンスがもう一度こないか、偶然に偶然が重なり・・・
そんなありえないことばかり想像していた。
このときアーメンの歌や、『オレは青春だ!』の主題歌である桜木健作の『涙くん、さよならと言おう』を繰り返し聴いていた。おかげで私にとって、とても大事だった時期のテーマ曲が、記憶のなかで入院のテーマ曲にすり替わってしまった。病院ではこのテープしか聴けなかったのだ。こうして、またちがった意味で悶々とした日々を病院でも過ごした。
七月になって、母親が担任から「このまま二学期も休むようであれば留年を覚悟してもらう」といわれたそうだ。私は、冗談じゃない、なんともないのに留年させられてたまるかと思い、荷物をまとめて無理やり退院してしまった。
八月に経過を診てもらうために受診したときに、朝イチでいったにも拘らず、順番をとばされ昼まで待たされたうえ、担当の先生から「バスケットもほどほどにならやっていいよ」といわれ、もう通院も止めようと思った。この先生は自分の患者をまったく憶えていないようだった。
「水泳は全身運動だから適度にやるぶんにはいいが、身体は冷えるし、負担がかかるから過労気味だとタンパクも出るかもしれない。腎臓にはよくない」といっていたのは、先生でしょ?
どうも私は「先生」と呼ばれる人たちには印象が薄く見えるらしい。たしか小学校六年のときの「ミス女史」もそうだった。
まあ、いい骨休みにはなったが、以前の生活パターンをすっかり忘れてしまっていた。私自身は腎臓疾患の疑いは晴れたと信じていたが、やはり一抹の不安はあった。復帰して、またあの過激な練習の日々を送れるか自信がなかった。
ある夜、退院の報告かたがた、コーチに電話して半年の休部を申し入れた。実は辞めることも考えていたのだが、せっかくここまで我慢して鍛えたうえ、結果まで出ているのだ。水泳に費やした膨大な時間と労力を簡単に棒引きにする踏ん切りがつかなかった。
夏休みの残りはいままでにない自由な時間を過ごせた。私は普通の高校生となったのだ。
こうなってみると、自由といえども、いままであった大きなものがごっそりとなくなってしまうわけだから喪失感は大きかった。遅れている勉強をすればいいと思うかもしれないが、私にはもはや勉強の仕方もわからなくなっていた。
そのかわり、それまでできなかった「放課後観賞会」の連中が普段やっているようなことを一緒にやった。
まず、髪を伸ばして中分けにしてみた。そして吉祥寺にジーンズを買いにいったり、新宿にビートルズ三本立てを観にいったり、渋谷に直輸入のレコードを漁りにいったり、その帰りに喫茶店に寄ってみたり、友だちのバンドのライブにいったり、夜中にあてもなくうろついたり、そこで見つけたクルマのなかのアベックの行為を覗いたり、深夜放送を聴いたり、聴きながらインキンを掻きむしったその手で耳垢を穿って中耳炎が膿んだり、さらにその手で目をこすり酷い結膜炎になったりもした。
私の部屋でロベルトと酒を飲んでみたりもしたが、私はタバコだけは喫わなかった。無意識に、もう一度水泳部に復帰するつもりでいたのかもしれない。
『想い出通りになった』は、アーメンや桜木健作とともに、聴くたびにあの白い窓辺を思い出す――。
《さて、波間シンシアさんはフォークの代表的な作品をかなりカヴァーしています。このコーナーではそうしたカヴァー曲を紹介していきましょう。
〝木村拓郎〟さんの作品から『沖田草子』、同じく木村拓郎さんと共演した『ワルの彼がついてきたら』、〝井戸上用水〟さんの『ここの模様』、そして木村拓郎さん、〝やかましひろし〟さんとの共演で彼女自身に捧げられた『チンチラ』です… 》
新東名は山間を走るため、夜中の走行時は宇宙空間を漂うようなものだった。山間部のハイウェイ灯は薄暗く、まわりの様子がまったく想像できず、見えるのは空の星だけなのだ。この番組のタイトルである《星間航行》とは、よくいったものだ。おかげで、しばし過去の時間を楽しむことができたが、生理現象には勝てない。
私は静岡のサービスエリアに入ることにした。タイミングよく、いま流れている曲は聴いたことがなかったし、このコーナーは他人のカヴァーばかりなので、思い入れはとくにない。用を足すならいまだと思った。
ここにきて、思いもよらず楽しい休暇になった。トイレから出てきて時計を見れば、もう三時になろうとしている。夜が明ければ最後のお休みだ。この調子だとウチに着いても寝るだけだろう。目が覚めれば、また気の抜けない毎日が待っている。
その昔、「蒸発」という言葉が流行ったことがあった。平凡なサラリーマンが突然姿を消してしまう、という現象だ。彼らは変わりばえのしない、ストレスの溜まる毎日から逃避しようとするのだ。ドラマなどで、それをテーマにしたものをよく見た。
子ども心に、そんなものなのかなあなどと思っていたが、小学校じぶんには私のような協調性のない、集団生活が苦手で独り遊びが好きな子どもは、常に学校にいきたくないと思っていたから、まったくわからないわけではなかった。
いまならわかる。だれも好きこのんでストレスの溜まるような仕事をしているわけじゃない。そうしないと生活できないのだ。一家を路頭に迷わすわけにはいかない。必死なのだ。そして定年で仕事の重圧から解放された途端、精神の解放も始まる。記憶は崩壊してゆき、見当識は潰滅し、社会モラルが霧散したあげくの果てに認知症という終着点に着く。
私も、いまの収入がなくなることには恐れがある。それがジレンマなのだ。いまの雇用システムでいけば、少なくともあと十年はこんな精神状態を続けなければいけないことになる。自分自身が定年まで持つとはとても思えない。
暗いサービスエリアの自販機コーナーで缶コーヒーを買いながら、もう頭はそんなことを考えている。エリアの端にある喫煙所に向かって歩いているとき、下界で救急車の音がこだましていた。近頃、珍しくもないこの音はケータイの着信音同様に神経を苛める。
ウチの施設じゃないだろうな、と勘繰るのだ。実際、ウチの施設ならサイレンを聴く以前にケータイが鳴っている。利用者の様子がおかしいので救急車を呼びましたから、至急きてください、と。
一人体制の宿直で、施設を空けることができない職員の代わりに私が駆けつけなければならない。それがせめてもの、彼らの不安を取り除いてやれる術なのだ。
夜中にそうして叩き起こされ、クルマで施設に向かうとき、どうしてもハードディスクではなくラジオを聴いてしまう。できるだけ軽い内容の番組がいい。深夜の死んだような街を通行するのは空虚な気持ちに拍車がかかるものだ。どうでもいいバカ話を聴くことで気が紛れる。
施設なり病院に着けば、そこはもう特殊な結界だ。気を張っていなければならない。病院で検査ということになれば、優に五時間は縛られる。なにもなかったとしても、施設に戻れば夜が明けている。通常勤務に入らなければならない。
ウチのような職員の少ない小規模施設では、私のような事業所管理者に責任の一切が掛ってくる。現場の職員のようなブランチはいない。のんきに今日は半休だ、などといっていられない。
いま頃、施設の連中はどうしているのだろうか。そんなてんてこ舞いになっていないだろうな。いや大丈夫だ、もし大変な状況なら、たとえ休暇だろうとお構いなしに連絡が入る。人間というナマモノを扱っている関係上、容赦はない。
なにかに巻き込まれ消えてしまうことができれば・・・ などとヘンなことが頭をよぎる瞬間もある。「蒸発」してしまえれば…と。
夜空に紫煙が消えていった。さて、ぼちぼち生暖かい記憶のなかに再没入しようか。
イグニッションボタンを押すと、流れ始めたのは聴いたことがある曲だった。これは懐かしい。そうだ、たしかこんな歌があった。
この『チンチラ』という歌は、波間のファンだと公言して憚らない木村拓郎と、やかましひろしが、アイドルをいなくなったペットにたとえて男目線で歌った曲だった。
♪チンチラ キミの声が チンチラ キミの目で ボクの部屋のカーテンやカーペットが昨日のままなのがわかるかい・・・
木村拓郎の個性的な歌い方は他のシンガーソングライターにもひけはとらないが、やはり人気があるだけあって軽い感じだと思えた。その木村が、やかまし、波間と組んで発表したのがこの曲だった。リリース当時は頻繁に耳に入った。
男性サイドの曲なので、当時の悶々としている自分には共感できたのだろう。歌謡曲らしい歌がなくなっていくなかで、この曲はすんなりと私の気持ちに受け入れられた。この曲を聴いた時期のことも大切な思い出だったから―――
それは新学期も始まって、やっと学校にも慣れた頃、いつも乗る始発電車のドア脇の定位置で発車を待っていたときのことだ。いましも発車しようとしている電車に駆け込んできた女の子がいた。私と反対側のドア脇に立った彼女に見憶えがあったが、それがだれだったか思い出せないでいた。
(この娘はだれだっけ? どこで会ったのか・・・・・・・・・?)
ドアに自分の腰でバッグをおしつけ、ウィンドーに微かに映る自分の髪を盛んに両手で抄いている。寝起きですか、といった感じだ。もろに向かい合わせで、まるでお見合いのような立ち位置の彼女を私はじろじろ見ていた。女の子の知り合いはいないとしても、どこで見かけたのかを一生懸命思い出そうとしていたのだ。
顔を突き合わせているのだから、ときどきその娘と視線があった。そのたび、お互い気まずそうに視線を逸らすのだ。
(たしかに、どこかで見た憶えがあるのだが・・・・・・ )
次の駅で、いつものようにヒョロオが乗ってきた。彼もここが定位置で、まれにここに乗るために走り込んでくることがあった。私がここに乗っていることがわかっていたからだ。新学期になってからは、それがいつもの朝だった。
ヒョロオは学業では常にトップクラスにいるのに、なんでこんな能無しの学友を気にかけてくれるのかと私は不思議に感じていた。
入院中も「放課後観賞会」の連中を別にすれば、いちばん顔を見せてくれていた。試験のときも遅れた分を取り戻せとノートを写すために、当時一般的ではなかったコピー機を置いている店を一緒に探してくれたりした。
彼女と私の間にヒョロオが立って、私たちは雑談にこうじたが、頭のなかは彼女のことでいっぱいだった。だれだか、ちっとも思い出せないのだ。
「木村拓郎にくらべて、オマエに借りた〝小黒ケイ〟の歌は難しすぎる」などといっていたが、実は気もそぞろだったのである。ヒョロオの背後で、彼女がこっちを見ていることもわかっていた。やっぱり彼女も私に見憶えがある様子だった。
駅に着いて、通勤通学の混雑のなかで、彼女も降りるのを見たとき思い出した。
(そうだ、入院前に毎朝同じ電車に乗っていた都立高の娘だ!)
思い出した途端、胸がキュンと鳴った。雑踏に紛れて彼女の後姿が見えなくなると、ヒョロオがいうのだ。
「オレのうしろに女の子がいただろ?」
「都立校の娘だろ? 一緒に降りたぜ」
私はとぼけていた。
「カセのことをじろじろ見ていたぜ」
「本当? 同じ駅から乗るよ、彼女」
平静を装ってはいたが、気になっていた彼女を思い出したと同時に、そんなことをきかされれば朝から気分がいい。だが、いつもここで陥る状態があった。このあと私はどうすればいいのだろう、ということなのだ。ヒョロオが一言「彼女、オマエに気があるぜ」といってくれれば、私も背中を押されたような気になって、次の進展があったかもしれない。
しかし、私はどこかで安堵感に浸っていた。なにしろ彼女とは毎朝同じ電車で会えるのだ。どこでどんなチャンスがあるかもしれない、とまたありえない想像をするのだった。
ヒョロオと私と彼女の通学パターンはしばらく続いたが、ある日ヒョロオが乗ってこないことがあった。次の駅ではいつものことながら大量の人が乗ってきて、ドアに押し潰されそうになる。私は意識的に彼女のうしろに回っていた。ドア、彼女、私、大量の人という構造で、自動的に圧力はすべて彼女にかかってくることになる。
案の定、私は彼女の背中に密着した。私は、これは幸せだ、などとニヤけていたわけではない。このままでは彼女がノシイカみたいになってしまうと思った。彼女の両脇から腕を出して、自分の懐に彼女を抱えるようにして隙間をつくるために、背後に立ったままドアに腕を伸ばした状態にしていた。
彼女は一瞬、ドアのウィンドーとキスをしたが、次の瞬間には軽くなり、「あれっ?」という感じで左右を見まわした。気づいたかどうか知らないが、私が支えてそのまま降りる駅までいった。その方が私にとって幸せ感があった。
もし、そのことを気づいていたなら、キミは私にお礼をいってたろうか? そんなことを考え、ヒロイズムに浸っているのが好きだった。実は、このときが最大のチャンスだったかもしれなかった。
その後、私は学園祭関係のイレギュラーなスケジュールで彼女とは同じ電車に乗らなくなってしまったのだ。私は担任から長期欠席の穴を埋めるために、せめて学校祭行事の裏方に参加した方がいいと勧められ、実行委員会に出て早朝登校で受付をしたり、ハードゲイに頼まれ学長の接待準備を手伝わされたりと忙しいときを送ることになってしまった。
受付では、ロベルトやフーチャンと同じ地元の公立中学出身の〝H〟と一緒だった。Hとは共通の知り合いがいることですぐに打ち解けたが、この男は中学で同級生だった女の子の話ばかりするのだ。
「○子を知っているか? じゃあ○美は?」といった具合だった。コイツは相当飢えているなと思った私は、Hを「エッチ」と呼んでいた。
学校祭二日目には、エッチと同じ中学出身の女の子が二人きた。二人とも私と同じ小学校の出身でもあり、あの独裁者「ミス女史」のクラスの生徒だと思った。
私たちは受付の担当の先生から、パンフレットが足りないのでグループの場合は一部渡せばよいといわれていた。ところが彼女たちは、それぞれ一部欲しいという。エッチは知り合いなので、せがまれて困っていたが「ダメだ」と頑張っていた。私はエッチの顔を立ててやろうと思い、彼女たちの一人に陰からもう一部渡してやった。
「ありがとうございます」と彼女たちは喜んでお礼をいったが、私とエッチは人差し指を口にあて「いけ、いけ」と二人を追い払った。
二人がいったあとエッチは「いいのかよ?」ときいてきた。
「一部くらい、ケチケチするなって。オマエの知っているコたちだろ。オマエがシミッタレだと思われるぞ」
エッチは軟派を装ってはいたが、こういうところでは従順のようだった。私も、いくら部数が少ないからって一部くらいいいじゃないかと思っていたのだ。ところが、最終日になってパンフレットが全然足りなくなり、結局私とエッチは職員室で使い慣れないコピー機と睨めっこをすることになる。
その日の午後にはハードゲイから頼まれた学長の長寿を祝うパーティで、アトラクションをすることになっていた。なぜハードゲイにそんなことを頼まれなければいけないのかといえば、ハードゲイは高校から柔道を辞めて社会奉仕活動をするサークルに籍を置いていて、そこが学園祭に絡めて学長の長寿のパーティを企画したらしいのだ。
実は男女別学のウチの学校で、女子と一緒に部活ができるというのは水泳部だけではなかった。というより、水泳部も一緒に活動しているわけではないので、唯一一緒なのはそのサークルだけなのだ。ハードゲイはそれが目的だったらしい。そこに籍を置くことで、彼がゲイ(!)ではないことの証しになった。
学園祭の前、まだ私が幸せな通学時間に浸っていた頃のことだ。
「カセ、オマエ落語ができるらしいな」
「なんだよ、いきなり」
「水泳部の顧問の先生からきいたぜ」
私は中学三年の合宿のとき、打ち上げのかくし芸大会で『留守番』という小噺をやったことがあった。そのとき顧問の先生から、意外なかくし芸を持っているものだ、と総評で褒められた。
私は小学生の頃から落語が好きだった。私のまわりには何人か、そういう子どもがいたので、それがかくし芸になるとは思ったことがなかった。こんなところで役に立つとは思わなかった。人生に無駄なものはなにもない。
どうやらそれが、回りまわってハードゲイの耳に入ったようだ。学長のパーティを断ることもできたが、自分にできそうなことは断らないというのが私自身の信条だった。尻ごみするのはみっともないし、なにか自分の役に立つだろうと思っていた。
休部中で精神は弛緩しまくりだったし、このあたりでなにか緊張を自分に与えてやらないと、と思ってもいた。そういえばカッコいいかもしれないが、とりわけ私は担任から出席日数の足りない分をなにかで補え、といわれたことがハードゲイの申し出を断らなかった一番大きな理由だったかもしれない。
ハードゲイは「せっかくのめでたい席なのだから『寿限無』をやれ」といってきた。それもいいが『寿限無』は、あまりにポピュラー過ぎて、面白みに欠けると思った。だいいち、そんなたいそうな場で忘れたらどうするのだ。あれは早口でやらなければいけないが、一度止まるとあとが出てこなくなる恐れがある。
それならいっそのこと、だれも知らないようなお題で、忘れたらアレンジできるようなやさしいヤツをやろうと思い、『粗忽の使者』をぶつことにした。
江戸時代、ある藩の過剰に落ち着きのない武士が他藩にお使者に出るという噺だ。馬の前後をまちがえる、取継役の家臣の顔を何度見ても憶えられないという、ほとんど病気の武士が主人公なのだ。いまでいう若年性アルツハイマーにちがいない。
これを面白おかしく自分なりにアレンジして喋ったが、本番のときのことがまったく記憶に残っていない。緊張で瞬間的な空白状態になったようだ。なにを喋ったのか、思い返すとそら恐ろしくなる。いったい、だれが『粗忽』なのか…
終わってみると、高校生になったということ以上に特別な一年だった。学校生活をほとんど部活で過ごしてきた私が、クラスメイトとつき合うことなどなかった。彼らの援助もあって、なんとか無事に二年生になることができそうだった。
ただ、自分的にはなにかが足りなかった。授業が終わり、帰宅してレコードを聴く毎日にも飽きてきたのだ。無意識に生活のルーチンを元に戻さなければと欲していたのかもしれない。
そうだ、水泳部があるじゃないか! あそこなら元日からやっている‼
忙しい一年が終わり、同時に年明けからは水泳部にも復帰することになった――。
『チンチラ』を聴くと、この頃や学園祭のことが懐かしく思いだされる。私はふたたび、「通学電車のマドンナ」のことを忘れてしまっていた。
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