ほんの少しの和解
ロクト様は息絶えている男たちを冷たい瞳で見据えて「私の美しい街に掬う虫どもめ。廃棄所であろうとも街を腐った血で汚すなど、不愉快だ」と呟いた。
兵士の方々が、慣れた手つきで倒れた遺体をずるずるとどこかに運んでいく。
倒れたままの私は泥と雨と降りかかった血でぐちゃぐちゃで、起き上がることもできなかった。
「ヴィヴィアナ」
名前を呼ばれて、ようやく体に感覚が戻ってきた。
痛みの原因が何かわからないほどに体がギシギシと痛んで、腰が抜けてしまって起き上がれない。
「帰るぞ。お前は私の妻だ。私は一度私のものにすると決めたら、それを手放すつもりはない」
「ここは、大丈夫か? とか、無事でよかった! と言うところです!」
「お前は私にもう二度と話しかけないのではなかったか」
冷たいばかりだったロクト様の表情が、わずかに動いた。
口元にかすかに笑みが浮かんでいる。長い指、形のいい手が差し伸べられる。
ロクト様も、ずぶ濡れだ。汚れることなんて、しなさそうな方なのに。
私の救出なんて部下の方々に任せて、お屋敷で優雅にくつろいでいそうな方なのに。
私はロクト様の手をぎゅっと掴む。立ち上がらせていただくと、足がふらついてもう一度倒れそうになってしまう。
ロクト様が手を引っ張って、倒れそうになった私を抱きしめるようにして助けてくださる。
「ぅわああああん……っ! ロクト様、怖かった、怖かったの……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
押さえ込まれていた感情で、頭がいっぱいになる。
ぼろぼろ溢れる涙が雨粒と混じって、ぐちゃぐちゃの顔がさらにぐちゃぐちゃになった。
泥と雨と血で汚れた私を、ロクト様は汚いと言って突き放したりはしなかった。
それが──ロクト様の精一杯の愛情表現のように感じられて、ロクト様の腕の中にいるとなんだか安堵してしまう。
「あぁ。それは私の責任だ。ヴィスパルにも、まだ沢山の虫がいる。美しい光に誘われて、色んなところから集まってくるのだ。どれほど潰しても、また湧いてくる」
「っうう、ごめんなさい……私、ご迷惑を、おかけしてしまって……すごく、軽率でした」
「その通りだ」
「でもロクト様も悪いんです! 勝手に私のハリネズミさんを捨てるから……ハリネズミさん……ぼろぼろ」
雨の中で、ハリネズミさんは私と同じようにどろどろのぐちゃぐちゃになっていた。
私はさらに悲しくなって、泣き止もうとして唇を噛んだけれど、止まるのは呼吸ばかりで涙は勝手に溢れてしまう。
「お母様に、作っていただいたのに……」
「さっさと帰るぞ、ヴィヴィアナ。こんな場所に長居するのは不愉快だ」
私は呆然としながら、ロクト様に引きずられるようにして屋敷に連れ戻された。
体を清められて着替えをさせてもらった。
侍女の方々は私を責めることもなく「お気持ちお察しします」「おいたわしい、ヴィヴィアナ様」と私に同情してくれた。
その日、私は高熱を出した。
侍女の方々が交代で私の看病をしてくれて、何度も頭の冷たい布を交換してくれる。
体を拭いてくれて、重湯を食べさせてもらった。
私はとても大切にされている。恵まれている。何を悲しむ必要があるのだろう。
ハリネズミさんがいなくなったぐらいで、皆に迷惑をかけてしまった。
ロクト様が助けに来てくれたから無事だったけれど、もっと悲惨なことになったかもしれなかった。
熱にうなされながら、自分の悪いところばかりが頭をぐるぐる回った。
それから、男たちに取り囲まれた記憶も。悪夢として、何度も蘇ってくる。
その度に、ロクト様の幻を見た。私を助けて、抱きしめてくださる月の化身のようなロクト様は、いつだって光り輝くヴィスパルの街のように美しかった。
「……ハリネズミさん」
熱がさがってだいぶ体が楽になった。
パチリと目を開くと、枕の横にぐちゃぐちゃだったハリネズミさんが、綺麗な姿でちょこんと座っていた。
「ヴィヴィ、目覚めたのか」
「……ロクト様」
そしてロクト様もベッドサイドに優雅に足を組んで座っていた。
ヴィヴィアナじゃなくて、ヴィヴィと呼ばれた。
親密に、親しげに。
「ハリネズミさん……」
「私には理解できないが、お前にとって大切なものなのだな、それは。拾ってきて洗ってほつれた場所を縫い直させた。不格好だが、仕方ない。それは置いておくことを許可する」
「ロクト様、ありがとうございます。……そばに、いてくださったのですか?」
「医者が、高熱が出続けたら死ぬと言う。お前は私のものだ。勝手に死ぬことも、勝手にいなくなることも許可しない」
「ロクト様。もしかして、私のことを心配してくださったのですか」
「お前は私の妻だ。私は夫として振る舞っているつもりだ。私は今更自分を変えるつもりはないが、お前は妻として自由に、私の間違いを咎めるといい」
「ロクト様……」
「お前の怒った顔は、美しかった。私は美しいものが好きだ」
「ロクト様、私に叱られたいのですか?」
「お前は私は怪物などではないと、大声で叫んでいただろう。皆が私を化け物だという。人の心を理解しない、人ではない何か魔性のものだと。お前は愉快だ、ヴィヴィ。小さくて温かくて、そうだな──お前の中に入るのは、気持ちよかった」
「急に何を言い出すのですか!」
「だから、私の元にいろ。これからも、ずっと」
どのあたりが、だから──なのか、よくわからない。
でも、私はなんだかおかしくて、くすくす笑った。
ロクト様の指が私に伸びる。髪を撫でられて、綺麗な顔が近づいてくる。
唇が、重なった。
初めて、口付けをされた。
熱が出ていてずっと寝込んでいた私は、あまり綺麗な姿ではなかっただろう。
それなのに──ロクト様は私の唇に何度も口付けを落として、そして。
口の中に入り込んできた舌が、私の舌と絡まった。




