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『哀愁のベージュ』~『ひとかけらの順序』

 ルームミラーを等間隔でハイウェイ灯が照らしては消える。そこには目じりに皺を寄せて笑みを浮かべる中年男が映っていた。この男は疲れている。穏やかな顔をしているが、意識はどこか虚空の彼方に飛んでしまっているようだ。

 闇に再びナビゲイターの声が立ち上がる。感情を殺したトーンで簡潔に曲紹介をした。


《六曲続けて聴いていただきましょう。『哀愁のベージュ』、『青春の港』、『純烈』、『傷つく街』、『色づく世代』、『ひとかけらの順序』以上をどうぞ… 》


『哀愁のベージュ』はいままでの波間シンシアとは違う、しっとりとした雰囲気のバラードだ。間奏に空港などのインフォメーションが入ったり、歌の合間にナレーションが入ったり、エンディングに英語やフランス語でダイアローグが入るといった歌はあったが、いきなり歌手本人の英語の独言から始まる奇をてらった演出だった。ちょっと子どもが背伸びをしてシャンソンを歌っているように見えたものだ。


 ♪ Do you know what loneliness’・・・


 ――私はこの頃、男ばかりの学校生活に途方に暮れていた。中高一貫の私立の男子校に進んだのだ。そんなとき、同じクラスの友だちがひとの顔を見て、このセリフを呟いたのだ。

(なにをいっているのだ、コイツ。大丈夫か?)

 すると彼は下敷きにしていたクリアケースを黙って見せた。そこには波間シンシアのグラビアが挟んであった。

「波間シンシアの曲。知らない?」

 この男はごつい体格のうえ毛深かった。しかも柔道部だった。人にベタベタ擦り寄ってくるところから、「ハードゲイ」と陰口も叩かれていた。こんな男が波間シンシアとは、気持ち悪いにもほどがある。

「オレはファンじゃない」とはいったものの、こんな男の口から彼女の名前が出てくると、心のなかではあの楽しい時代にますます戻りたいという気持ちに拍車がかかった。

 このあたりから波間シンシアの方向性が変わってくる。清純派は安部マリアに任せて、奔放で多感な思春期の女の子の心情を歌ったものが多くなってくる。曲調も軽快というにはあまりに過激なノリだったり、突然ムーディなバラードを歌ってみたりと、本当に情緒不安定な女子学生みたいだった。

 とくに『純烈』や『傷つく街』などは、その当時アイドル歌手ではほとんどなかったロックのリズムで歌詞も挑発的だった。およそアイドル歌謡とは思えなかったが、波間本人にしてみれば洋楽を意識していたのかもしれない。

 事実、私自身も例の「放課後観賞会」の影響で、歌謡曲から洋楽へと趣向がシフトしていった時期だった。中学生になってから買ってもらったステレオでは、FMのポピュラー音楽番組を聴きまくっていた。四六時中、FMを聴きっ放しだった。洋楽ポップスの歌謡曲にはない新鮮なメロディに魅了されたものだ。

なにしろ殺風景な男子校のなかで、しかも始めた部活がモロ体育会系という、これ以上ない殺風景な境遇だったのだ。中高一貫の私立に進んだ私は図体が大きいのにも拘らず、生来のインドア気質を問題視していた小学校の担任や母親に咎められ、進学したら絶対に運動部をやれとミッションのようにいわれてきた。

運動神経の鈍い私が選んだのは身体ひとつでできる水泳だったのだが、およそ泳ぐことを楽しむといった方針の部活ではなかった。まるで選手養成所のようだった。もともと球技などが苦手だった私は、よりによってエライところに入部したと悔やんだものだ。

 ただでスイミングクラブにいっているようなもので、ウィークデイはもちろん、土曜、日曜も練習はあった。夏休みも祝祭日も関係なかった。これが中高一貫校だから、六年間続くのだ。「放課後観賞会」の連中との楽しい日々がここにきて、なんたるリバウンドだろうか! お先真っ暗とはこのことだ。

 夏休みに突入すると、直後に合宿がある。わが水泳部は息抜きのレクリエーションをするわけではないので、学校に寝泊まりして練習に明け暮れるのだ。中学生のときは、これが軍隊のような縦社会の縮図みたいで生きた心地のしない一週間だった。私自身の気持ち的にも限界だった。

 初日の午前中の合宿所の設営に始まり、タイムスケジュール通りに朝六時から夜九時まで管理された生活が続く。早朝のウォームアップから、午前午後の泳ぎ込みではピークで一万メートルを超える。

 二百メートルダッシュのときには、まだ体力を制御することができず、最後の五十メートルでは完全に浮いた。腕が上がらず、ただもがいているだけで、しまいには肛門まで弛緩して冷たい水が直腸に流れ込むのがわかった。

 二十五メートル百本のインターバルトレーニングでは、次第に制限時間に間に合わなくなり、やがて残りの本数分の距離を続けて泳ぐことになった。もう止まる暇もないのでクィックターンをするのだが、後半、ターンのたびに疲労と苦しさから胃の内容物を何度戻しそうになったかわからない。

 千五百メートルの長距離ストロークのときには、あまりの長さに途方に暮れた。距離を忘れるために、知っている限りの歌を頭のなかで聴き続けた。一本目はサイモン&ガーファンクル特集で、二本目は『アビーロード』を聴こう、とか。まるでバーチャル「放課後観賞会」だ。

 私にとって一年中で一週間、天気予報はずっと夜みたいな、精神的にも肉体的にも負担となって重くのしかかっていた暗黒のイベントだった。

 思い返せば一年生の最初の合宿の終わりには父親にクルマで迎えにきてもらい、まるで出所した人のような解放感があったものだ。一週間ぶりのウチに戻るとプライベートがあることに、それだけでホッとした。

 窓から久しぶりの街の風景をぼんやり眺めていたら、降りだした雨のなかを小学校の同級生だった女の子が駈けていく姿が見えて、ああ帰ってきたのだと安堵したほどだった。

 からっぽの頭のなかには、やはり音楽が流れていた。波間の歌でいえば、『青春の港』のあたりだろうか。

 想いを寄せている都会育ちの男の子の故郷になりたいという健気な歌だ。私は女の子というのは、みんなこんな献身的なのかと、ますますその想いを募らせたものだ。

 この頃の記憶は鮮烈だ。あの楽しかった時代の余韻が抜けきらず、極端に閉鎖的な辛い日々に慣れていなかった。まだ一年も経ってないのに、あの頃が無性に懐かしかった。

 はっきりいって、私は熱心な選手ではなかった。日々の練習をこなすのが精一杯の投げやりな人種の一人だったのだ。しっかり目標を持っているヤツらとちがって、ひたすら時間が過ぎるのを待っているだけのような部員だったので、その辛さはおそらくだれよりも刹那的だっただろう。

 辞めればいいじゃないか、と思うだろうが、部のルールで特別の理由がない限り、辞めてはいけないことになっていた。黙って休もうものなら、次に出てきたときには壮絶なペナルティが待っている。脅されてシゴかれにいっているようなものだ。

 当時はそんなことが罷り通った。強制労働に通う抑留者の気分だった。波間シンシアの歌は、そんな私の追い詰められた気持ちを癒してくれた。

 そんな夢も希望もない中学一年のシーズンオフのこと。シーズンオフだけ日曜、祭日は練習がなかった。ただし、水泳なのに元旦から練習だった。

 まだ屋外プールしかなかった時代なので、いくら軍隊のような体育会系でも元旦から泳がされるわけではなかった。おそらく厳しさをアピールするためだったのだろうが、シーズンオフは基礎体力をしっかりつくるという目的があったと思う。

 水泳部での一年間をひと通り見て、またこれから同じ一年が始まるのかと憂鬱な気分の春休みだった。部活から帰ってきて昼食を食べているときに母から呼ばれた。だれかきている、というのだ。

 玄関に出ていくと、そこにいたのはなんとMではないか!

 しかし、小学校時代の彼とはだいぶ印象がちがっていた。すらっと背丈が伸びて私ほどになっていた。大きな襟の角が丸い柄シャツに派手な赤いベスト、ベルボトムのジーンズをオシャレにはきこなしている。もともと端正な顔立ちだったが、流行の長い髪をなびかせ、ちょっと見ないうちに本物のアイドルのような風貌になっていた。

 おもてに出ていくと、そこにはフーチャンやロベルトやマンキチがいた。みんなそれぞれに自己主張するファッションで、いつも制服ばかりの私は戸惑うばかりだった。だが、会いたいと思っていた連中との思わぬ会遇に、私は夢ではないかと目をこすったほどだ。

「放課後観賞会」の仲間は、いまや溌剌とした青春時代を迎えているのだろうと思うと自分の境遇は本当に恨めしかった。だから、そのおこぼれを少しでも頂戴したいと思ったのか、私は彼らとばかり遊んでいた。また彼らも、よく私を誘ってくれた。

 その理由として、私の部屋が「放課後観賞会」の仲間の溜まり場として手頃だったということがある。私の部屋は、家の敷地内にある倉庫の二階にあった。安普請の造りだったが中学に上がるとき、親が部屋らしい体裁に改造してくれた。私は、さながら住み込みの倉庫番のようなものだった。別建てだったので、私たちにとって(たむろ)するのに都合がよかったのだ。

 それを知ってか、シーズンオフの日曜の午前十時頃になると、決まってMがやってきた。彼は好んで女もののヒールの高いサンダルを履いてきたから、倉庫の板張りの床に響いて彼だとわかった。こういうセンシティブなところは本当にMの天性のものだった。

 ファッション感覚といい、音楽に対する感受性といい、なによりルックスがスマートだった。仲間うちで、ここまで人を惹きつけるオーラを発している人間を私は知らない。そして彼は、いつの間にか「放課後観賞会」の仲間を集めているのだ。

 彼らとの思い出はいっぱいある。夏休みなどは午前中に練習にいって、午後から彼らと遊んだ。いまの疲れきった私からは考えられないほどパワフルだった。

 なにをして遊んだといわれても、はっきり記憶にあるわけではない。ぶらぶらと近くの川べりや緑地公園などをうろついた程度だ。そして抑圧的な生活を送っていた私と、ちがう環境で暮らす彼らの楽しそうな日常をきいているのが好きだった。

 音楽のこと、怪談話、女の子のこと… 

 私にとって、それらすべてが羨望の異世界の情報だったのだ。

 仲間の溜まり場となっていたその頃の様子を録音したりもした。あとで聴いて、彼らとの楽しかった時間の余韻に浸るのだ。そのテープには、仲間のあまりにくだらない会話や物まねをしている様子やTVにいちいちツッコミを入れている模様などがリアルに再現されていた。

 なかでも傑作なのは、私の部屋の窓から見える、すぐ隣のスーパーの駐車場を俯瞰で眺めていた仲間たちのくだりだ。

 駐車場といえども当時は雑草が野放図に生えている空き地に看板を出しただけのものだった。それは汗が滲み出てくるような暑い夏の午後のことだ。出演者は私を含め「放課後観賞会」のメンバーだったロベルトとヒロシマである。


《ロベルト(以下ロ)「おい、おい、あれ見ろよ。あんなところで・・・ 」

 ヒロシマ(以下ヒ)「あのオヤジ? アロハに海パンの?」

 ロ「まるで海水浴だ」

 私「どれ?」

 ヒ「こっちの繁みの陰にいるオヤジだよ」

 私「オバサンパーマで真っ黒の?」

 ヒ「あれテンパーだろ?」

 ロ「そんなことどうでもいいよ。あのオヤジ、いまあそこでだれも見ていないと思って立ちションしてやがった」

 私「アロハだって羽織っているだけだからな。あんな格好で出かけるか?」

 ヒ「立ちションって、だってあのオヤジ、海パンだろ? 海パン下ろして小便したの?」

 ロ「膝まで下ろした」

 ヒ「嘘つけ!」

 ロ(笑いながら)「本当だって」

 私「ほとんど全裸じゃないか。外だぜ」

 ロ「うわ、こっちを見た!」

(窓を閉める音。うしろにロベルトの大笑いの声、さらにヒロシマの笑い声が被る)》


 その現場を目撃していたのはロベルトだけなので真偽のほどはわからないが、「オヤジ」本人は実在している。しかし、想像してみると実におかしな風景だった。この後、窓を開けたり閉めたりして悪ふざけをするロベルトの様子でカットアウトする。

 面白いのはその事件ではなく、出演者のキャラクターであるということがテープという媒体で証明された。六年生のときの「放課後観賞会」のメンバーは、こんなキャラクターのヤツらばかりだった。


 中学二年の春休みから屋内プールを建てる工事が始まり、学校での練習ができなくなった。わが部は流浪の民のように練習場所を求めて、当時原宿にあった地下のオリンピックプールや千駄ヶ谷の国立競技場の屋内プールなどを転々としていた。

 放課後、都内のプールへ移動する混んだ電車のなかで、あるとき他の部員たちと離れてしまった私は、ドアの手すりのあたりで外の風景をぼんやりと眺めていた。降りる駅はわかっているので別に焦りもなかったのだが、気がつくとまわりをどこかの女子高の生徒に囲まれていた。

 駅を一つ過ぎるたびに乗客は増え、彼女たちはどんどん接近してくる。いつの間にか、私は女子高生のオシクラマンジュウの真ん中にいるような状態になっていた。彼女たちの話し声は、まるで私に話しかけているように素通しできこえるのだ。

「○○ってさ、なんか田舎くさくない?」

「田舎くさいってよりか、百姓くさいよね」

「イモだよ、イモ」

 ○○がだれのことか知らないが、「田舎くさい」のと「百姓くさい」のちがいはなんなのか。どっちが、より「イモ」なのか。そして女子高生というのは普段から、こんな「イモ」だの、「百姓」の話をしているのかと思うと幻滅だった。自分が考えていた女の子のイメージとあまりにかけ離れていたのだ。

 そんなことお構いなしに独特の専門用語で話し続ける彼女たちを見ていたら、不意に波間シンシアの『傷つく街』の歌詞が思い浮かんだ。


 ♪通学の電車で衝動的にキスがしたいの・・・・・


(コイツらならやりかねないな。なにを考えているのかわからないから・・・ )

 そのうちに、キスはありえないとしても、コイツらバカじゃないかとおかしくて仕方なくなってきた。しかし、この状況で笑うわけにはいかない。知り合いでもない、どこかの男子学生が独りでニヤけていたら、その方がよほど変人ではないか。私は目のやり場に困り、そこから降りる駅までずっと天井を眺めていた。

 駅で他の部員たちと合流した私はその話をして、おかげで首が痛くなったといったら、後輩たちが面白がってこういうのだ。

「カセサンだって田舎っていうじゃないですか」

 きけば、以前の競技会のあと、最後のミーティングが終わって帰り際に私が大声で「田舎方面集合」といったらしいのだ。すぐ横に固まっていた他校の女生徒たちがそれをきいてクスクス笑っていたことに、「田舎方面」組の後輩の通称「ポチ」が「恥ずかしいからやめてくださいよ」と訴えてきた。

「田舎者が田舎に帰ることのどこが恥ずかしい」と一喝したら、その女生徒たちが、自分たちにいわれたと勘違いしたらしく逃げてしまったという。

 私はそんなことをまったく憶えていなかったが、もしそうなら自分もずいぶん運動部らしくなったと改めて自分自身を見直した。しかし、その言い方は、いかにも『オレは青春だ!』の主役だったバンカラ学生の〝桜木健作〟にそっくりだなと思った。

 その春、まだシーズンが始まるまえに国鉄の春闘で学校が休みになった。しかし水泳部は休みにならなかった。学校で陸上トレーニングをやるから自転車でこい、というのだ。私は同じ市内に住む〝S〟という同級生と一緒にサイクリングで練習に通った。

 Sは練習中プールに立つ波に揉まれて、泳いでいるのか、漂流しているのかわからないようなところから、みんなに「ヒョロオ」と呼ばれていた。

 このとき初めて自分が住んでいるところと学校がある場所との位置関係がわかった。それ以来、私は日曜祭日の練習には自転車で通うようになった。

 いよいよシーズン本番に近づいてきて、いつまでもさすらっている場合ではなくなってきた。練習に身を入れるために顧問の先生が交渉してくれて、夏休み中は学校の近くにある市営プールで練習できることになった。とはいえ、交通の便が悪いので私やヒョロオは自転車を学校に置いておいて、それで市営プールに通った。

 練習できることにはなったが、借りきったわけではない。当然、一般の利用者に混じって練習するのだ。これがけっこう楽しかった。

 市営プールは営業時間にずっと流行歌を流していた。波間シンシアの曲は毎度かかっていた。『純烈』のリズミカルなスキャットは水の上を跳びはねているような錯覚をおこさせ、私のような真剣さに欠ける部員にとっては持ってこいの環境だった。音楽を聴きながら練習することが、一般利用者を避けながら泳ぐという本来劣悪なはずの条件から、障害物競争をしているような面白さに変えた。

 帰りは、また学校までのサイクリングだ。学校から駅までは定期券があるので、夏休み中の空いたバスに乗る。練習後の、ささやかではあるが充実感を満喫する瞬間だった。

 中学二年の合宿では、一日二回合宿所から自転車で市営プールに通った。練習の質が落ちるのは避けられず、だいぶ楽だった。解散の時間に父が迎えにこられないというので荷物だけ先に取りにきてもらい、合宿終了時にはパンパンのお父さんに駅まで送ってもらったりした。

 そんなある日の練習後、「放課後観賞会」のフーチャンと目的もなく近くにある神経科の病院の裏山を歩いていたときのこと。当時のそういう病院はどちらかというと忌み嫌われていて、山のなかなんかにあった。そこも畑の斜面にある雑木林に囲まれたところだった。もともとは神社があったらしく、その跡は荒れ果てていた。

 境内から下っていくとエロ雑誌や首の抜けた日本人形や古い仏壇や子どもの玩具などが、まるでばら撒いたように捨てられて異臭を放っていた。

 竹藪の斜面からは水が湧いていて、オニヤンマが水を吸っていた。夏の午後の強烈な陽ざしが藪を縫って射しこみ、頽廃的な雰囲気を醸していた。

 なんだか気持ちが悪いので私たちふたりは祠の裏の、もときた道へ戻った。竹藪のなかの農道で、薄暗いほどの日陰なのだ。

 繁みのなかから不意に鳥の声がした。同時にフーチャンは私の方を見た。顔色が蒼いのだ。私は反射的にきいた。

「鳥だろ?」

「女の悲鳴だよ」

「えっ・・・・・・ 」

 ふたりは、しばらくそこでフリーズ状態になっていた。フーチャンの「ここ、ヤバいよ」という言葉が終るか終らないうちに走りだしていた。下れば、祠を回り込むように神社の正面に出てしまうので、私たちは迷わず登って竹藪を出た。

 明るい乾ききったところに出てきても、まだ走った。私はサンダルだったので、思うように足が動かない。まだ走るのなら、この際脱ぎ捨てようかとも思っていたところへ国鉄の踏切に出た。ふたりはそこで、やっと人心地着くことができたのだ。真昼の恐怖体験だった。

 フーチャンから、あそこの竹藪で女の叫び声をきいたという話を面白がったMが、今夜みんなでいこうといい出した。案内役の私とフーチャン以外の参加メンバーは他にロベルトとヒロシマがいた。実際に体験した私たちは怖気づいて神社の上の道から降りられなかったが、Mはロベルトと肩を組んで、どんどん暗闇のなかへ入っていってしまった。

 残された者は道を回り込んで薄暗い街灯の灯る住宅街から神社の正面に出て、そこで待っていた。ほどなく降りてきたふたりは「真っ暗でなにがなんだかわからなかった」と笑っていた。怖れを知らないヤツらだ、と思った記憶がある。

 この話を練習帰りのバスのなかでヒョロオに話した。

「このまえ、ちょっと恐ろしい体験をして」とまずいうべきだった。「このまえ」から話し始めたので、ヒョロオはいったいなんのことなのかわからなかったのであろう。「恐ろしい体験」を加えると、それなりに身構えて恐ろしさが半減するとでも思ったのかもしれない。

 ヒョロオは荒れた神社跡の気持ち悪い様子のくだりで、「それ、なにがいいたいんだよ?」ときいてきた。まあ、きけよ、と私はかまわずあとを続け、肝心の「女の悲鳴だよ」のところでヒョロオの顔を見た。しばらく間をおいていたら彼はいうのだ。

「それで?」

 それで? 私は唖然とした。ヒョロオは、このエピソードをまったく理解していないらしいのだ。

(それで?とはなんだよ。想像力がないのか、オマエは)

 私はいまさら恐怖譚だともいえなくなり、話の落としどころを失った。見れば、ヒョロオは私の話より向かいのシートに座っている女の子の方に興味をそそられているようだったので、私はうやむやにフェイドアウトした。

 練習後とはいえ、この脱力感はなんなのだと我ながら呆れはて、目のまえの女の子を虚ろに眺めた。可愛い子だったが、まだちょっと幼さが残っていた。私たちより年下だろうと思われた。私にとっては問題外だったが、ヒョロオはこんなのが好みなのかとも思った。

 バスの窓から吹き込んでくる夏の風に長い髪をなびかせて、そういえば波間シンシアに似ているのではないかと感じた。脚をぴったり揃えて、翻りそうなフレアの白いスカートの膝の上で手を組んでいる。首だけが向かい風を受けるように進行方向を向いていた。こんな無理な姿勢をしてまでこちらを見ないようにしているのは、この子はひょっとして私たちを意識しているのではないか、とも思えた。

『純烈』のジャケットの肩や脚を剥き出しにした涼しそうな衣装でベッドに座り、じっとこっちを見つめている波間シンシアのイメージが湧く。


 ♪アン、ア、ア、ア・・・ 嵐の夜も彼となら怖くないわ・・・


 そんなカノジョがいつか私にもできるのだろうか、と考えていた。あの頃は、逆境でも自分の妄想を日々のバネにできたのだ――。


『色づく世代』は、理由はよくわからないが、お互い好きなのに別れなければならなかった彼のことを思い返すという歌だった。よくあるパターンだが、もしそんなシチュエーションがあるとしたら、どんな場合なのだろうか。

 親が反対しているのか、いまのように交通の便がよくない時代だったので遠くへ転勤になったのか、お互いの住まいの中間地点に国境でもあったのか、相手が同性だったのか。歌謡曲は、そんな理不尽な世界を歌っても説得力があるから不思議だ。

 これも『哀愁のベージュ』のように内向的な歌詞だったが、こっちはシャンソンというよりムード歌謡風で、少し大人になった様子なのだ。悶々としていた日々のことなので、私にとって『友だちになりたいの』に次いで懐かしい曲となった。


 ――たわいのない時間を「放課後観賞会」の連中と過ごすのは、私にとって貴重なリフレッシュになった。とくに私は明日からまた辛い部活の日々が待っていると思うと、あの楽しい時間を共有した彼らとの別れが惜しかった。

 そのときMが「六年のクラスのままで、ずっと大学くらいまでいけたらよかったのにな」といったことに私は疑問を感じた。

(彼らはいま、青春を謳歌しているのではないのか? 彼らもまた、あの頃のメンバーで遊んでいることが楽しいと思っているのか?)

 Mがいったことにはわけがあった。彼は父親の仕事の都合で、中学三年から関西に引っ越すことになっていたのだ。彼の心情を察するに余りある。私は学校がちがうだけで、みんなと未来永劫に会えないわけではない。Mは会おうと思っても、おいそれと遊びにはこられないのだ。淋しさは私以上だったろう。

 日曜の夕方には日放協で『リクエスト特集』という番組をやっていて、私は欠かさずこれを聴いていた。歌謡曲だろうが、ジャズだろうが、ロックだろうが、関係なくリクエストに応えるという、いま考えると節操のない番組だった。

 日曜の午後の「放課後観賞会」の連中との刹那的なリフレッシュタイムを終え、帰ってきた私はこの番組を聴いた。その頃はロックがかかることが多かった。

 〝デビッドボウイ〟や〝フー〟や〝CCR〟に混じって、かかったのが波間シンシアの『色づく世代』だった。

 私は部屋の窓を開き灯りも点けないまま、どんよりと曇った夕方の夏空を眺めていたものだ。そんな私の眼に映っていたものは、やはりあの楽しい日々の思い出だった。

『色づく世代』はMとの思い出でもある。彼は私たちのもとを間もなく去っていった。その直後は、なんだか大きな穴が空いたような気になっていた。私はこのとき初めて、別れたくないのに別れなければならなかったシチュエーションというものを体験した。しかし人間とはゲンキンなものだ。時が経つと、それさえも忘れていった。

 Mとの思い出は、どんどん美化され、私の記憶を書き換えていく。それが波間シンシアの歌声とともに色づいていく――。


『ひとかけらの順序』は同じころに大ヒットした〝カーペンターズ〟の曲を意識しているように思えた。彼と最初に出会ったときの気持ちが、いまはばらばらになってしまって、だれかそのかけらを探してほしいという、これまた切ない歌詞だった。

 この歌にも思い出がある――


 ほとんどTVを見なくなっていた私は、ある日「ハードゲイ柔道部」が月刊芸能誌の『(みょう)(じょう)』か、『ヘイ、ぼん!』の付録の歌本を見ているのに気づいた。相変わらずファンの波間シンシアのページを開いている。そこに載っている彼女の写真を見て、目を疑った。

 すべての音楽情報をFMから得ていた私にとって、波間シンシアはいまだに色黒のミニスカート娘だったのだ。それが、そこには大人びた脛丈のデニムのジャンパースカートに、みつ編みといった牧歌的な装いの女の子が写っていた。しかし、私の持っている印象の波間シンシアより、はるかに垢抜けていた。

 そのときはまだ、波間シンシアという歌い手にそれほど傾倒していなかったので、へえ、こんなになったのか、くらいにしか感じなかった。それが『ひとかけらの順序』のイメージだったのだろう。

 歌とともに彼女も成長していく。脚の露出が少なくなったことで、なんだかあの頃が次第に遠のいていくようだった。彼女が再び、あんな短いスカートで登場することはあるまいと直感で思った。

 この曲も辛かった部活の日々を思い出させる。泳ぎながら、また走りながら私の頭のなかでは音楽が流れていた。あるときは〝サイモン&ガーファンクル〟だったり、〝ローリングストーンズ〟だったり、またあるときは〝ビートルズ〟のバラードだった。波間シンシアの『ひとかけらの順序』も、よく架空のスピーカーから流れてきた。楽しかった小学校六年から、一気にこんな辛い日々を送ることになった私の心は、ますます音楽に逃げ道を探すことになる。

 屋内プールが無事完成した中学二年のシーズンオフに私は部の副将になった。このとき主将だったのが〝O〟という男だった。中学生のくせに妙に老けこんでいて、主将としての貫録は充分なのだが、年寄りくさいのでみんなから「シブイサン」と呼ばれていた。落ち着き過ぎていて、彼の時間はオーソドックスな中学生の五割増しくらいの速度で流れていた。態度やいうことも、まるで世のなかの酸いも甘いも経験したように年寄り染みていた。

 私もせっかちではないが、部活のキャラクターとしてはどちらかというとツッコミ型だったので、この「ボケ老人モドキ」とはいいコンビのように他人の目には映ったようだ。

 私とシブイサンのパターンというのがあり、彼がボケる、私がツッコむ、彼がド突く、という理不尽な展開が常だった。私がボケるというパターンもあったが、そのときは彼のツッコミとド突きが同時にくる。そのド突き方が手加減をしないから、シャレにならないのだ。それをわかっていながら、よく「年寄り」をからかった。

 父母懇談会というのがあり、授業が午前中だけだったことがあった。当然、水泳部は練習を休まないから、帰りのタイミングが懇談会参加者の父母たちと同じくらいになった。私たちはバスの一番後ろの席に陣取っていた。不意に私は思いつき、田舎方面組の後輩たちに、私の隣に座っていたシブイをからかおうと耳打ちした。

「次のバス停でお客が乗ってきたらオレが、パンパンのお母さんだというから、そうしたらオマエたち立ち上がれ」

 バスが停まり、うまい具合に私たちの親くらいのオバサンが乗ってきた。私は打ち合わせ通りに、シブイにきこえるように「あっ、パンパンのお母さんだ」といって立ちあがると、後輩たちも従って立ちあがった。シブイも一緒に立ち上がり、彼が「ちわっす」と挨拶するタイミングで、私が「ちがったわ」といって座った。

 結果としてシブイ独りが、だれか知らないオバサンに挨拶したかたちになり、後輩たちは大爆笑だったが、私は彼にボコボコにド突かれた。彼は手も足も出さないと済まない気性らしい。私などはまるで芸人のようにド突かれ笑われるのに快感があったが、シャレがわからないのか、プライドを傷つけられたと思ったのか、彼はそうではなかった。

 また、こんなこともあった。あるときОBであるコーチの同級生が遊びにきた。この先輩もОBなのだが、中学生はクルマで送ってくれるという。先輩と同じ方向だったのはシブイだけだった。ところがシブイは独りじゃなにか気まずいと思ったのか、オマエらも送ってもらえと私と田舎方面組のポチを連れ込んだ。

 私とポチは、シブイがあらかじめ先輩に、このふたりは途中までですということを伝えてあるものだと思って乗り込んだ。いざ出発してみると、地球を反対まわりで送って貰えるのだろうかというほど、帰る方向から遠ざかるのだ。助手席ではシブイがさかんに自分のウチのルートを教えている。後ろの座席で私とポチは、どうしようかと様子を窺っていた。こんなところまできてしまっては、いまさら戻ってあの駅までお願いします、なんていえない。

 ついにシブイのウチの前まできてしまい、私たちも降りた。先輩は、ここでいいのかと訝しんでいたが、大丈夫ですと適当にごまかした。クルマがいってしまうとシブイは素知らぬ顔でいうのだ。

「オマエら、なんで降りたの?」

(なんで、じゃないだろ・・・・・・ )

 しかし、最初に行く先をいわなかった私たちも悪いと思い、シブイに一番近い駅への行き方をきいた。

「ここを真っ直ぐ戻る。自然に駅前に出るから」

「ああ、そう。よかった、わかりやすくて。どのくらい戻るの?」

「一時間もあれば駅に出るよ」

「ええー!」

 きつい練習が終わったあとに、夏の真昼の炎天下をさらに一時間も歩かされるハメになるとは思いもしなかった。シブイはこういう気の利かないところがあるわりに、自分本位のところは人一倍、強引に我を通すような男だった。まるでマイペースな老人なのだ。

 一つうえの先輩たちが高校に上がった中学時代最後の地区大会のリレー競技では、自由形(フリー)の選手が足りなくて平泳ぎ(ブレ)専門のシブイをメンバーに入れて出場したこともあった。

「オマエのフリーでも余裕で優勝できる」

 コーチにいわれメンバーを組んだが、万が一のことがあるので第三泳者にシブイを入れ、逃げ込み、追い込みの両方に備えたが、それが正解だった。本番でシブイはブレを泳いだのだ! 

 おかげでレースを面白くしてくれた。せっかくぶっちぎりのトップだったものが、アンカーの私がスタート台に立ったときは接戦になっていた。それでもわが校は優勝したが、なんでブレなんか泳いだんだとあとで問い詰めた。ほんの『ひとかけらの順序』かもしれないが、致命的な結果を招く恐れもあると思ったからだ。

「オマエのフリーでも大会新記録になったかもしれないぞ」

「フリーリレーなんだから、なんでもいいってことだろ?」

「そりゃそうだけど、なにもブレってことはないだろ。他の学校のヤツらにしてみればバカにしていると思われるぞ」

「オレがフリーを泳いだとしたら、その方がバカにしていると思うがなあ」

 淡々というシブイの言葉に、そのときは妙に納得してしまった。この大会ではブレで名を売った男だ。それがフリーリレーに出場するとなれば、そこでフリーを泳げば他校をナメているともとられかねない、ということなのだろう。

 所詮、彼には彼のペースがあり、私のペースには乗ってこようとしない。私の理想とする「放課後観賞会」のような人間関係は最後まで築けなかった――。


 シブイとは、もうかれこれ二十年近く会っていない。彼とはエスカレーター式の高校でも正副のコンビを組んだ。凸凹コンビで水泳部を仕切っていた日が懐かしい。

 シブイは大学卒業後、地方銀行に就職して、ウチの近くにあった支店に口座を開いてくれないかとわざわざ訪ねてくれたことがあった。相変わらず垢抜けない泥臭さみたいなものが漂っていたが、立派なキャリアになっていた。ゆくゆくは支店長だなというと、一応照れてド突いてきたが否定はしなかった。容赦のない痛さも相変わらずだった。

 十年後、さらに数十年後には、このシブイという男からド突き以上の精神的打撃を受けることになるとは夢にも思っていなかった。


毎週金曜日23時に更新します。

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