悪夢と、紋章
──お父様が、私の名前を呼んだ。
アミティは、私の名前。滅多に呼ばれることは、ないのだけれど。
自分のお部屋で家庭教師の先生が出してくださった宿題の算術を解いていた私は、お部屋から出て、お父様についていった。
お屋敷は広くて、お父様が廊下を歩くと、使用人の方々は廊下の端に背筋をまっすぐにして立って、頭を下げる。
お父様は、立場のある方だ。
家庭教師の先生のお話では、今の国王陛下の、王弟なのだという。
オルステット公爵の長女であるお母様と結婚なさり、オルステット公爵となった。
元々、オルステット公爵家には公爵家を継ぐべき長男がいたのだけれど、体が弱い方だったらしく、お父様が婿入りをする頃にはもう病で寝ついてしまっていた。
お爺様やお婆様も私が生まれてしばらくして、病でお亡くなりになった。
だから──オルステット公爵家の者たちが病で早くに亡くなるのは、不吉の象徴のような色をした私が生まれたせいだと、言われていた。
お母様の色とも、お父様の色とも違う。王国人の方々には、私と同じ色をしている人はいないのだという。
お母様は最初は、お父様に不義を疑われたらしい。
別の男性との子供ではないかと疑われて、お母様はひどいことをされたそう。
けれど、お母様は不義などはしていなくて、全ては私が呪いを背負ってしまって生まれたからだと、今は言われている。
──私が生まれた時。お母様のお腹の上に、白い蛇が乗っていた。
そう、誰かが言った。
お母様はそれで、悲鳴をあげたのだという。だから生まれてきた私には、白蛇の呪いがかかっているのだと。
白い蛇は北の蛮族であるスレイ族の象徴である。
だから、私は呪いの子として、疎まれていた。
私も──自分のことなのに、わからない。どうして、こんな色に生まれてしまったのだろう。
私だけ、どうして、色が違うのだろう。
本当に私は、呪われていて。私がいると、皆が不幸になるのではないかしら、と。
「……どうして、お前にその紋章があるのかずっと、不思議だった」
お父様は、私を見ながらぽつりと言った。
古めかしいベッドが一つだけあるお屋敷の端にある部屋は、誰も使っていない。
使用人たちは一階を使用していて、お父様やお母様、妹は二階に。私の部屋もある。
私は、部屋から出ることをほとんどの場合許可されていないので、お屋敷のことはあまりよく知らないのだけれど。
でも、三階の奥にあるお部屋はがらんとしていて、物の入っていない物置のように見えた。
「紋章……」
お父様は私の腕を乱暴に掴むと、ベッドの上に置いてある縄を手にした。
口に布をかまされて、両手や両足を、縄で縛られる。
わけがわからなくて混乱して、抵抗しようとした私の頬を、お父様は叩いた。
初めての痛みに怖くて、ただ、怖くて、私は目を見開いて、涙を流していた。
これは、夢。
ひどい、悪夢。
どうして、こんなことをするの。どうして。どうして。
服を脱がされて、ベッドに投げ捨てられる。うつ伏せに寝かされた私を、お父様の手が押さえつける。
背中に、焼鏝でも押しつけられたような焼け付くような熱さを感じた。
悲鳴のかわりにくぐもった声が、喉の奥から漏れる。
(怖い、怖い、痛い、痛い、いや、いや……!)
どうして。なぜ、どうして。
私は──呪われているから。だから──。
「アミティ……!」
「……っ」
私の名前を呼ぶ力強い声がする。
目を見開いた私の前には、片目の死神が立っている。雄々しく神々しく、美しい方だ。
その方は私の手を引いて、恐ろしい部屋から、助け出してくださる。
「シュラウド様……っ」
怖かった。苦しくて、怖くて、けれど、ただ耐えるしかなくて。
いっそ壊れてしまえたら、どんなに楽だろうと思えた。
壊れてしまいたい。何も感じなくなれば良い。痛みも、苦しみも、悲しみも全部。
私は──どうして、生きているのだろう。
「アミティ、もう大丈夫だ。俺が、いる。君のそばに、いる。俺が君に、愛を捧げる。だから、もう……一人きりで苦しむ必要はない」
自信に満ち溢れた笑顔を浮かべて、シュラウド様は私を力強く抱きしめておっしゃった。
夢の中にでも助けに来てくれるというシュラウド様の言葉を、夢の中の私は思い出す。
私はシュラウド様の体に抱きついて、くすくす笑った。
本当に、来てくれた。
私は、あなたが──。
「……アミティ、アミティ……!」
私を呼ぶ声がする。
優しく揺り起こされて、私はゆっくりと目を開いた。
暗かった部屋には、明るい日差しが差し込んでいる。背中がとてもやわらかくて、ふわふわしている。
いつもぎしぎしと軋んでいた体が、今日は、まるで雲の上にいるみたいに、心地良い。
「シュラウド様……」
いつの間にか、柔らかいベッドの上で寝ていた。暖炉のある部屋とは、違う部屋だ。
私を覗き込んでいる心配そうな瞳と目が合う。
柘榴石のような綺麗な赤い瞳に、長い前髪がかかっている。片目には眼帯が嵌められていて、よく見ると、眼帯から覗く皮膚は大きくひきつれている。
──とても、綺麗。
「大丈夫か、アミティ。うなされていた。それに、泣いていた。……あまりにも苦しそうだったから、起こしてしまった。本当は、寝かせてやりたかったのだが、すまない」
「……大丈夫です。おはようございます、シュラウド様」
しっとりと、髪が濡れている。
目尻からこぼれた涙が、髪に落ちたのだろう。
シュラウド様の無骨な手が、私の目尻を拭う。
私は思わずその手をとった。夢の中で私を助けてくれた手。
私をあの恐ろしい部屋から、救い出してくださった、大きな手だ。
「怖い夢を見たのか、アミティ。……俺は、君を救えなかったか」
「いえ、そんなことはなくて……シュラウド様は、来てくださいました。約束通りに、私を、……恐ろしい場所から、助けてくださいました」
「そうか! それはよかった! 流石は俺だな、夢の中でも君を愛していただろう?」
「はい。シュラウド様は、私を抱きしめてくださって……」
「夢の中でか。俺が君を抱きしめたのか? それはずるいな。とてもずるい。現実の俺にも君を抱きしめさせてくれ」
シュラウド様は私の体を、ぎゅっと抱きしめてくださる。
そのまま私の体を、逞しい体の上に乗せた。
シュラウド様の上に寝そべるような形になった私は、胸やお腹がピッタリとくっついていることに気づいて、少し慌てる。
重くは、ないのかしら。
私よりもシュラウド様はずっと大きいけれど、私は幼い子供じゃない。
全部の体重をシュラウド様に預けてしまっているのが、恥ずかしい。
恥ずかしい、なんて。
私が、思って良いのかわからないけれど。でも、恥ずかしくて、それから──愛しい。
「夢の中の俺は、君を抱きしめただけか? 口づけはしなかっただろうか。もししていたとしたら、嫉妬をしてしまいそうだな。いくら夢の中の俺とはいえ、君に無断で触れることは許せないのだが」
「……抱きしめてくださって、そうして、私に大丈夫だって、おっしゃってくださいました。そうしたら、シュラウド様に呼ばれて、私は目覚めたのです」
「そうか、危ないところだった。アミティ、君を起こしたのは賢明な判断だった。もう少しで、夢の中の俺が君に不埒なことをするところだった。それは駄目だ。君は俺のものだからな」
「夢の中のシュラウド様も、シュラウド様なのに?」
「もし君の夢の中の俺が、現実の俺よりも男らしく、俺よりも背が高く、俺よりも足が長かったら、アミティは夢の中の俺に夢中になってしまうかもしれないだろう」
「……ふふ」
私はシュラウド様の胸の上で、くすくす笑った。
笑うと、体が揺れる。
そのせいで胸の上から落ちそうになる私を、シュラウド様の腕が閉じ込めるようにして抱きしめた。
(あぁ、なんて……優しい方なのかしら……)
私のために、私を、笑わせるために、子供みたいなことをおっしゃってくださる。
じんわりと、胸に喜びが滲みていく。
「シュラウド様……ずっと、怖くて。ずっと、誰にも、言えなくて。……いつも、夢に見るのです。……お父様に、背中を」
「アミティ。言わなくても良い。君は俺の腕の中にいる。ここには君を苦しめるものは、何もない」
「……わ、私……シュラウド様に、伝えていなかったことが、あって」
「……辛いことは、話す必要はない」
「大丈夫です。思い出したんです。思い出した……いえ、違います、ずっと、覚えていて……でも、理解できなかったから」
私はシュラウド様に甘えるようにして、その胸に頬を押しつけた。
「背中に、紋章というものが、あって……それを、お父様は……」
「紋章……紋章か、なるほど、そうか……よく伝えてくれた。もう思い出さなくて良い。アミティ、教えてくれてありがとう。君は優しく清らかなだけではなく、勇気もあるのだな。……怖かっただろう」
「……っ、はい、怖くて、私、ずっと、苦しくて……っ、一人は、寂しくて……」
口にすると、止まらなかった。
ぼろぼろと涙が溢れて、私は子供みたいに嗚咽を漏らした。
シュラウド様はずっと私を抱きしめてくださっていた。
温かくて、力強くて、私は──もう大丈夫だと、思うことができた。
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