ロクトは何を恐れるのか
黒く重い蓋を押し上げると、白と黒のつるりとした歯列のような鍵盤が並んでいる。
優雅な長い指が鍵盤の上を踊るように跳ねる。
鍵盤を見ることもなく閉じられた瞳。美しい金の睫が頬に影を作り、腕や指先、体の動きに合わせて顔にかかる髪が白い頬の上で揺れる。
奏でられるのは明るい曲調だ。音楽なんて馴染みのない私はそれがなんという曲か分からないけれど、ソファに座って聞いていると自然と体が揺れた。
白い楽譜に、点々と沢山の黒が踊っている。ピアノなんて触ったこともなくて、教会にあるパイプオルガンぐらいしか馴染みのなかった私には、楽譜に踊る黒い記号や水玉模様にどんな意味があるのかは分からない。
それを鍵盤で表現すると、複雑な音の絡み合った明るい音楽になるようだ。
ピアノを弾くロクト様の向こう側には、そこだけ四角く風景を切り取ったような大きな窓がある。
毎日使用人の方々が磨き上げている窓には曇り一つなくて、透明な硝子を一枚隔てた向こう側には美しく輝くヴィスパルの街が広がっている。
空にも星があり、地上にも星の海が広がるような光景と、繊細な形のランプに照らされたロクト様はいつもながらに幻想的な美しさに満ちていた。
ロクト様は私がロクト様の元から勝手にいなくなった日から、私を傍に置きたがった。
傍若無人で何を考えているのか分からない人なのは相変わらず。
だけど、あの日雨の中泥々になった私を、汚いことを嫌うロクト様が抱きあげてくださった時に分かったのは、ロクト様は自分に正直なだけで意地悪な心を持っているわけではないということ。
どこまでも純粋で、純度の高い宝石のような心を持ったまま大きくなったような人なのだ。
お世辞は言わない。建前もない。ただ本音だけで生きている。
私は確かに貧相な女だったし、あのぬいぐるみだって私にとっては宝物だけれど、ロクト様から見たらただの汚れたゴミにしか見えない。
勝手に捨てるのはよくないので私は怒ったし、ロクト様は怒る私を嫌ったりはしなかった。
自分は自由にしているから、お前も自由にしていい。
暗にそう言われている気がして、寸分の隙もないぐらいに美しい館に来た日からずっと緊張していた私は、やっと肩の力を抜くことができた。
一曲目が終わる。最近では一緒に食べるようになった夕食をすませたあと「ピアノを弾く。来い」と言われた。
お誘いが嬉しくてにこにこしながらロクト様の後を追いかけて歩く私をちらりと見て、ロクト様は「何故そんなに笑っている?」と尋ねた。
「ロクト様に誘われるのは嬉しいのですよ」
「人からの誘いなど、私は面倒だとしか思わない」
「それは相手によるのではないでしょうか。私はロクト様と仲良くすることができると嬉しいのです。夫婦ですから」
ロクト様は理解できないとでもいうように、軽く眉を寄せた。
お世辞が嫌いなのだろう。
ライドゥン家は資産家で、ヴィスパルといえば王国屈指の観光都市。
だから――ロクト様に近づこうとする貴族の方々は多い。
内心ロクト様を変わり者と見下しながら、貼り付けた笑顔で褒め言葉を口にする人たちは、ロクト様が犯罪者の次に嫌っている存在だった。
「私は、本当にそう思っていますよ? でも、そうですね。ロクト様は美しいので、ピアノを弾くロクト様もとても美しいんじゃないかなって思うのです。それはとても見てみたいです」
「見る目があるな、ヴィヴィ。私は美しい。ピアノもな。あれはいいものだ。他の楽器と違い、それだけで完成されている。だから私はピアノが好きだ。ヴァイオリンも悪くはないが、様々な音を組み合わせることができるという意味ではピアノが一番優れている」
私はロクト様の美しい姿が好き。これも本音だ。
姿形よりも心を大切にするべきだ――なんて、私の中の良心が私の好意を咎めることがあるけれど。
こういったわかりやすい好意をロクト様は喜ぶので、私はできるだけ隠さないようにしている。
ロクト様に対しては、気持ちを隠さずに明け透けにものを言った方が上手くいくのだろう。
今まで――ロクト様を怖がって、誰もそうしてこなかっただけで。
一曲目の演奏が終わると、ロクト様は白い指先で鍵盤を撫でた。
それから伏し目がちな視線を私に送ってくる。
「どう思う?」
「はじめてきく曲でした。明るくて楽しい曲です。自然と、踊り出したくなるような」
「リールデンの作曲した、野兎という曲だ。落ち葉の中を秋の実りを探して野兎が跳ねている情景を表現している」
「まぁ……! それはとても可愛らしい曲ですね」
「お前のようだ、ヴィヴィ」
「野兎が?」
「私のあとをついて回るヴィヴィは、跳ね回る野ウサギに似ている」
「それはロクト様がついて来いって言うくせに、私よりも足がはやいからです! 追いかけるのは大変なんですよ」
「貧相で小さいせいだな」
「可愛いとおっしゃってください」
「可愛い」
「う……」
傍若無人で我が儘だけれど、とても素直なのだ、この方は。
私はみるみる赤くなる顔を隠した。自分の中にある好意に、私はとっくに気づいている。
「ピアノ、弾いてくださってありがとうございます。音楽に詳しくないのですが、とても好きです。綺麗な音がします。……芸術に造詣が深くないので上手に言えませんが、とても幸せな気持ちになります」
「お前の言葉はわかりやすくていい。単純だ」
「褒めてるんですよね?」
「褒めている。お前を私のものにして正解だったと思っている。他人など宝石よりも価値のない、石ころのようなものと同義だと思っていたが、お前は違う。私の宝物庫に入ったはじめての人間だ」
「寂しくはなかったのですか、今まで」
「寂しい? 理解できないな。何故、寂しいと思う必要がある? 他人など所詮、同じ言葉を話す血肉を持った物体にすぎないだろう。役に立つか立たないか、不快か不快ではないかの区別しかない。それが傍にいることで癒される孤独など、所詮は幻想だ」
「ロクト様の言葉は難しいです」
「ふふ。私はお前の単純さを愛している」
「褒められている気がしませんが、ありがとうございます……ロクト様は孤独が怖くないのですね。じゃあ、怖い物ってありますか? 虫が苦手とか、夜が怖いとか」
私の質問に、ロクト様は少し考える素振りを見せた。
普段から何事にも悩まずに言葉を口にするロクト様の珍しい仕草だった。
「……そうだな。時折、あの雨の日のことを思い出す。あれほど心を乱されたのは、後にも先にもあれがはじめてだ。泥の中に倒れるお前は捨てられた人形のようで、このまま命が消えてしまったらと思うととても不愉快な気持ちになった」
ロクト様はそっと鍵盤を押した。高い音が一度だけ部屋に響く。
「誰かに演奏を聴かせようと思ったことなどなかった。私は美しく完成されていて、それはこの楽器も同じ。他の楽器がなくとも十分に、あらゆる音楽を奏でられる。……しかしお前がそこにいると、お前に聞かせたい曲がいくつも浮かんでくる」
私は言葉を返すことができなくて、弾む心臓を押えるように胸に触れる。
それはまるで――。
「ヴィヴィ。今は、お前を失うことだけを恐れているよ」
激しい愛の告白のようだった。




