ハイルロジア家の若奥様
自由にして良い──と、言われても、何をしたら良いのか、よくわからなかった。
私は、ここから出なくて良い。
それは理解できたけれど、だとしたら私は、何をしたら良いのだろう。
一人きりになった部屋で私は所在なく視線を彷徨わせて、肩にかけてもらったおそらく羊毛と思われるふわりとしたショールを、微かに震える手で引き寄せる。
「……あの家に、帰らなくても、良い」
でも、だとしても、それはここにいて良い理由にはならないのではないのかしら。
物心ついた時には、自分の居場所はすでになかった。
お父様もお母様も、妹と同じ金髪碧眼の見目麗しい方々なのに、私だけが老婆のような真っ白い髪に、不吉な金色の瞳をしていた。
家族は私のことを『白蛇』と呼んで、私が皆の前に顔を出すことを嫌がった。
それでも、世間体というものはあったのだろう。
幼い頃は、必要最低限の面倒は、見てもらっていた。
それから、「お前の使い道など、誰かに嫁がせるぐらいしかない」とお父様に言われて、必要最低限の教育だけは受けさせて貰った。
そのうち──近隣諸国の好色な王などに、国と国とのつながりを深めるために、嫁ぐ予定らしかった。
けれど、誰もが恐るという『死神伯』の元へ輿入れすることが決まったと言われたのは、つい先日のことだった。
「白蛇さん、お可哀想……! けれどお似合いかもしれないですね、だって相手は人殺しの死神伯! 化け物のような見た目の白蛇さんの相手には、ぴったり!」
私がシュラウド様の元へと出立する日、妹のシェイリスは可憐な笑顔を浮かべながらそう言った。
「死神伯の元へ嫁ぐのが私ではなくてよかった! 聞いてくださいまし、白蛇さん。私には、王太子殿下から婚約の打診が来ているそうなのです。私、この国で一番偉い方と結婚するのですよ。結婚式には呼んで差し上げますね。でも、白蛇さんと死神伯が揃って現れたら、きっとみんな怖がってしまうでしょうね!」
くすくす笑いながら、無邪気にシェイリスは言った。
私は──どうとも思わなかった。
怖がられるのには、慣れている。私も白い髪と白い肌、目だけ金色の自分の姿を、不吉な白蛇のようだと思う。
それでも、私を見送りに来て声をかけてくれたのは、妹だけだったから。
お母様もお父様も姿も見せてくれなかったから。
無邪気に私を嘲るシェイリスに少しだけ感謝をした。
「でも、やっぱり、間違いだった。……私を欲しがる人なんて、いるわけがないわね」
窓に手をついて、額を押し当てる。
窓は冷たい。吐く息があたると、窓ガラスが白く曇った。
雪こそ降っていないけれど、辺境の地はやはり公爵領よりはずっと寒い。
どこに行って、何をしたら良いのかわからなくて、私はしばらくそうして呼吸をし続けていた。
「……何か、仕事。仕事を、させてもらわないと……」
公爵家では、使用人に交じり仕事をしていた。
公爵家の使用人たちは長くいる者は少なく、お母様やシェイリスは何かあればすぐに使用人を辞めさせているようだった。
それなので、私をオルステットの娘だと知っている者の方が少なかったのではないかと思う。
少ない、というか、誰もいなかったのではないかしら。
私は使用人の一人だった。
この見た目で、言葉を口にすることも禁じられていたから、──公爵家が慈善活動の一つで雇っている、生まれながらにして何かしらの障害を抱えた娘だと思われていたようだった。
使用人として働けば、食事が貰える。
侍女の服を着ることも許されるし、湯浴みも、使用人と同じ場所でなら、行うことが許される。
それすらできない私は、ただの、不用品。
生きる価値もない、要らないもの。
「……少しでも、役に立たないと」
シュラウド様に憎まれていないのなら、疎まれていないのなら、それで良い。
けれど、誰かの役に立たないと、この家の役に立たないと、呼吸をすることにさえ罪悪感を感じる。
私は長い間同じ姿勢でいたために固まってしまった体をぎくしゃくと動かして、そろりと部屋を出た。
侍女の方にお願いして、働かせてもらわなくてはいけない。
「……奥様、どうされました?」
私がお部屋から外に出ると、私の姿に気づいて、侍女服を着た方が早足でこちらに向かってくる。
「お疲れでしょう、お部屋でゆっくりと休んでいて良いのですよ。今、紅茶とお菓子を準備して、運ぼうと思っていたところで。でも、旦那様とのお話の邪魔になるかと思って。先ほど旦那様の許可をいただいたので、今準備をして、ちょうど運ぼうとしていたところで」
女性は銀のトレイを手にしている。
トレイには銀製の蓋がかぶさっていた。
「あ……あの、私……私、アミティ、と、申します」
心配そうに私を覗き込んでくる、明るい茶色の髪に鳶色の瞳の、豊かな体型の女性に、私は話しかけた。
普段、話すという習慣があまりなかったから、声が少し震えた。
「はい、奥様。存じ上げておりますよ。アミティ様ですね。アミティ・オルステット公爵令嬢様です。申し遅れました、私はジャニスと申します。奥様の身の回りのお世話をさせていただくことになりました。今、お茶を運びながらご挨拶に伺おうとしていて……」
「ジャニス様……」
「奥様! ただの侍女に、様などと。いけません」
「……ごめんなさい」
「謝る必要もありません。アミティ様は、シュラウド様とご結婚をなさったハイルロジア家の若奥様なのですよ」
「間違いなのです、本当は、私ではなくて、……私、本当は、ここにいては、いけなくて……っ、だから、ジャニスさん、私に、何か、お仕事をさせていただけませんか……?」
「仕事……? 奥様が、仕事……というと、旦那様の、補佐などでしょうか。それとも、家の管理などでしょうか……模様替えとか、お茶会の手配、などでしょうか……」
「あ、あの、私……そういったことは、したことが、なくて。でも、お掃除や、お洗濯や、お皿洗いとか……あと、馬の手入れとか、……それなら、できると思うんです」
「奥様、何をおっしゃっているのです。それは使用人の仕事です。奥様の仕事ではありません」
「……でも、私」
「奥様は、疲れて混乱しているのですね、きっと。お部屋に戻りましょう。温かい紅茶を淹れました。きっと心が落ち着きますよ。ハイルロジア辺境伯領特産の、ワイルドベリーのジャムを添えたスコーンも用意したのですよ。お口に合うと良いのですけれど」
私は、ジャニスさんに促されてお部屋に戻った。
寝室の手前にあるリビングルームのテーブルに、ジャニスさんが紅茶とお菓子の載ったお皿を準備してくれる。
紅茶からは白い湯気が立ち上っていて、リビングルームの大きな暖炉には、赤々とした火が燃えていた。
ジャニスさんが椅子をひいてくれて、私に座るように促した。
私はびくりと震えて、一歩後ろに下がる。
「……奥様、私がそばにいると落ち着かないでしょうから、失礼します。何か用があるときは、ベルを置いておきますから、鳴らしてくださいね」
私の態度を見てジャニスさんは困ったように笑うと、礼をして部屋から出ていった。
気を遣わせてしまった。
何の役にも立たないのに、うまく、話もできなくて。
立派な椅子に座ることも、きれいなベッドで眠ることも、こうして、お茶を準備していただくことも慣れていないから。
どうして良いのか、わからなかった。
一人になると、目尻から涙がこぼれた。
悲しくもないのに。
ただ、私がここにいることが、何の役にも立たないことが。
ひたすらに、苦しい。
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