5 これが、女子サッカー
慌しく東京ヤングシスターズの加入セレクションにエントリーした虹子。セレクション当日まで2週間足らずという短さに焦りを感じていた。
ある日の夜、飛鳥山で古賀凌駕と待ち合わせして、凌駕が持ってきたボールを軽くリフティングしてみる・・・全く足に付かない。特に小学生の頃は左利きと間違われるほど、右足と同等に操れた左足は絶望的だった。
凌駕「虹ねえ、ヘッタだなあ〜」
虹子「うるさいな〜もう!」
凌駕「まあ、焦ることはないよ」
虹子「焦らせてるのはどこのどいつだ」
凌駕「俺、ドイツ人じゃないけど」
虹子「そのドイツじゃないの!」
ちょっと虹子を小馬鹿にしながらも、所属クラブでの練習後に飛鳥山まで来て、トレーニングに付き合ってくれる。凌駕には感謝しかなかった。
そして凌駕が残していったボールを夜中近くまで、暗がりの中で繰り返しタッチして、何とか感覚を取り戻そうとする。
ほんのちょっと戻って来た気はするが、あの日の感覚を取り戻すには途方も無い時間を必要とする気がした。これ、セレクションに間に合うだろうか・・・
「間に合うかじゃない。間に合わせるんだ!」
翌日、学校から帰って赤いジャージに着替えると、公園で1時間のランニング。それから夕食までボールを触った。食後には自宅前の電灯下でボールタッチとリフティングを繰り返す。
会社帰りの男性が物珍しそうな目で見て来ても気にしない。夜間の巡回でお巡りさんに不審がられても「どうも〜」と笑顔でやり過ごして、再びボールをタッチした。
2日目、3日目、4日目。徐々に感覚が戻る中で、ボールタッチをしながら上半身のバランスも意識できるようになってきた。
凌駕も1週間で3日間も練習に付き合ってくれた。対人を意識したボールコントロールもサマになってきている。
「虹ねえ、上手くなってきたじゃん」
凌駕の励ましもあり、何とか軌道に乗って来た気がしていた。入浴してから寝るまでサッカーの動画をチェックする。
世界的なスターのスーパープレー集にはじまり、川崎フロンティアのパス回しを集めた動画など。最初は男子ばかりだったが、3日目にはフラワージャパンの試合、そしてヤングシスターズのトップチームである東京シスターズの映像もチェックしてみる。ボールサイドに人数をかけて、短いパスをかなり駆使する印象だ。
西が丘で東京シスターズの試合が無いかとWOリーグの日程もチェックしたが、2週間前にシーズンは閉幕していた。過去の記事をチェックすると、確かに残り5位試合とで監督が交代しており、その後は4勝1敗と盛り返したものの4位で終わっていた。
そしてMOOGLEで検索するうちに、橙山華が出場していたU-17女子ワールドカップのハイライト動画を見つけた。
「すっごい・・・」
画面の向こう側にいる華のプレーに虹子は魅了された。名前の通りフィールドに華が咲いているようだ。長い髪をまるでフィギュア選手のように結い上げた華が、大きな外国人選手を翻弄していた。
華のプレーは際立っていたが、虹子の目に入ってきたのは彼女だけではない。確かに男子サッカーに比べたら、スピードや力強さはかなり落ちる。しかし、ボールを扱う技術や繰り出されるプレーのアイデアは男子のそれと遜色ないどころか、むしろ輝いて見えた。
2−1でフランスに負けていたフラワージャパンは後半アディショナルタイム、10番を付けた華が大柄な8番の選手とワンツーで中盤の外目を抜け出し、右足で絶妙な浮き球のラストパスをFWの9番に送る。ワンバウンドしたボールを完璧なボレーで捉えたシュートが相手の長身キーパーに間一髪で弾かれた。
その直後にタイムアップのシーンに切り替わり、歓喜の輪を作るフランスの周囲で日本の選手が倒れ込んだ。ハイライト動画なのに、虹子はそれまで観たどの試合よりも引き込まれていた。その中心にいたのは、かつての相棒だ。
「これが、女子サッカー」
帰宅部の虹子にサッカー漬けの生活が戻って2週間。セレクションまで残り2日に迫ったところで、凌駕が虹子の家にやってきた。何だかんだ、お世話になりっぱなしなので、せめて晩ご飯でも御馳走しようと思い立ったのだ。
ヤングボーイズの練習後、いつもはクラブハウスで食事をして帰宅するという凌駕だが、この日はおにぎりを1つ摂っただけで、お腹をすかせてやって来た。母親の陽子は王子の郵便局で働いているので、すでに帰宅して料理を手伝ってくれた。
凌駕「この生姜焼き、うまいよ。虹ねえが料理できるなんて」
虹子「えっへん。伊達に1年近く帰宅部してないわよ」
凌駕「それ自慢するところ?この肉ジャガはもっとうまい」
陽子「まあっ♡」
虹子「それはお母さん!」
凌駕「おっと、どうりで美味しい・・・」
虹子「ふんっ」
右手でパンチする真似をした虹子に対して、凌駕は左手で避けるふりをした。陽子は小さい頃の凌駕をよく知っていたが、久しぶりの再会を喜ぶとともに、凌駕の成長ぶりに驚いていた。
陽子「凌駕くん、すっかりイケメンになっちゃって。モテるでしょう」
凌駕「はい、虹ねえ以外には」
陽子「いやねえ。虹子なんて凌駕くんには勿体ないわよ」
虹子「一人娘の母親が言うことか!」
食事も終わり、コーヒーを飲んだ頃に凌駕が「じゃあ、虹ねえの部屋に行っていい?」と言い出したので「何言ってんの、ダメに決まってるでしょ」と虹子は慌てて拒否した。
陽子「お部屋に行ってきたらいいのに。二人きりの話もあるでしょ」
虹子「どういう母親だよ」
凌駕「安心してよ。虹ねえ襲おうなんて、これっぽっちも思ってないから」
虹子「ば〜か、そう言う話じゃないの!」
そういう話も何も、単に女っ気のかけらもない部屋を見せたくなかっただけだが、凌駕が少し寂しそうな顔をしたので、ちょっと申し訳なく思いながら虹子は「それよりリョウちゃん、東京ヤングシスターズについて、少し聞かせて欲しいんだけど」と切り出した。
凌駕「俺も隣のグラウンドから練習をちょっと眺めるぐらいで、そこまで知ってるわけじゃないけど」
虹子「そっか・・・」
凌駕「ただ、トップチームの女性監督が、元日本代表のボランチで」
虹子「やなぎさわ?」
凌駕「う〜ん、惜しい!」
陽子「八木沢純ね」
凌駕「そうです。さすが陽子さん」
陽子の表情がパッと明るくなる。こういう時に「おばさん」ではなく名前で呼ぶのは、凌駕の妙に気が回る小僧っぽいところだ。それにしても、こんなに目を輝かしている陽子を虹子はほとんど知らなかった。