空腹と甘い珈琲とシナモンクッキー
シュラウド様は私の背中の傷から唇を離すと、私にお洋服を着せてくださった。
それはシュラウド様がおっしゃっていた通り、私にはずいぶん大きい。
袖は余るし、裾は足元まで隠れてしまう。
首元もぶかぶかで、肩がずるっと落ちそうになるぐらいだ。
体が、隠れると安心した。
同時に、不安になる。
私は、肉付きが悪くて小さくて、背中にあのような傷のある、不健康なほど白い不気味な女だ。
シュラウド様は優しい言葉をくださるけれど。
心の奥に染みついた恐怖は、鬱屈した自己嫌悪は、皮膚の下を私とは違う別の何かが這い回っているかのように、我が物顔で私の心を侵食していく。
「アミティ。背中の傷も、君の色も、俺は好ましく思うよ。それは、君を残酷な目に遭わせたオルステット公爵や、その家族や使用人たちには怒りを感じる。まともな治癒もされず、残った傷跡だと、見ればわかる。君の苦しみや痛みを思えば、怒りで腑が煮えるようだ」
「……シュラウド様、私、このような傷のある体では……あなたにふさわしくありません。……お側に置いていただけるのは、ありがたいことと思います。逃げたりは、しません、から……だから、私を、使用人として雇っていただけませんか……?」
どうすれば良いのか、考えた。
シュラウド様は私が逃げたら追いかけてきてくださるとおっしゃる。
逃げれば逃げるほどに、ご迷惑をかけてしまう。
だとしたら、シュラウド様の優しさに甘えて、ハイルロジア辺境伯家に置いていただこう。
使用人として正式に雇っていただくことができれば、シュラウド様にご迷惑をかけなくてすむかもしれない。
「アミティ。君は俺のものだ。そうすると、俺が決めた。それは使用人などではなく、妻にするという意味だ」
「でも……!」
「傷がなんだというんだ? ハイルロジア領は常に侵略の魔手に脅かされている土地だ。軍人が多く、女性でも、時には斧や槍を持って、戦うことがある。そうさせないのが、俺の役割ではあるが」
シュラウド様は戯れるように私の髪のひとふさを手にすると、軽く口づける。
髪に口づけられたのに、身体中の神経が髪に集中してしまったかのように、体がぞくりとして、震える。
嫌、じゃない。
恥ずかしい。恥ずかしくて、落ちつかなくて、シュラウド様と一緒にいると、どうにかなってしまいそう。
心の中を無理やりこじ開けられて、知らない感情を引き摺り出されているような、泣きたくなるような解放感と、心地よさと、息苦しさでいっぱいになる。
「体の傷は、痛い。だが、心の傷はもっと痛いだろう。……よく、耐えた。心が壊れそうになるほどの仕打ちを受けて、君はそれでも、俺に迷惑をかけまいと考えてくれる。心の奥にある硝子細工のように繊細で、清らかで優しい君の本質は、誰にも汚されることなく輝き続けているのだな」
「……そんなこと、ないです……っ、私、私、どうしていいのか、わからなくて……」
「俺のそばにいれば良い。君が得られることのなかった、十八年分の愛情を、そうだな──三日、三日で取り戻そう。アミティ、君は俺のものだ。俺が君を愛するのは、自由だろう」
「……どうして……っ、シュラウド様は、私に、会ったばかりで……」
「君を愛することに、時間や、理由が必要か?」
「……わかりません、私」
どうして優しくしていただけるのか、わからない。
シュラウド様は端正な顔に笑顔を浮かべた。
「君は、俺を怖いと思うか?」
私は首を振る。
怖いとは、思わない。シュラウド様と一緒にいると、まるで、嵐の中に立ちすくんでいるみたいで、体がばらばらになってしまいそうなほど、感情が乱れるけれど。
それは、怖い、とは違う。
「ならばそれが理由だ。君は俺を怖がらない。俺は、俺を怖がらない美しい女性をみすみす腕の中から逃すほど、間抜けではないよ。……アミティ、君は美しい。そして、清らかで、優しい。君が自分をどう評価しようが、俺はそう思う」
「シュラウド様……っ、私、どうしたら、良いのでしょう……嬉しいのに、おそろしいのです……私をそんなふうに誉めてくださる方は、お話をしてくださる方は、愛してくださる方は……一人も、いなかったから」
「これからは、俺がいる。心配せずとも、俺は死神と呼ばれるほどに強いからな。君を残して消えることはない。俺が君を守る。だから、君は俺だけ見て、俺に、溺れていれば良い」
「……シュラウド様……っ」
荒波に揉まれるような感情に、熱に、私はただ、身をすくませていた。
顔が、熱い。瞳は潤んで、焦点を結ばない。
シュラウド様の手が伸びて、私の頬に触れる。髪を撫でて、視線がぶつかる。
そうすることが当たり前みたいに目を閉じると、唇に軽く、柔らかいものが触れた。
戯れるように何度かそれを繰り返す。
パチパチと、暖炉の薪がはぜる音がする。
口づけは優しくて、恥ずかしくて、緊張して。
シュラウド様がおっしゃっていたように、何も、考えられなくなる。
「……アミティ。あまりにも、君が健気で、愛らしいものだから、触れてしまった。……嫌ではないか?」
「私……嫌じゃ、ありません……」
名残惜しそうに触れていた唇が離れて、額がこつんとぶつかった。
顔が近くて、薄く開いた視界が濁る。
シュラウド様の体温は、私より少し高いみたいで、触れられた場所が全部、熱い。
「アミティ、せっかくだから、珈琲を飲もうか。クッキーもある。本当は、花嫁のために盛大な食事を準備して、夕食を共にする予定だったんだが、これはこれで、悪くない。まるで駆け落ちをしているようで、楽しいな、アミティ」
「か、かけおちですか……」
「あぁ。家から君を連れて飛び出して、山小屋でこうして共に、暖炉の前で、ありあわせの食事を摂る。駆け落ちのようだろう? 鹿や猪などを捕まえて、捌いて焼いて食べさせたら、もっと雰囲気が出たかもしれないのだがな」
「鹿、猪……」
「鹿や猪は嫌いか?」
「食べたことが、ないです……」
「クッキーは?」
私は首を振った。シュラウド様が嬉しそうに笑い声をあげる。
「それは良い! 珈琲も、クッキーも、鹿や猪も。俺は全て、君の初めてを見ることができるということだな。それじゃあまずは、珈琲だな。少し苦いが、砂糖を多く入れて、甘くしてきた。甘いというのは、良いぞ。甘い珈琲とクッキーを口に入れながら、不機嫌になる者はいない」
シュラウド様に大きなカップを渡されて、私は余った袖から手を出すと、それを受け取った。
手の中のカップは、温かい。
シュラウド様に促されて口をつけると、ほろ苦さと甘さが口いっぱいに広がった。
「おいしいです……」
「そうか、よかった。これから眠るのに、珈琲はどうかと、少し思ったんだが。君とはたくさん話をしたい。それに、明日何かの急用があるわけでもない。今夜は夜更かしをしようか。それで、昼過ぎに起きて、火を熾して、何か焼いて食べよう。最高に楽しい休暇だな、隣には美しい君がいる。俺は、世界一運が良い」
「……シュラウド様、その、……たくさん、気を遣わせてしまって、ごめんなさい」
「気は遣っていないぞ。俺は俺の好きなように、常に生きているのでな」
「シュラウド様は、優しい方です……私には、もったいないぐらいに」
「俺を優しいと言うのは、国中探しても君ぐらいしかいないだろう。君を俺のものにすると言った暴虐な男を優しいと思ってはいけない」
「そんなことない、です……シュラウド様、ありがとうございます」
私が頭を下げようとすると、シュラウド様は手にしていた四角いクッキーを私の口の中に無理やり押し込んだ。
「っ、ふ、……っ」
「甘くておいしいだろう。砂糖とバターと小麦粉を丸めて焼いただけで、旨いのだから、すごいことだな」
口の中にいっぱいになったクッキーは、噛み締めると、サクサクと音がした。
舌の上でほろりとほどけて、優しい甘さが口に広がる。
「クッキーには、シナモンが入っている。不思議なものでな、珈琲やシナモンは、精神を落ち着ける薬になる。だから、軍の駐屯地にはよく置かれている。ハイルロジア領の者たちは、珈琲とシナモンを好む。いつ敵襲があるかわからないような土地だからだろう。生活の知恵だな」
「……おいしいです。確かに、落ち着く味がします」
泣きたかった気持ちも、苦しかった心も、体の芯がほんのりと温まったように、薄れていく。
シュラウド様は私の頭をぐりぐりと撫でた。
「どんな愛の言葉よりも、空腹が癒える方が、甘さが体に染み渡る方が、効くだろう」
どこか得意気にシュラウド様がそう言うので、その様子が可愛らしくて、私は口元に自然と笑みを浮かべていた。
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