出奔、迷子、迷走
紅茶に手を伸ばそうとしたら、手が震えた。
頭ではわかっている。
紅茶もお菓子も、ジャニスさんが私のために用意をしてくれたものだと。
ありがたくいただくことが礼儀で、いただかないことは、失礼にあたる。
「私、何もしていないのに……」
食事は、服は、身の回りのもの全ては、働いた対価で与えられるものだ。
家に住まわせてもらっているだけで、申し訳ないのに。
私のような不吉な女。ここに、置いていただくだけで、十分だ。
その上、妻としての役割を果たす必要はないと言われてしまえば、私は本当に、役立たずでしかない。
ここにいても、何もできない。
何もできないのに、紅茶もお菓子も、私には──。
「奥様、どうされました、奥様……!」
気遣わしげに何度も名前を呼ばれて顔をあげる。
気づくと、私はいつものように、部屋の隅の床に座り込んで膝を抱えていた。
「奥様、どうしてそのような場所に……」
ジャニスさんが心配そうに私を覗き込んでくる。
私は震える腕をきつく掴んだ。
お洋服、借り物なのに。
床に座って、汚してしまった。
「ごめんなさい、私、服を、汚してしまって……」
「そんなことは良いのですよ、奥様、落ち着いて、大丈夫ですから……」
「ごめんなさい……」
情けなさと申し訳なさで、謝罪の言葉以外に、何一つ出てこない。
失敗してしまった。
間違えてしまった。
私は話すことができなくて、頭も悪い、木偶だから。
不吉な、白蛇だから。
背中を──。
「……奥様、大丈夫ですから、落ち着いてください。今、旦那様を呼んできますから……!」
見開いた目から、ぼろぼろ涙がこぼれた。
私の姿を見て、ジャニスさんが慌てたようにして部屋を出ていった。
部屋の鍵は、かかっていない。
私はジャニスさんが出て行った扉をじっと見つめる。
「やっぱり、だめ」
ここにいると、私はみなさんに、迷惑をかけてしまう。
ここにいる方々の負担になる。私は不吉で、役立たずだから。
紅茶もお菓子も私には分不相応で、囚人のように送られたこの場所で、シュラウド様の怒りを買って殺されてしまうぐらいが丁度よかったのだろう。
ここには、いられない。
「……たぶん、私にはもったいないほどの、良い方々だから」
私の態度を叱責したりせずに、大丈夫だと言ってくれた。
シュラウド様も、私をすぐに追い出さず、罰することもなく、ここにいて良いとおっしゃってくださった。
このままではいけない。私は、この場所には相応しくない。
「ごめんなさい……」
どこにいけばいいのかわからないけれど。
このままここにいて、皆に迷惑をかけてしまうのならば、どこか遠くへいこう。
私はそう決心すると、静かに部屋から出た。
誰にも気づかれませんようにと願いながら、廊下を進んで、一階に降りる。
広いホールを通り過ぎると、扉がある。
扉を抜けると、石畳の道と、その先には森が広がっていた。
辺境伯家は、お城のように大きい。お城というか、砦みたいだ。
これは、国境を守る役割があるから、お城に攻め込まれないように城の作りを堅固にしているのだろう。
石畳の道の先は跳ね橋になっていて、有事の際には橋を上げることができるようだ。
私は跳ね橋を早足で通り抜けた。
辺境伯家の人々はみんな寝静まってしまったみたいに、誰とも会わなかったし、呼び止められることもなかった。
森の道を抜けると、たぶん、街がある。
馬車が走ることができるように森の道は整備されていて、まっすぐ進めばきっと抜けることができるだろう。
そう思って、私は足を進める。
雪こそ降っていないけれど、吐く息が白い。
冷気が、顔や手や、足といった剥き出しの皮膚に突き刺さるようだった。
「……最初から、こうしていればよかった」
公爵家からも、それから、ここまで私を乗せてきた馬車からも、逃げる機会はいくらでもあった。
けれど、その選択肢を今まで思いつくことができなかった。
こんな私でも、生きたいと、思っていたのかもしれない。
それとも、自分が生きていることさえ、忘れていたのかもしれない。
木々に覆われた森の道を進む。はあはあと息が切れる。
風が吹くたびにざわつく木々の隙間から、何かが私を見ているような気がした。
草むらをかき分ける音が聞こえた気がして、私は音のした方をじっと見る。
草むらの奥に、赤く輝くいくつかの目がある。
「っ、誰、ですか……」
低い動物の唸り声がする。
思わず駆け出した私を追ってくるのは、──狼。
グルグルと喉の奥で唸り声をあげながら、涎を垂らしながら、狼たちが、私に追い縋ってくる。
まっすぐ逃げても追いつかれてしまう。
せめてと思い、私は草むらをかき分けて森の中に入った。
木々の隙間を縫って、走る。ショールやスカートが、枝に引っかかって引きちぎれる。
私に飛びかかってくる狼たちが、靡くスカートやショールを噛みちぎる。
転がるように逃げた私は、足元に突き出ていた木の根に足を取られて、走っていた勢いのままに地面に転がった。
転がる私を円形に取り囲むようにして、狼たちが私の周りをうろうろと歩いている。
半開きの口からだらりと舌が覗いている。
尖った牙が、大きな口に並んでいる。
「……っ、私、は」
辺境伯家の方々に迷惑をかけるぐらいなら、消えてしまいたいと望んでいて。
だから、お屋敷から逃げて、ここまできたのに。
食い殺されるのが、怖いと、思っている。
体が、がたがたと震えた。
歯が、ガチガチと鳴る。
怖い。怖い。痛いのは、嫌。噛み殺されるのが、こわい。
「アミティ!」
一陣の風が吹いたような気がした。
誰かが、唐突に木の上から落ちてきたみたいだった。
うずくまる私の、見上げた先に、広い背中がある。
黒い軍服に身を包み、二本の剣を手にしている。
唸り声をあげながら襲いかかってくる狼を、鞘に入ったままの剣で叩き落とすように、地面に沈めていく。
悲鳴のような声をあげながら、狼たちはあっという間に逃げていった。
「無事でよかった」
剣を腰に戻すと、その方は──シュラウド様は、私に手を差し伸べてくださる。
私は、呼吸の仕方を忘れたような息苦しさを感じた。
「っ、ぁ、う」
「落ち着いて、アミティ。大丈夫だ。息を、吐いて」
シュラウド様は私の前に膝を突くと、私の体を抱き締めるようにして、背中を撫でてくださる。
私は硬い体の感触と、温かさを感じながら、目を閉じた。
「っ、ふ、うう……っ」
嗚咽と共に、涙がぼろぼろこぼれ落ちた。
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