傷の治療と、珈琲と
シュラウド様を待つ間、私は自分の腕をきつく掴んで震えていた。
ソファに座っている自分は、何かが間違っているような気がする。
──白蛇の寝床など、物置小屋で十分でしょう。
──食事を共に摂るなんて、気味の悪い。消えてちょうだい。裏庭にでも行って食べなさいな。
古い使用人がいなくなり、新しい使用人が増えるたびに、私の名前を呼ぶ者はいなくなった。
蛇蝎の如く──文字通り、私は蛇なので、その通りなのだけれど。
私は、嫌われていた。
最初は、少しは、どうして――と、思っていたかもしれない。
それも昔のことで、少しずつ、忘れてしまった、けれど。
途中から、それが当たり前になって。嫌われることが、当然になって。
私は、色が違うから。
公爵家に居させてもらうことだけで、ありがたくて、自分がお父様やお母様の子供であることさえ、忘れる日も、多かった。
流れる血が人の立場を決めるのだとしても、けれど無価値な私は、やはりシュラウド様に優しくしていただく価値はないのだと、どうしても思ってしまう。
「……アミティ、そこは居心地が良さそうだな。俺も共に座ろう」
気づけば私は、部屋の隅にぺたんと座り込んでいた。
自分がいつ、ここにきたのかの記憶は、まるでそこだけ切り取られたように、なくなっている。
シュラウド様の声がして顔を上げると、シュラウド様は口元に笑みを浮かべて私の元へまっすぐに歩いて、私の正面へと腰を下ろした。
「部屋の隅というのは、落ち着くな。俺も狭いところは、案外好きだ。駐屯地の天幕などは、中央と、四角に杭を立てて、幕を張るんだが、あの狭さはなかなか癖になる。簡易式のベッドなどは、寝返りを打てないほどで、胡床なども小さい。何事も大きければよい、広ければよいというものでもない」
「シュラウド様……っ、ごめんなさい、私のせいで、床に……っ」
私は、床に頭を擦り付けるようにして、謝った。
正確には、謝ろうとした。
私が頭を下げようとすると、シュラウド様はすぐに私に手を伸ばして、私の体を強引に腕の中に抱き込んでしまった。
硬い胸板が、頬に当たる。
そのまま軽々と私の体をシュラウド様は自分の膝の上に乗せて、横抱きにした。
破れた衣服が乱れて、靴と靴下を脱がせていただいた足がむき出しになる。
窓からは夕方の優しい光が差し込んでいて、暖炉の炎に照らされた私の足には、確かにそこここに切り傷があるようだった。
「自ら俺に抱きついてくれるとは、光栄だな」
「ち、違います、私……っ」
「アミティ、俺はしつこい。その上、少々、思い込みも激しい。君が俺に向かって倒れ込んでくるように、俺には、見えた。妻に押し倒して貰えるとは、男冥利につきるというものだ」
「シュラウド様、そうではなくて……っ」
私は、謝ったつもりだったのに。
シュラウド様はまるで聞こえていないように、上機嫌で私をぎゅうぎゅう抱きしめてくださる。
「床に座るぐらいなんだというんだ? 知っているか、アミティ。俺たちが蛮族と呼ぶスレイ族は、絨毯に座って暮らしている。そこで、茶も飲むし、食事も摂るんだ。食器を床に置いてな」
「シュラウド様、でも、私のせいでシュラウド様まで、床に……」
「君が床に座るのが好きだとして、何もおかしいことではない。俺も好きだ。床に毛布を持ってきて、今夜は暖炉の前で眠ろう。きっと、楽しい」
シュラウド様は本当に楽しそうに、そう言った。
それから無造作に私のスカートをめくりあげると、床に置いていたらしい薬壺を手にした。
片手におさまる程度の硝子の壺には、緑色の軟膏が入っている。
「さぁ、アミティ。薬を塗ろうか。ハイルロジアの軍でよく使われている傷薬だ。クトミールの葉を煎じて、油と混ぜたものだな。これが、よく効く。少し染みるかもしれないが、我慢できるか?」
「は、はい、大丈夫です……あの、自分で……」
「アミティ、俺に触れられるのは嫌か?」
「……嫌、じゃ、ないです……」
私は首を振った。
シュラウド様は、私を助けてくれて、優しくしてくださって。
怖く、ない。
嫌とも、思わない。
けれど、申し訳なさや罪悪感が、どうしても、胸の奥にこびりついた黒い染みのように、離れてくれない。
「それでは、じっとしていろ。痛かったら、俺に抱きついても構わない。可愛い君に抱きつかれるのは、嬉しい」
私がそれ以上何か言う前に、シュラウド様はさっさと指先に軟膏をすくいあげると、私の足に指を滑らせた。
踵から、足の裏。
それから、ふくらはぎや、大腿の傷を、丁寧に指が辿る。
軟膏は、僅かに、ひやりとして冷たい。
体温で油がとろけて、皮膚に染み込むと、シュラウド様の手の熱を感じた。
「ん……っ」
傷に軟膏が、ひりひりと、染みる。
私はシュラウド様の服を掴んで、俯いた。
痛いとき、誰かに縋るなんて、したことがなくて。
傷を、心配してもらったり、手当てしてもらうことなんて、したこともなくて。
じわじわと、涙が目尻に滲む。
私、泣いてばかりいる。
シュラウド様の元にきてから、ずっと、泣いてばかり。
こんなこと、今までずっと、なかったのに。
「……アミティ、痛いか。すまないな」
「悪いのは、私です……」
「君が傷を負えば、それは今後は全て、俺の責となる。君は俺のものだからな。自分のものさえ守れない男ということになる。謝るべきは俺で、君ではない。アミティ。……綺麗な足だな。形が良いし、白くて美しい。治療のために触れたが、役得というものだ」
「綺麗、なんて、……不気味でしょう、……白いばかりで」
「誰にも触れられていない新雪のように白く美しいよ。足は終わった。次は、腕も見せて。軟膏を塗っておけば、傷はすぐに塞がる。傷跡も残らない」
「腕……」
「あぁ、そうだな。破れた服をずっと着せているというのも問題だ。着替えを持ってこよう。服を脱いだ時に薬を塗って……それから、何か、食べ物と飲み物も用意しよう。アミティ、珈琲は好きか?」
「……わ、私、お水、ぐらいしか飲んだことがなくて……」
使用人たちと共に食事を摂ることも嫌がられていたから――温かい飲み物や食べ物とは、縁遠い生活を送っていた。
今まで当たり前だったけれど、今はそれが、無性に恥ずかしい。
私のとても公爵令嬢とは思えない生活を知れば、シュラウド様も私を軽蔑するかもしれない。
優しくしていただいたのに、それを失うのが、失望されてしまうのが、こわい。
「そうか。それは良い。アミティ、知らない食べ物が多いのは、良いことだぞ。これからたくさん、初めての経験ができるということだからな。それでは試しに珈琲を飲んでみようか。とびきり甘くしよう」
「甘い、珈琲……」
「女性は大抵の場合、甘いものが好きだろう。ジャニスなどは、よく休憩時間にシュークリームを十個も二十個食っている。……二十は言い過ぎかな。十は食う。俺は見た」
「シュークリーム……」
「中に甘いクリームの入った焼き菓子のことだな。ハイルロジア領は寒い。だから、菓子は甘いものが好まれ、酒も度数の強いものが好まれる。体を温めるためだろうな。アミティも、沢山食べると良い。今のアミティも美しいが、もっとふくよかになっても良い。どんな君でも、きっと愛らしいだろう」
シュラウド様は薬壺を床に置いて、私をもう一度痛いぐらいに強く抱きしめると、額に口づけた。
「君は俺の、幸運の妖精だ。アミティ、俺の妖精は、俺の頼みを一つ聞いてくれるか?」
「わ、私にできることなら、なんでも……」
触れられた体も、口付けられた額も、全部が、熱を持っているみたいだ。
寒さと恐怖に凍えていた体が、今は嘘のように、熱くて。
頭がぐちゃぐちゃで、うまく、考えられない。
「部屋の隅も良いが、少し寒いだろう。暖炉の前の絨毯に行っても良いか。柔らかいし、寝そべるのにも丁度良い」
「は、はい……」
私が頷くと、シュラウド様は私を抱き上げて、暖炉の前の毛足の長いふわふわした絨毯の上に降ろした。
それから私の頬をさらりと撫でると「着替えと珈琲と、食べ物を持ってくる」と言って、部屋からもう一度出て行った。
私は、柔らかい絨毯の上に膝を抱えて座って、暖炉の揺れる炎を見つめていた。
頭がぼんやりする。
色んな感情が一気に押し寄せてきて、何も考えることができなかった。
ただ、息苦しくて。でも、温かくて。
分不相応だと思うのに、ここから逃げることが、できない。
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