『夏の環状線』~『女性なんだもん』
時間と空間とスピードが麻痺したような風景だった。見えるものといえばオレンジ色のハイウェイ灯だけだった。遠くまで点々と曲がりくねって続き、やがて流線型のラインになっていく。そのなかに赤い色が滲む。こんな時間に走っているクルマのテールランプだ。
これらはすべて追憶エンジンを安定して回転させるためのツールである。ヴィジュアルの背景に流す音楽ではなく、音楽のためのBGVだ。
しばしの沈黙の後、再びアナウンサーの声が入る。
《波間シンシアさんは二十歳になって、語学を勉強したいという希望から大学に入ります。そのために極端にメディアへの露出が少なくなりましたが、歌手としての活動は続けていました。
その頃の歌を続けてお送りしましょう。『夏の環状線』、『夜霧の街よ、ありがとう』、『女性なんだもん』以上三曲をどうぞ… 》
私はこの頃の波間シンシアをあまり知らない。それどころか洋楽に傾倒していたうえ、TVをまったく見なくなっていたから、その頃の日本の芸能界の情報をほとんど知らないのだ。FMの洋楽志向の番組しか聴いていなかったと思う。
『夏の環状線』は『傷つく街』に似たロックのノリだった。これはなんとなく憶えている。歌詞の内容も、夏は開放的になるから自分の身体を通り過ぎていく男たちはみんな許せるみたいな開き直ったやけっぱちの歌だった。もう『友だちになりたいの』の頃の純朴な波間シンシアはいない。
歌の大サビに『コンドルは飛んでいく』そのもののフレーズがあったりして、やけっぱちのうえに破れかぶれなのかなとも思わせた。
洋楽に少し詳しくなった頃のことだ――
この『夏の環状線』のことを『コンドルは飛んでいく』のパクリだ、と水泳部の仲間の〝W〟にいったことがある。いかにも「オレは洋楽に詳しいんだ」といわんばかりの得意顔だったろう。すると、Wはこういった。
「〝山口桃子〟の新曲で『ひとなみの経験』を聴いたことあるか」
歌謡曲をよく知らない私は〝山口桃子〟がだれかも知らなかった。この頃、「三人小娘」にとって代わったのが、「中三小娘」という中学生の三人組だった。山口桃子とは、そのなかの一人だったのだ。
Wは成績も優秀だったが、人一倍負けず嫌いのヤンチャだった。
いつだったか、Wがヌンチャク(!)を買いにいくために練習をサボったことがばれたのを庇ってやったことがあった。コーチや先輩が、どんな制裁を下そうかとミーティングで話し合っているときに、私とライバル関係にあることから「どうしたい?」ときかれたことがあったのだ。
「本人の良識に任せましょう。よくわかっていると思いますよ」
まさかそんな意見が通用するとは思っていなかったが、いってみるものだ。驚いたことに、そのときはそれが通ったのだ。
正直なところ、私も調子に乗りすぎのWには一回お灸を据えないといけないのではないかと思っていたのだが、いざその場面になってみるとやはり同級生のよしみで、なんとかできるものならしてやりたいという感情がはたらいた。
その翌日、Wは自主的に五分刈りにしてきた。もっとも普段がスポーツ刈りだったので整髪してきたようなものだったのだが…
それはともかくとして、ラジオの歌謡番組を聴いて、Wがいっていたことがよくわかった。この『ひとなみの経験』という歌は『夏の環状線』どころか、歌い出しから『コンドルは飛んでいく』そっくりだった。しかも、中学生のくせに『夏の環状線』より男を誘惑するような思わせぶりな歌詞だった。おまけに、その曲はヒットチャートをぐんぐん上昇している最中だった!
シーズンオフのある土曜日のこと。土曜日のトレーニングは学校から三キロほど離れたところにある都営霊園までのランニングだった。Wはなぜか私を過剰に意識していて、このランニングでも付かず離れず私のそばにいた。目障りなので先にいくか、遅れてくれるか、どっちかはっきりして欲しいと思っていた。
するとまた架空のスピーカーから音楽が流れてきた。Wというと、反射的に山口桃子の『ひとなみの経験』を思い浮かべてしまう。そのメロディを何度も何度も頭のなかで反芻するうちに、『コンドルは飛んでいく』のメロディが私のライブラリーのなかから消えていることに気づいた。
思い出そうとするのだが、気がつくと『ひとなみの経験』になっていた。『コンドルは飛んでいく』という曲はどういうメロディだっけと、しまいにだれかにきこうとしてあたりを見ると、それに集中していたために、Wはおろか先を走っていた連中をすべて追い抜いて先頭に立っていたのだった。視野の狭窄がかえって集中力を高めたのだろう。残念ながらこの能力を競技で発揮できたことは、ついに一度もなかった。
都営霊園は広大な墓地で、南側が囲むように自然公園になっていた。私たちはそこを「霊園山」と呼んで、「今日は霊園山」といえばランニングのことを指していた。その名の通り、この自然公園は武蔵野の面影が残るなだらかな丘だった。
この丘を登って開けたところにあるフィールドがゴールとなっていた。ランニングの最後は「心臓破り」と呼ばれる登坂路だった。ゴール地点のフィールドはダウンヒルのような緩斜面のアプローチの芝生だった。
息を切らせてここに登ってきたときの眺めは最高だった。時期的なこともあるのだろうが、ここにくるときはなぜかいつも曇っていたように思う。霊園山は練習時間がたっぷりとある土曜日にくることが多く、つまりそこで見る景色はいつも土曜の昼下がりということだ。
全員が揃うと、そこで筋トレや柔軟体操をやり、そこからメインメニューに入るのが常だった。たいていは「どろけ」と呼ばれる鬼ごっこをした。シーズンオフは日曜祭日が休みだったので、その前日はクールダウンのレクリエーションという意味合いもあったのだ。
その日も「どろけ」だった。そもそも「どろけ」とは「泥棒VS警察」の略称のチームを組む鬼ごっこなのだ。
私は「泥棒」チームで逃げていた。土曜日の午後というのに、私たち以外には人っ子ひとりいなかった。フィールドを囲むようにある繁みのなかをチームメイトと移動していたが、「警察」チームの一人が現れたことによりクモの子を散らすように散開してしまった。
独り西側の稜線沿いを逃げているとき、奇妙なものを見た。そのあたりは丈の浅い灌木が多いところで、四つん這いで様子を窺っていた。生暖かい風が吹いていて、空はいまにも泣き崩れそうだった。ちょうど、この尾根を回り込んだ東側の繁みの向こうに私たち以外の人がいるのを初めて見たのだ。
私たち以外と思ったのは、その二人のうち一人が車いすだったからだ。穏やかな風に揺らぐ遠くの木立ちの切れ目を縫って車いすが通る様子は、なんだか別世界のような不思議さだった。
自然公園とはいえ、けっこう起伏が激しい場所だ。そんなところにあの当時の、なんのサポート機能も付いていない車いすで散策していたのか?
しかも彼らは遠目にずいぶん齢をとっているように見えた。印象画のような二人はゆっくりと繁みの陰に消えていった。
あのあたりはもう墓地の区画じゃないだろうか。場所が場所だけに、こんな明るいうちからヘンなものを見たような気になったものだ。
私はそこからしばらく動くことができなかったのだが、そこまで捜しにくる警察チームはおらず、最後には「早く出て来い」と呼んでいる声をきくことになった。その日は私だけが捕まることはなかった。
帰りも学校までランニングなのだ。往路と比べれば、復路は身も心も軽い。体力を残しておく必要がないから、ほぼ全力ダッシュで走るヤツもいた。そんななかで私は、まるで部屋でラジオを聴くように頭に響く音楽を楽しんでいたものだった。
相変わらず『コンドルは飛んでいく』が思い出せなかったが、代わりにフレーズ繋がりの『夏の環状線』を聴いていた――。
ヒョロオとWはエスカレーター式の私学にあって、都立校を目指すという理由で中学三年のシーズン後、水泳部を辞めていった。ふたりとも水泳の成績は私に劣ったが、学業は優秀だった。その後、Wは都立の進学校に進んだのだが、ヒョロオは高校で一緒のクラスになる(!)。なんと、彼の場合は水泳部を辞めるための口実だったのだ。こういう要領のいいところが彼にはあった。
そして、このふたりの穴を補うように、この頃からヒデオキが練習に参加するようになる。彼の家はスイミングクラブを経営していて、彼もそこの選手コースに所属していた。
ヒデオキの父親から顧問経由で、彼らスイミングの選手をウチの水泳部の所属ということにしてもらえないかと頼んできた。当時、公式の大会に出場するには所属校の水泳部の肩書が必要だったらしいのだ。
この話を丸呑みにすれば、当然実力では下回る正規の水泳部員が出場枠のある大会に出られなくなる可能性があって、コーチは不愉快だったはずだ。そこで週一日の練習参加と大会エントリーに関しては、コーチの裁量に任せるということで話がついた。
彼らが参加する日は限られたコースの割り振りにかなり悩まされたが、スイミングの連中にとっては週一日のレクリエーションみたいなものだったろう。コーチや先輩たちはいい顔をしなかったが、私たちはヒデオキが同級生とあって、わりと好意的だった。
『夜霧の街よ、ありがとう』は初めて聴いた。ちょっと驚いたのは、この歌は限りなく演歌に近いムード歌謡だった。波間シンシアはこんな曲も歌っていたのかと思った。この曲を歌っている波間シンシアの姿が想像できなかった。
無機質なハイウェイ灯の虚ろなオレンジを追いかけていると、この曲になんの思い入れもないぶん、音が消えていく錯覚に陥った。また施設のことが頭を占領し始める。
帰れば、また職員補充のための不毛な面接や東京都との耐震改修補助金の折衝に追われる日々が待っている。当面の問題は現場の欠員を埋めることだ。以前とちがい重度の利用者が増えたことで、一人体制の宿直が負担になっている。もう、ほとんど夜勤の状態だ。
ウチには特養のように設備も整っていないし、監督官庁は人員配置を考慮しようとしない。仕事に熱意を持ってあたってほしい、などと精神論でごまかそうとする。
出口の見えない劣悪な職場環境のなか、ストレスや不満を募らせる職員たちは、とっとと辞めていく。先日、長く勤めていた現場の職員の過半数が、ついにしびれを切らせて辞めていった。現場は右も左もわからない若い職員ばかりになってしまった。
士気の下がった現場を回すための補充の手配をするのも私の仕事だ。業界を回遊魚のように、ぐるぐる回っている若者はいくらでもいる。空いた穴が埋まらない慢性的な人員不足は、こうした連中が長続きしないことにも一因がある。初日から出勤してこなかったヤツもいた。彼らはより良い職場環境を求めるあまり、理想が高くなり過ぎているのだ。絶対数が足りていないこの業界にあっても、そんな職場はたぶんどこにもないのに。
なにより現場の状況をわかっていない経営者の重いプレッシャーと、切羽詰まった現場からの突き上げに神経を遣う日々が待っている。
ああ、忘れよう。せっかくめぐりあったノスタルジックな時間じゃないか。
『女性なんだもん』には逆に思い入れがいっぱいあった。もはや波間シンシアがリアルタイムで歌を歌っている姿を見たことがなくなっていた時期だ。この曲もFMで聴いたのだ。かつてのポップな頃に戻ったようなキャッチーなメロディだった。
――日曜祭日は独りで部活への自転車通学を続けていた。とくに部活のあとのゆっくりとクルージングして帰るときが好きだった。桜の花びらが舞う長閑な街並みを眺めながら、『女性なんだもん』を口ずさんでいた。
人間は環境に適応するのに優れた動物である、といわれる。こんな辛い日々のなかで些細な突破口をつくりながら生き延びてきた私だったが、そんな日々に適応しようとしているのか、もう一つ、部活に楽しみを見つけることになった。
わが校は男子校であることに間違いはないのだが、同じ敷地内に女子高も併設していた。フェンスで男子部と女子部が仕切られているだけなのだ。学校のシステムも別で、教職員の往き来もなかった。一つの学校のなかに別々の男子校と女子校が共存しているが相互交流はないというおかしな運営がされていた。それぞれに専用の校舎があり、校庭があり、体育館があった。唯一、共用なのが年末に完成した新築の屋内プールだった。
自動的に、女子部の水泳部も同じプールで練習をすることになる。わが水泳部の売り文句は、女子と一緒に部活ができるというものだった。そんな軍隊みたいな体育会系の部活が、女子と一緒に練習をして強くなれるわけはない。入部を促す罠なのだ。
当然、別個の活動をしていて、実際は女子部とのコースの取り合いだった。公平な数の論理から、人数に比例してコースを割り振るという取り決めになっていたらしい。女子部は長続きしない部員が多かったようだが、春先は必ず彼女たちの方が多かった。市の大会でも地区大会でも圧倒的な成績を残しているのは男子の方だったが、こと練習環境といえば不利だった。
苦し紛れで6コースしかないものに両端に張るコースロープとプールサイドとの間隙まで使って0コース(!)や7コース(‼)を作ったり、1コースを半分にして右回り五秒遅れの三組で使ったりと考えられる限りのことをやったものだ。
でも、私はそんな女子部との対抗心むき出しの練習時間もだんだんと楽しくなっていった。そんなことをしながら私たちは女子部の主要メンバーとも徐々に打ち解けていったのだ。なかでも、その頃高校女子部のC子サンという上級生に憧れがあった。
ほっそりとして水泳選手特有のいかり肩ではなく、目立つような美人でもなければ、飛び抜けて速いというわけでもない。ただ健気に水泳を頑張っているという印象が強かった。それはある意味、自分への映し鏡でもあったのだろう。C子サンが頑張っているのだから、オレも・・・という具合に。
その春休みには関東大会の予選会で、高校生やコーチ、顧問からマネージャーにいたるまで遠征に出てしまった。中学三年の私たちが練習を見なくてはならなかった。
コーチの組んだメニューをこなせばいいだけだったのだが、いざやってみるとなかなかうまくいかないものなのだ。最低、タイムを録る者と記録する者の二人は必要となるが、練習の進行と計時は私がやるとしても記録係が足りなかった。なぜならみんな練習をやる気満々で参加していたから、プールサイドで裏方の手伝いをしようなどという者はいなかったのである。
ではなぜ、みんな練習をやりたがるのかといえば、厳しいコーチや先輩たちがいないことにもまして、女子部が珍しく春休みなのに練習にきていたからなのだ!
女の子にいいところを見せようという下心丸出しなのだ。声もよく出ていた。普段からこうならいいのにというほど、断然活気がちがった。
それはともかく、私があれもこれもと走り回っているのを先に練習が終わった女子部の高校生が気づいて、よければ手伝ってくれるという。日常的にいがみ合っている者同士だったが、このときばかりは彼女たちの心の寛さにちょっと驚いた。
しかも、そう申し出てくれたのがC子サンだった! 水のなかの連中とは別に私のモチベーションも盛り上がったものだ。思いもよらぬ展開に、思わず神様に感謝したほどだ。
計時はやり慣れた者でないと難しいので、記録係をやってもらった。記録用紙に《五十メートルダッシュ》と練習メニューを書いてもらい、縦罫に速い順に名前を入れ、横罫は本数ごとにタイムを記録してもらうのだ。
だれが何番目に帰ってくるかというのは私がよく把握していたので、名前の順序はほぼ問題ないと思っていた。ただ、いざタイムを読みあげる段階になり、書いてある名前がだれ一人として一致せず、C子サンは泡を喰った。
「すいません、パンパンってだれですか」
「パンパンは、これです」
「ポチは?」
「ああ、そうか・・・ ポチはこれで、ゴズラは・・・ 」
しまった、と思った。ご厚意に丁寧に応えようと思い、私は本名を記録用紙に書かせたのだが、タイムを読みあげるときにはつい普段の呼び名でいってしまったのだった。
C子サンはタイムを記入すればいいだけにしておいたにも拘らず、結局欄外に全員のタイムを書くことになってしまった。おまけに読みあげた名前が、見ていた他の女子部員に大ウケだった。
「すいません。二本目からは書いてある名前で読みあげますから」
ウケていないのはC子サンだけだった。わざとやったつもりは毛頭ないのだが、厚意を裏切るような真似をして最初から気分を害してしまった、と私は落ち込んだ。気が動転して、集中力は土砂降りの低気圧なみに落ちていった。
そして二本目も、ただでは済まなかった。私はC子サンのために記録用紙に書いた名前でタイムを読みあげることを甘く見ていた。
帰って来た様子を見ながらC子さんに告げた。
「パンパンだから・・・ えーと、Tからいきます」
「はい」
いい感じで返事が返ってきた。その声にきき惚れているうちに、選手たちは次々と着く。パンパンことTは無難に読み上げたものの、二番目のポチを頭のなかで正規の名前に変換している間に三番目のゴズラが着いてしまい、変換どころか名前をど忘れしてしまった。
「えーと、オマエは・・・ オマエはだれだっけ?」
水から顔をあげたゴズラは「?」という表情をしている。色黒の岩石のようなごつい顔は忘れるはずもないゴズラなのだが、コイツの本名がなんだったか焦る気持ちでちっとも浮かんでこないのだ。
「だれだ、オマエは」
ゴズラは、たったいまダッシュしてきたばかりの肩で息をしながら「ボク」と自分を指さした。
「名前をいえ!」
「ボクです」
「ボクはわかっている。名前をいえ、名前を!」
全員、着いてしまった。私は頭を抱え、プールサイドの床を何回も叩いた。そして恐る恐る書記席を見上げれば、ボールペンを持った手で頬杖をついたC子サンが冷ややかな表情で手持無沙汰にしていた。まるで茶番だ。
今度は女子部の部員ばかりか、泳いでいる連中も大笑いだ。カッコよくタイムを読みあげる自分の姿はもはや再現できそうになかった。計時係としての能力とC子サンの信用は失墜したと私はうなだれた。
それでもなんとか練習を終えることができ、私は放心状態でスタート台に座り、連中がクールダウンしているのを見ていた。C子サンは最後までつき合ってくれて、まだ書記席にいた。そして不意に話しかけてきた。
「カセクン、何年生?」
私は驚いた。C子サンは私の名前を知っているのだと思った。感動的ですらある。
「四月から高校です」
「そのまま上にあがるのでしょ?」
「そのまま」というのは、エスカレーター式で高校に、という意味だ。
「そうです」
「水泳部も続けるの?」
「そのままですよ」
C子サンがなにをいわんとしていたのかは知らない。でも今日のようなことがあると、きっとこの先もっといいこともあるとポジティブに捉えるようになっていた。私が殺風景なこの学校の部活で得たのは、そういうことを信じるということだった。
その日の帰りは、C子サンと交わした最後の二言三言を何回も思い返してはほくそ笑んでいただろう。春の陽ざし溢れる学園通りを身も心も軽く、『女性なんだもん』を口ずさみながらペダルを踏んだものだ――。
C子サンに録ってもらった失敗分の集計用紙は後々まで大事に取っておいた。女子高生らしく丸まった字で《パンパン》《ポチ》などと可愛く書いてある。私にとっては捨てることのできない大事な宝ものとなった。
そんな時期によく聴いたのが、カセットテープに録った『女性なんだもん』だった。
春の瑞々しい自然の風景のように私も自然体で愛を育みたい、そして芽吹きのようにあなたとの新しい生命を育てたいみたいな内容の歌詞で、波間シンシアのフレッシュな内面を再発見させるような曲なのだった。同時に自分自身にも、なにか新鮮なことの始まりを予感させる春先となった。
毎週金曜日23時に更新します。