ルーウェルの手記
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遠い遠い昔の話です。
どれぐらい昔かといえば、今とは話す言葉も違う時代。
文字もなく、家もなく、人々の姿もなく。
大地は冷たい冷たい氷に覆われていました。
どこまでも冷たく硬い氷の中、光り輝く卵の殻に包まれて古の神は眠っていました。
それは百年。いや、千年。いいえ、数万年。
大地がここにあったときから、古の神は氷の中に閉じ込められて眠っていたのです。
古の神を、光の獣たちはずっと守っていました。
光の獣たちは古の神を守るために、古の神に作られたのでした。
古の神は大地を思うままに作り替えることができました。
その祝福があれば、雲間から光が差し込み優しく大地を照らしました。
その怒りに触れれば、地鳴りが怒り大地は裂けて、大地の形が変わるのでした。
けれど古の神はまだ、眠りの底にあります。
大地は雪と氷に覆われていて、どこまでも静かでした。
どれほどの月日を静謐の中に費やしたのでしょうか。
あるとき、「おきてください」と古の神を呼ぶ声がしました。
言葉というものを、古の神ははじめて聞きました。
それは柔らかく優しく、全てを包み込むようにあたたかいものでした。
「おきてください、神様。どうか、私たちを助けてください。冬が終わらず夜が明けず、このままでは皆死んでしまいます」
古の神は深い眠りから目覚めました。
神が眠りの底にある間に、大地には草木が芽吹き動物たちや魚たちが現れ、そして言葉を話すことのできる人間たちがどこからともなくやってきたのでした。
氷の中から目覚めた神の姿を見て、少女は驚きました。
古の神は手のひらにのることができるぐらいの、小さな小さな竜の姿をしていたのです。
うまれたときから眠り続けていた竜は、何も知りませんでした。
人々から贄として神に差し出された少女は、神の眠っていた聖峰から、聖峰のふもとの集落へと戻りました。
贄が神を連れて戻ってきたと人々は喜び、少女を神の愛し子として崇め奉りました。
少女の周囲は騒がしくなりましたが、けれど少女は穏やかでした。
「小さな神様。あなたを、コルトアトルと名付けましょう。白い神獣という意味です。あなたは神の獣」
少女は小さな神を大切に育てました。
言葉を教えて、抱いて眠り、湯にいれて。いつだって、傍にいました。
小さな神コルトアトルは、少女から離れませんでした。
食事も水も必要としませんでしたが、愛情を糧にして小さな竜の姿から、白く立派な竜へと育っていきました。
人々は少女と神を崇めました。
けれどそんな二人を快く思わない人もいました。
少女が神を独り占めしているのだと、声をあげる者がいました。
少女は神の恩恵を一身に受けている。けれど神とは皆のもの。皆を愛し平等に恩恵を与えるものだと。
ある日、そんな人々がいっせいに少女を襲い、神を少女から奪いました。
少女が死ねば、神は皆のものになると思ったのです。
少女の死に、神は嘆き悲しみ、そして怒りました。
怒りは大地を揺らし、山々からは赤い炎が吹き出しました。
母のような存在だった少女を失った嘆きから、神は再び眠りについたのでした。
いつかまた誰かが、卵の中で眠る自分を呼び覚ますことを信じて。
少女を害した人々は、人々からその罪を問われ、流刑となりました。
流刑となった人々はやがて、ひとところにあつまり、国をつくりました。
彼らは今でも、コルトアトルの眠る聖峰は、自分たちの土地だと信じています。
神を信じた人々と、神を裏切った人々は、今でも戦い続けているのです。
争いはいつか終わるのでしょうか。
終わると、いいなと思います。
それを信じて、ここに書き残します。二人目の愛し子ルーウェルより。
いつかこれを読むことになる、これからうまれるだろう新しい愛し子へ、愛を込めて。
私の命はもうすぐ尽きて、コルトアトルもまた眠りにつくでしょう。
また、長い長い眠りに。
あたらしい母に出会うために。
百年か。千年か。
次の眠りがどれぐらい長いものになるのかは、誰にも分かりません。
愛し子がいつうまれるのか、コルトアトルも知らないのです。
うまれて、愛を得て、再び眠りにつく。
それを繰り返すのでしょう。その目にうつる世界が愛と優しさで満ちていることを祈ります。
再び破滅と破壊がもたらされないことを、願います。
◇
その本を読み始めたとき、寓話かなにかなのかと思った。
コルトアトル様の伝承の一つ。人々が考えた物語のうちの、一つかと。
けれどそうではないみたいだ。
そこにはルーウェルという女性の名前が残されていた。
古い時代に生きていた女性からの手紙のようにも思えた。
コルトアトルはテーブルの上で丸くなって眠っている。
自分のことが書かれているのに、あまり興味はなさそうだった。
けれど私がルーウェルという名前を口にすると、小さな顔をもたげてじっと私を見て、それからまた丸くなって眠ってしまった。
「これは、貴重な記録のように思えるが……何故、他の本と一緒に保管されていたのだろうな。今までの辺境伯家の者たちは何をしていたのか」
シュラウド様が嘆息をした。
私はシュラウド様の膝の上に座って、読み終わった本をぱたんと閉じた。
手書きの文字は、ところどころ掠れている。
紙も紙食い虫に食べられていたし、そもそも今の紙とは違う。
もっと、ごわごわしていて分厚いものだ。
何年前ぐらいに書かれたものなのだろう。
ルーウェルという愛し子の記録は、たとえば王家の記録書などになら残っているのかしら。
「シュラウド様……!」
「アミティ、ショックだろうが、これは昔の話だ。君が気に病む必要は……」
「コルト、お風呂に入れますよ。湯浴みって、書いてあります」
「……あはは。あぁ、本当だな。書いてある。風呂に入れるのだなぁ、コルトアトルは」
「はい!」
私はやや興奮気味に返事をした。
ルーウェルの残してくれた手紙のような記録は、少し悲しい話だった。
コルトアトルは再生と破壊の神といわれていることを、私は知っている。
だからそこまでの衝撃はなかった。
それにきっと、大丈夫だ。
シュラウド様や辺境の方々はとても優しい。
私は愛して頂いている。愛して頂いている私は、コルトアトルを愛することができると、自信を持つことができるのだから。




