2 サッカーの記憶
橙山華はジュニア時代の元チームメイトだ。
小学校の卒業とともに、父親の転勤で静岡に引っ越してしまった。それから虹子は一度も会ってもいなければ、連絡も取っていない。世間で言う疎遠というやつだ。
虹子は物心ついた時にはボールを蹴り、小学1年生から地元のスクールでサッカーを始めた。男子にほとんど負けないどころか、むしろ圧倒していた。
3年生から入った北区の城北ウイングで、”リトル虹子”がチームのエースとして認められるのに時間はかからなかった。
華はそんな虹子の大事な相棒だった。明るく温厚な華は粗暴な虹子と違って、男女の誰とでも打ち解ける。いわば巷のアイドル的な存在だった。
ぶっきらぼうな虹子が、女子からもハブられることなく学校生活を送れたのは、華がことあるごとに虹子を招き入れてくれたおかげだ。
女子もガキ大将の虹子といれば、男子に変なちょっかい出されたり、スカートをめくられたりなんてこともない。華は虹子のおかげでクラスは平和だと言って、虹子を立ててくれた。
今振り返れば、華が虹子の前からいなくなったことで、虹子の中にあったバランスが崩れてしまったのかもしれない。
虹子は小学校を卒業すると、幾多の女子チームからの誘いに目もくれず、そのまま城北ウイングのジュニアユースに進んだ。小学生の頃から練習に参加することがあり、チームも快く受け入れてくれた。
ジュニアの監督には「早いうちに女子チームに進んだ方がいいよ。虹子なら、どこでもエースになれるから」と勧められたが、虹子は聞く耳を持たなかった。
男子に混じってサッカーを続けることになった虹子。1年生が主体のCチームでは中盤のレギュラーだった。ただ一人、女子トイレで着替えないといけなど不便はあったが、ジュニアからの仲間も多く、オンオフで仲が良かった。
しかし、虹子の中で違和感は日に日に強まって行く。ジュニア時代には圧倒していた、同年代の男子に勝てなくなってきたのだ。1対1で抜けなくなり、守る側になれば簡単にボールを奪えない。
シュート練習になれば、チームの誰よりもゴールを決めていたが、それもゲームの中で、だんだん発揮できなくなっていた。
2年生になると、虹子はBチームに繰り上がったが、試合ではサブに回ることが増えた。男子の身体的な成長は早く、その差を技術で補うのも難しくなったのだ。
ボールを扱う技術は男子のチームメイトの誰よりも上手く、終盤のジョーカーとして、それなりの存在感は示せていたつもりだ。それでも虹子の中で揺るぎない自信は崩れ、不安ばかりが心の中を支配するようになっていた。
その間にも、女子の強豪チームから何度か誘いはあった。中学2年のある日、WOリーグに所属する首都圏クラブのジュニアユースから、練習参加してみないかという連絡をもらったが、虹子は城北ウイングの監督からの説得も聞かず、つれなく断ってしまった。
地域トレセンのメンバーにも何度かリストアップされたが「女子なら行かない」と拒み、一度も参加しないまま、いつからか誘いの連絡が来なくなった。
中学の最初の頃には見下す対象でしかなかった女子サッカー。この頃の虹子からはそうした自信も失われてきていたが、周りの意見に頷いて転向することは、虹子の中で敗北を意味していたのだ。
男子選手たちと張り合いながら頑張っていた虹子に、Aチームで試合に出るチャンスは回ってきた。中盤の主力メンバーにけが人が出たのだ。
結果的にそのチャンスが虹子に厳しい現実を突き付けることとなった。同点で迎えた後半途中、中盤で投入された虹子はうやく訪れたチャンスを逃すまいと、ボールを持つなり単独でドリブルを仕掛けた。
突破できるという確信とは裏腹に、大柄の相手からボールを奪われて、カウンターから痛恨の失点を喫した。チームは試合に敗れ、その大会から早期敗退すると、それまで虹子のことを受け入れてくれていた男子選手からも非難を浴び、居場所は無くなっていった。
「もう辞めてやる。サッカーなんて・・・」
城北ウイングに退会届を出したのは、その試合から1ヶ月後、中学2年の秋だった。残りの1年間、虹子はサッカーの記憶を無理やり打ち消すように、受験勉強に明け暮れた。
毎日サッカー漬けだった頃には考えもしなかった、都内有数の進学校を第一目標にして、何とか合格を勝ち取った。その時は母親の陽子も喜んでくれたが、今更ながらに振り返ると、どことなく寂しげだったことを虹子は思い出した。
「うううううう〜」
橙山華の記事を目にしてから1日経っても、ムズムズというか、ソワソワが虹子の体を支配している。そして嫌でも城北ウイングのジュニアで、一緒にボールを蹴っていた日々の記憶がフラッシュバックしてきた。
「ボール、蹴りたい」
そんな衝動にかられて、虹子は部屋の中を探そうとして思い出した。家族のように大事にしていたボールは城北ウイングを辞めて、すぐ捨ててしまったのだ。虹色のヘアバンドと一緒に。
「とりあえず走るか」
虹子はハンガーラックにかけられた七色のジャージから青を選んで着替えると、家のすぐ近くにある飛鳥山公園をランニングしてみた。
春には桜の名所として有名な飛鳥山も、5月の末にはすっかり装いを変えて、緑色に染まる。そんな木々の合間をすり抜けるように走るのは心地良い・・・とは行かなかった。
「うう、きっつ。絶望的なほど体力が落ちてる・・・これはやばい」
そう独り言を発して、一度冷静になってみると、何がやばいのかよく分からない。やばいと言えば確かにお腹の肉が若干やばいが、体力が落ちているから何だと言うのか。別にチームに入る訳でもなければ、試合に出るわけでも・・・
そう開き直ろうとした虹子の中で、再びあの言葉がフラッシュバックしてきた。
「ライバル」
そうだ。ボールを蹴りたいと思ったのは、単にボール遊びをしたかったからではない。サッカーがやりたくなったのだ。仲間と練習して、試合をして、ああだこうだ言い合う。ずっと思い出したくなかったこと。だけど・・・
「うちの学校、女子サッカー部なんて無いしなあ」
男子チームはあるが、都大会で1回戦負けのチームであることは虹子も知っている。ボールを蹴るだけなら、練習に混ぜてもらうことはできるかもしれない。だけど、きっとそう言うことじゃない。
このムズムズ感の理由・・・それは華。彼女の言葉に突き動かされたからだ。
「女子サッカーか・・・」
以前は考えすらしなかった世界だ。ランニング後のジョグをしながら「何を今さら」と呟いてしまった虹子はハッと周りを見渡したが、幸いにも周りに人は誰もいなかった。
少し冷静になった虹子の頭の中にあいつ・・・一人の男子の顔が浮かんでくる。何気なくスマホのUNITYを開くと、その”あいつ”からメッセージが来ていた。
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