『十七歳の証明』~『友だちになりたいの』
以前に投稿した長編のベースになったものです。
本当は今夏のホラー企画のために練り直していたのですが、改稿していくうちにホラーとは似ても似つかない私小説的なものになってしまいました。
オレンジ色のハイウェイ灯を追って、真夜中の東名高速を走っていた。深い海に閉じ込められた私の気持ちは、この夜の帳の方がまだ明るいとさえ思えるほど沈んでいた。
私はたしかに疲れていた。日々の仕事は一向に片付く気配がなく、むしろ日増しに増えているとさえ思えていた。
施設を空けるのは正直不安だった。それぞれのセクションの担当者にいない間のことを頼んではきたが、彼らも心細かったにちがいない。その表情は、みんな虚ろだった。
なにしろ現場の職員たちは追いつめられていた。いるはずのない重度の利用者が、特養でもないウチの施設に半分以上いるのだ。養護施設の人員配置ではとても手が足りないのは火を見るより明らかだったはずだが、区市町村がお客さんでは無碍に入所を断るわけにはいかない。百パーセント補助金で運営しているウチのような養護施設では、空き部屋を放置しておくわけにはいかないのだ。
いまや日本の全人口の三分の一が、いわゆる高齢者となっている。自立できない人も比例して溢れている。既存の特養だけでは器が足りないのである。役所の担当者も手にあまるのであろう。その結果、ウチのような養護目的の施設を特養代わりに使おうと考える。
手が足りないので自動的に施設長である私も現場を手伝わざるをえなくなる。偉そうに、ああしろ、こうしろ、と指図をしていただけでは職員は納得しないのだ。
そういうわけで私の仕事は減らない。私は管理職だといっても、自分の仕事を持っていないわけではない。大規模改修の準備も進めなければならないし、年々増える身寄りのない物故者の後始末もしなければならない。不測の事態はこれでもかと起り、息つくいとまもない。
本来、利用者関係は相談員の業務なのだが、職場での人間関係が悪くなった相談員がつい先日辞めていった。ただでさえ重度の利用者を一人でも環境のいい施設に移し、その欠員を埋める交渉をしてもらわねばならないのに、現場叩き上げの後任にはまだ荷が重い。彼が重圧に押し潰されれば施設は回らなくなる。私が業務の一端をフォローしないわけにはいかない。
私の激務を知らない経営者は、新しく介護保険適用施設を立ち上げようとしている。この申請関係も、いつの間にか私の仕事になっていた。その合間で、体調を崩す利用者の面倒を見きれない現場の職員のフォローもしなければならない。
私はある意味、事業所の管理者というよりユーティリティとなっていたのだ。私がいることで精神的に安心感があるのなら、それに越したことはない。しかし、私の身になってみれば、その孤独感と苛酷さがわかるだろう。
気が抜けないのだ。退勤した後だろうが、寝ているときだろうが、休みの日だろうが、関係ない。なにかといえば呼び出しがかかる。この間の三連休はすべて呼び出され、付き添った病院で過ごした。利用者を介助する前に、私が過労で倒れるか、痴呆になりそうだ。
同級生の葬儀は、こんな生きた心地もしない毎日のなかで、ある意味息抜きになると思っていた。クルマで家を出てしまえば、呼び出しがあったとしても駈けつけるというわけにはいかない。斎場がある東海地方の町に着けば、東京まで優に五時間はかかる。呼び出されることはないと踏んだ私は、この際だから週末をはさんで休暇をとった。
不幸があったということなら、だれも文句はいえないし、私がもう何週間も休暇を返上していることを知らない者はいなかった。葬儀を理由に、堂々と羽を伸ばせると考えていた。いざ東京を後にしてみると、やはりうしろめたさが追ってくる。
葬儀という厳かな場で不謹慎だが、久々に旧友たちと過ごす時間は楽しかった。たしかに仕事に追われる日常を忘れられたが、そんな時間はいつまでも続かない。明後日には現場に復帰しなければならない。
極力、渋滞を避けようと夜中に出て、音楽を聴きながら気分良くクルージングを楽しむつもりでクルマのハードディスクに好きな曲ばかりを入れてきたのだが、景色が見えないぶん、その夜の暗幕に映るのは施設のことばかりだった。
カーオーディオから次々に流れだすフェバリットチューンは、右の耳から左の耳へ超伝導通過していった。堪能するとかいう気持ちになれなかった。ただ、漠然とした不安がハイウェイ灯とともにウィンドーの外を通り過ぎていく。
気分転換のつもりできたのに、好きな曲がかかるたびに気持ちは落ち込んでいった。このままでは、いままで好きだったこれらの曲が憂鬱な気分の引き金へと変わってしまう。現にケータイの着信音である『くるみ割り人形』を聴くと反射的に厭な気持ちになるのだ。ああ、また施設でなにかあったな、と。
時刻は午前一時になろうとしていた。夜の下界の底の方に夜光虫のような街明かりが薄ぼんやりと見えている。漆黒の闇に包まれた視界は、もはや物理的な感覚を失っていた。新東名への分岐路では、クルマでなくロケットで宇宙空間に放たれたような感触だった。
――アイツはなんで、こんなところで葬儀を出すことになったのだろう、と私は思っていた。
「アイツ」とは、中学、高校を通じて水泳部で一緒だった「パンパン」こと〝T〟のことだ。パンパンとはそこで出会った。体格は私より一回りも大きいのに、色白で一年生のときから自己主張の強いビキニの海パンをはいていて、高校生の先輩たちに「売女みたいにスケベな体格だ」と茶化しがてらにいわれたのがそもそもの由来だった。いまなら考えられない呼び名だ。ちなみに先輩のなかには「チンコロ」と呼ばれているひともいた。
もともとスイミングに通っていたから、おなじ一年でも実力はだいぶアイツの方が上だった。同級生たちはアイツのタイムを当初の目標にしていたのだ。伸び盛りの時期だったので、練習を続けていれば実力が上がってくる。だれかがパンパンのタイムに迫ろうものなら、記録を一気に伸ばすという負けず嫌いな面があった。
一方で、だれも追いかけてこなければいつまでも記録を出さないという手抜きも彼の特徴なのだ。いざとなれば絶対に負けないという要領のいい自信家でもあった。
中学三年のときにコーチから「だれか蝶泳を飛ぶヤツはいないか?」ときかれて、自ら手をあげて転向してしまった。「バッタ」とはバタフライのことだ。私たちにとってダイナミックな種目で見た目もカッコよく映った。彼は目立ちたがりでもあったのだ。
私たちの同期にはバッタを飛ぶ者がいなくて、メドレーリレーのチームを組むことができなかった。パンパンがバッタに転向してくれたおかげで、リレー、メドレーとも私に出番がまわってきた。
卒業後の彼の活躍は私もよく知っている。バイトでちょっとかじった程度のことを生かして、自分で食品卸の会社を立ち上げ、景気のいいときはずいぶん羽振りがよかった。私の目には、彼は他人に使われるのが嫌いだったのだろうとしか映らなかった。
そんなパンパンが東京からこんなに離れたところで亡くなってしまうとは予想もしなかった。小さな棺に入っていた。顔しか見ることができなかったが、頬骨が浮きあがるほど痩せ、死化粧もしていなかった。
景気が悪くなってから会社を潰し、離婚して身寄りがなかったというのだ。生活保護を受けて、ずっと施設暮らしだったらしい。晩年は入退院を繰り返していたときいた。若い頃の無茶が祟り、視力が極端に落ちたあげく、片方の足を引きずって歩いていたという。
卒業から三十年以上の月日が経っている。その間のことを私はもちろん、告別にきていた同窓生のだれも知らなかったようだ。別れた奥さんが我々に知らせてくれなかったら、おそらくだれにも知られずにいなくなっていたはずだ。
残払いの席で同じ部活の同級生だった「ヒデオキ」に会った。ヒデオキは家業のスイミングクラブを継いで、いまや全国展開するスポーツジムにまで事業を拡げていた。中学の頃、細くて小さく坊主頭だった彼は、まだ黒々とした髪をバックになでつけグレーのスーツをシックに着こなした若い実業家という風貌に変わっていた。地元ではイッパシの名士で通っている。アスリート関連の事業についての本も何冊か出版したといっていた。
「だれかに会うことあるかよ?」
「いや、ない」と、昔からシャープだった人相を笑顔で崩した。
「同級生で死んだのはパンパンが最初かな… 」
「〝ゴッコ〟が死んだのは知ってる?」と彼はいう。
「ゴッコ」とは、やはり同級生で、私と仲が良かったヤツのことだ。
私にとってはダブルショックだったが、少し冷静になればそろそろ還暦の声を聴こうという齢だ。同級生の一人や二人亡くなっていても不自然じゃない。それでも、やはり仲の良かった友だちを失うということは、そう簡単には割り切れないものがある。
私は大学を卒業して以来、同級生たちには会ったことがなかった。そもそも私が通っていた学校は男子校で、面白くないからだれも同窓会をやろうなどという者がいなかったのだ。また、景気のいいご時世だったので、仕事が忙しくて一部の仲のいいヤツらにも会う暇がなかった。
「ほかにだれか知ったヤツ、きてた?」
私はきいた。
「あそこに〝K蔵〟や〝K夫〟がきてるよ」
ヒデオキは奥のひと固まりを指さした。彼に引っ張られてそこにいったが、実は彼らのような目立つヤンチャグループと私は距離を置いていたのだ。しかし、これだけの時間が経っていると、ためらいを上回る郷愁感があった。
私を目ざとく発見したK夫はいうのだ。
「おー、珍しいヤツがきてるな」
「どうも、しばらくです」
「〝カセ〟も水泳部だったもんな」とK蔵も声をかけてくれる。
「カセ」とは私のことだ。
きけばK夫は家業の飲食店を継いでいて、K蔵はなんと地方公務員になっていた。見た目は老化を防げないが、私に比べれば全然若かった。
「オマエもそれなりになったな」とK蔵にいわれたが、私は「オマエもな」とはいい返せなかった。たぶん、いちばん老けて疲れ切っているのは私だろう。
実際、こうして何十年ぶりに会ってみると、気が重かった自分がずいぶん小さく思えるようだった。時間がそんな先入観を飛び越えてくれた。なんだか、彼らとおなじクラスだった高校最後のときのように楽しいとさえ思えた――。
暗黒の無重力空間で私はハードディスクを聴くのをやめ、FMに切り替えた。つい数時間前までのような賑やかな人いきれを感じて気分を紛れさせたかったのだ。
カーオーディオからは無表情の声がニュースを読んでいた。またどこかの高速道路で、逆走した年寄りが時速一七〇キロで正面衝突したというニュースだった。虚ろな私の頭のなかで、なにか壮絶なシーンが思い浮かんだ。年寄りのやることは、ヤンチャな若者よりもスケールが大きい。
午前一時の時報。CMが一切なく、アンニュイなジャズの演奏が響いてきた。どうやらなにかの番組のジングルらしいが、このセンスは〝日放協〟だろう。
私は普段、FMは日放協しか聴かない。CMがないということは日放協だ。賑やかで、ひたすらくだらないトークにまみれたAMの民放番組に切り替えようと思ったとき、ふと手が止まった。
《『インターステラオーバードライブ』の時間がやってまいりました。週末の深夜、皆様いかがお過ごしでしょうか。遠く煌めく星に時間も空間も越えて記憶が交差します。懐かしい歌謡曲をお届けする『インターステラオーバードライブ』。今週は、主に一九七〇年代に活躍した〝波間シンシア〟さんの歌を楽しんでいただきましょう… 》
いくら週末だとはいえ、午前一時に「いかがお過ごしでしょうか」もないものだ。オーソドックスな人間なら寝ているに決まっている。おそらく深夜、陸送などをしている人向けの番組なのであろう。
それにしても〝波間シンシア〟とは、なんと懐かしい名前だろうか。いまから五十年近くまえの、私の思春期に活躍していたアイドルだ。
《波間シンシアさんは一九七一年に、十七歳でデビューした沖縄出身の歌手です。日米のハーフとして、そのエキゾチックな容姿からたちまち若者のアイドルとなりました。
同時期にデビューした〝安部マリア〟さん、〝浅丘ルミ子〟さんとともに「三人小娘」などと呼ばれ、引っ張りだこの人気でした。なかでも波間シンシアさんは他のふたりとちがい、歌番組以外にはほとんど出演することがなく、またそれまでの歌謡曲とは趣が変わった洋楽志向や南国の旋律を意識したような楽曲が多く、ある意味、新しい日本のポップスの開拓者であったといえるかもしれません。
それではさっそく聴いていただきましょう。まず一九七一年、記念すべき彼女のデビュー曲となった『十七歳の証明』をどうぞ》
♪真夏の海 ふたりの気持ちをたしかめたくて 波打ち際を走り続けたの・・・
軽快なイントロは、洋楽のヒット曲のパクリじゃないかといわれたりしたことを思い出した。いまや、このイントロは同世代の日本人なら波間シンシアでしかない。
忘れもしない、あれはまだ私が小学校六年生の頃のことだ。当時、私たちの間で圧倒的な人気のあった青春ドラマ『オレは青春だ!』に波間シンシアがゲスト出演したのだ。歌番組以外に出演しなかったことを考えれば、貴重なドラマ出演だったのだろう。しかも演技をしたわけではなく、役柄も新人歌手の本人役で『十七歳の証明』を歌うという、売り込み目的の出演だった。
私はこのとき初めて波間シンシアというアイドル歌手を見た。ほっそりとした色黒で目の大きい野性的な女の子だった。ストレートの長い髪を腰まで伸ばし、どこまで脚なのかというくらい短いスカートで登場したのだが、セクシーとはほど遠かった。「三人小娘」のなかでは一番童顔で垢抜けないイメージだった。
私たちの間では、あの頃大多数が安部マリアのファンだったのだ。一方、浅丘ルミ子は演歌調の純和風で売っていて、世のオジサンのハートを掴んでいた。小生意気な小学生にとって露出の少ない波間シンシアは、ふたりの陰に隠れて出遅れているという印象だった。
憶えているのはバラエティ番組で、当時子どもたちに人気絶頂だったコミックバンドの〝トラクターズ〟と「三人小娘」の対談という企画があり、トラクターズにずけずけとききづらいことをきいて苦笑を買っていたのが波間シンシアだ。
天真爛漫で、アイドルというより世間知らずの子どもが混じっているようだった。清純派で売っていた安部マリアとは、またちがう意味で真っ白というふうに見えたものだ。
――小学校六年のときのこと。この頃、よほど学校にいるのが楽しかったのだろう、放課後になっても私たちは教室に残っていた。なにをするでもない。一回、家に帰って遊びに出るくらいなら、ここに残っていた方が楽しいと思っていたのかもしれない。
あるいは残り少ないこの学校での生活を名残惜しんでいたのかもしれない。私にとってはそれまでの、なにかわからない束縛感から最上級生になって解放されたような時期だったのだ。
そもそもの始まりは、〝M〟という仲間うちで最もセンシティブなトレンドメイカーが、レコードを持ち寄って放課後の音楽室で聴こうといいだしたところから始まった気がする。
Mは好奇心旺盛な腕白だったが、六年生になると端正な顔立ちから突然アイドルのような人気者になった。それまでは人を巻き込んで厄介なことをやりたがる面倒くさいヤツという印象だったものが、彼のそばにいないと時代に乗り遅れるのではないかと思うほど先取り精神に優れたところを発揮しだしたのだ。
気に入った女の子に臆せず仲睦まじくしたりして、それをできない自分たちが恨めしくなるような振る舞いをした。彼の数メートル四方から、徐々にクラスの雰囲気が変わっていったことを憶えている。
ある放課後、クラスのなかで最も目立っていたMとマドンナ的存在だった〝T子〟という女の子が、たまたま教室でふたりだけになってしまったことがあった。
「おい、T子。オマエだれが好きなのさ」
「・・・・・・・・・・・・ 」
T子は黙って座っているだけだ。
「教えてくれたっていいだろ?」
Mは自分の名前が出てくることで、確信を得たかったのではあるまいか。
「よお」
「うるさいわね」
「いいじゃないか、教えてくれたって。いるんだろ、好きなヤツが?」
「いないわよ!」
「嘘だ」
「嘘じゃない!」
そこへたまたま廊下で遊んでいた男子たちが、なにか面白い展開になっていると教室の外で聞き耳を立てた。そのなかに「ロベルト」こと〝I〟もいた。T子はMがあまりにしつこいので、だれか無難そうな同級生の名前をいって諦めさせようと思ったらしい。
「Iよっ!」
それを廊下できいていたロベルト本人は、T子の告白に衝撃を受け放心状態になったという。T子はマドンナだし、Mにいたっては学校中で有名なアイドル系のイケメン問題児だった。このカップルは揺るぎがないとみんなが思っていたのに、そのマドンナに告白されれば平常心も失われる。
ロベルトによれば、あとでMから「オマエ、もてるなあ」といわれたという。それをきいた他の仲間は、「そんなことを本気にするヤツがあるか。オマエはダシに使われたのだ」と窘めたが、彼は「いや、T子はオレのことが好きだといった」と有頂天だった。
後々、ほかのクラスの子にきいたのだが、私たちのクラスは異様に大人びていて近寄り難かったそうだ。
音楽もMの影響力が大きかったのだが、私にとっては音楽が問題ではなかった。自分たちだけで音楽室に集まってレコードを聴くというのはなんともスリルがあったし、なにか特別のことをしているというステータスもあった。
メンバーには、勉強以外のなにごとにも拘りがあって一極集中する俗称「マンキチ」、野球が主流だった時代なのにサッカーがこのうえなく好きというロベルト、漢字で四文字もあるという珍しい苗字で、その頭文字をもじった「フーチャン」、いつも流行歌をハナウタまじりに唸っている野球少年「ヒロシマ」らがいた。私は誘われてドキドキしながらついていっただけだったのだが、理由のない興奮と緊張感で便意を催すほどだった。
そのとき彼らが持ち寄ったのが〝ビートルズ〟をはじめとする洋楽だった。もちろん邦楽もあった。〝チューリップクリーム〟の『喪中さ君に』や〝上條きよし&十六文銭〟の『朝立ちの歌』、〝尾崎豊彦〟の『十五の夜に逢う日まで』等々。そのなかに、なぜか波間シンシアの『十七歳の証明』もあった。
浅丘ルミ子はありえないとしても、爆発的な人気だった安部マリアのデビュー曲『小さな水色の恋』でないところが彼ららしい。ちょっと場違いな印象もあったが、だれもなにもいわず黙って聴いていたものだ。
私はそこで初めて音楽を聴くという行為を学んだ気がする。あのとき時間が止まった琥珀色の部屋で、仲間たちはまるで報道写真のように瞬間のまま凍りついていた。バックにアップテンポな波間シンシアの声が響いている。私たちは偶然に、そこにある自分たちなりの安らぎを見つけていたのかもしれない。
「放課後観賞会」で聴いたこれらの曲はクルマのハードディスクの挿入歌となっている。そして「放課後観賞会」のメンバーとは、その後もつき合いが続くことになる――。
私の心眼は、いつしかあるはずのない自分の記憶のなかにタイムスリップしていた。頭のなかに、いままであった黒く冷たい鉛の塊の障害物は忘却の彼方に転がっていった。アトランダムに記憶にアクセスする廻り灯篭のようなエンジンが稼働を始める。目の前の夜空に煌めくプラネタリウムは全方位のスクリーンだ。
《波間シンシアさんの歌、続けて聴いていただきましょう。『潮風のメドレー』、『友だちになりたいの』。二曲続けてお聴きください》
これらの曲はデビュー曲のヒットで気をよくしたレコード会社が、同じ路線で次々と発売したものだ。海と沖縄をイメージさせる独特のメロディが共通している。そしてこれらの曲は、私たちが夢中で見ていた『オレは青春だ!』のなかで挿入歌として流れていた。
『オレは青春だ!』は、女性の地位向上を信条とする妙に意識の高い女子高生が学校を女性優位のコミューンに変えていこうとする過程で、転校してきたこれまた時代錯誤にバンカラな男子生徒と衝突を繰り返し、世にも信じ難い騒動を起こしつつもお互い惹かれていくというドラマだった。落日に染まる海に浮かぶふたりのシルエットの背景に流れていたのが『潮風のメドレー』だった。
もう一言いわれたら、あなたについていったのに・・・ という残念な初恋の思い出を歌っていたのを鮮明に憶えている。
あの頃、私たちはこれからこのドラマのような楽しい青春の日々が待っているのだと胸を膨らませていた。波間シンシアというアイドル歌手云々よりも、青春のプレリュードの象徴として、彼女の歌を聴いていたのだ。
『友だちになりたいの』は、私にとって懐かしさの極北だった。たそがれの街を歩いていたら憧れの彼に似た人を見つけて、あらためて彼のことを想うという歌だった。
♪恋人じゃなくていい 友だちになりたいの・・・
ちょうど恋することに焦がれていた多感な少年の心に、その歌詞が痛いほど共感できた。私も、たしかに好きだった同級生の女の子に同じような気持ちを抱いていたのだ。片想いをどうしたいのかわからない少年のハートをガッチリ掴む歌だった。
それと同時に、この夢のような楽しい日々が終わりに近づいていることも予感していた。共に過ごした仲間たちやこの場所がいとおしかった。一分でも一秒でも長くこの時間が続いてくれたらと、そんなことばかりを考えていたような気がする。そんな気持ちを持っていた頃の自分が無性に懐かしい。
――ある土曜日の放課後のこと。卒業も間近に迫った穏やかな昼下がり。明るい陽ざしが射しこむ廊下を私は独りで歩いていた。なにかの用を済ませ、自分の教室に戻ろうとしていた。
廊下の向こうから別のクラスの担任の〝H〟という女性教師が歩いてきた。ふくよかな体形で漫画のような赤い吊りあがった眼鏡をかけたハイミスだった。怒るとヒステリックになり、非常に神経質な独裁者らしいとまことしやかにいわれていた。私たちは「ミス女史」と陰で呼んでいた。
幸いにも同学年の担任とはいえ、わがクラスとはなんら関わりがなく、私との接点もなにひとつ見つけられなかった。なにかあるとすれば、私の憧れの女の子のクラスの担任であるということぐらいか。私は生涯この先生と口をきくことはないであろうと思っていた。
ミス女史は「〝K〟クン、〝K〟クン」と、叫びながらやってくる。〝K〟とは、例の「放課後観賞会」のレギュラーであるマンキチのことだ。私は状況から、自分の後ろにマンキチがいるものと思っていた。
ちょうど、私とミス女史との間にある二階へと続く階段を昇りかけたときだ。マンキチの名前を連呼しながら、先生は私のあとを追いかけてきて腕を掴むのだ。
「Kクン!」
(ええっ!?)
私はびっくりして、振り返った。ミス女史の怖い顔が下から睨んでいた。
「あ・・・ いや・・・ 」
私は人違いであることをいおうとしたが、なにしろ初めて口をきく先生なので反応できないでいた。
「ぼ、ぼ、ぼ・・・ 」と、どもっているうちに、ミス女史は矢継ぎ早に用件をまくし立てた。その内容は、まったく私の理解できないものだった。何月何日にどこの教室で云々みたいなことだったと思う。先生もあまりにこの生徒が要領を得ていない様子なので、もう一回きくのだ。
「Kクンでしょ?」
「いや、ボクはカセです」
やっと落ち着きを取り戻した私はそう応えるのが精一杯だった。どうやら先生は背格好が似ている私とマンキチをまちがえたらしかった。しかし、先生はひるまず同じ調子でこういった。
「あら、そう。じゃあKクンにいっといて」
「はっ」
冗談じゃない。なんだと思っているのだ。私は気が動転していたが、とりあえず用件を忘れないうちにマンキチに伝えようと、自分の教室へ急いだ。
二階にあがると放課後の校舎は静かなものだった。だれもいない廊下というのは実に不思議な雰囲気を醸し出している。開け放された扉のなかには机と椅子だけが整然と並んでいるだけだ。世界に自分独りだけが取り残されたような錯覚に一瞬陥るが、すぐに現実の喧騒に引き戻された。
私たちの教室には土曜日の放課後だというのに、今日もクラスメイトたちが残っている。初春の陽だまりのなかで女子も男子も、みんな楽しそうだ。そこはあたかも修学旅行のまま、夏休みに突入したかのような空間が広がっていた。
すぐ近くにいたヤツに「マンキチは?」ときくと、どこかにいるはずだという。教室には彼の姿がなかった。私は再び廊下に出て、まるで国境の向こう側のような静寂に佇んだ。
ふと、空っぽのはずの隣の教室を覗くと、なんとそこにマンキチがいた。隣のクラスの学級文庫にあった漫画を夢中で読み耽っていたのだ。
「マンキチ・・・ 」と声をかけると、何度目かにやっと気づいたらしく「あとにしてくれ」というサインを出した。恐るべき集中力である。彼は全身全霊で漫画を読んでいたのだ。「マンキチ」と呼ばれる理由をこの目で見た瞬間だった。
その後、教室で仲間と雑談に講じているところへマンキチが戻ってきて、私はミス女史からのことづてを伝えることができた。私にはこんな律儀なところがあった。
「文集の打ち合わせのことだ」
マンキチは卒業文集の編集委員会に、わがクラスの代表として出ていて、ミス女史が委員会の顧問だということだった。
彼が編集委員会に出たきっかけは、夏休みの自由研究に小説を書いてきたことを担任の先生が評価したからだった。だてに「マンガキチガイ」なだけじゃない。
実は編集委員会に出たかったのは私の方だった。私は小さい頃から本が好きで、外遊びが嫌いという筋金入りの引きこもり体質だったのだ。好きな本をつくる仕事に就きたいとずっと思っていた。だが、小説を書くという発想までは、悲しいかな、無かった。だから、面倒くさそうにしているマンキチが羨ましくて仕方なかった。
そして楽しい時間はあっという間に過ぎ、卒業式の謝恩会も終わって、今日、この校門を潜ればもう二度とここに登校してくることはないという場面。私は一歩、また一歩と校門に向かって独りで歩いていた。校門の前には名残惜しいというオーラをそのへんいっぱいに放射して、他のクラスの女の子たちが輪になっている。
よく見ると、その輪の中心にいるのはミス女史だ。ということは、私の憧れの女の子もその輪のなかにいるのではないのか。
私は四月から私立の男子校に進むことになっていた。もうこれで彼女の姿も見納めかもしれないのだが、あまりじろじろ見るのもどうかと思い、すぐ横をすり抜けようとした。
突然、その輪のなかから手が伸びてきて、私の手を掴んだ。涙でクチャクチャになったミス女史の顔があった。
「Kクン、頑張ってね」
(ええーっ!)
しかし、私はたぶん笑顔で「はっ」といったと思う。いまさら「ボクはKではありません」などといっても、もうなんの意味もない。この学校にくることはないし、ミス女史に会うことも金輪際ないはずだ。ミス女史のために、最後の最後までマンキチで通そう、と。
でも、私は先生と最後の握手をしたときに、噂のような冷徹な独裁者ではないと気づいた。もしそうなら、こんな人間的な所作はしていないだろうから。
それにしても先生は一年間、卒業文集の編集委員会でいったいなにを見ていたのですか、ともきいてみたかった。そのおかげで愛しい彼女の顔もたしかめられなかった。残念な卒業式だった。
小学校卒業直後、近所の書店にいった帰りに雨が降り出した。空を見上げれば、いままで曇っていた空に西日が射している。春先の天気雨だった。ふと反対側の歩道に目をやると、愛しの彼女が独りで考えごとをしているように腕組みで歩いているのが見えた。心拍数が上がるのがわかった――。
波間の『友だちになりたいの』の歌詞と重なるような状況に、その後この歌は私にとってフェバリットチューンとなる。『友だちになりたいの』は聴くたびに、そんな切ない気分を思い起こさせる。同じ時期に安部マリアが歌っていた『虹をわたるのはひとりじゃないの』や浅丘ルミ子の『私の十日町』など、当時の流行歌を聴くと胸が締めつけられたものだった。
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