軸がぶれている少女の話
なんとも、落ち着かない。
赤く揺れ光る星空。
不安定で、歪んだ風景。
視界も足元も、何もかもが微かに揺れ続けるような、中途半端な感覚だ。
ぼんやりとした意識の中で、俺がはっきり自覚できることといえば、それらからじわじわと刻まれていく確かな不快感だけだった。時間がゆっくり過ぎていくようで、はっきりしないというか、曖昧というか、なんだかイライラする。
ぞるり
背後から不気味な気配を感じ、慌てて振り向く。遠くの方に、芋虫みたいに這いずっていく何かを捉える。そいつは、まるで誰かに見られることを嫌がるかのように俺の視界から姿を消した。
「な、なんだよ今の……」
不安から、言葉が口に出る。今のはいったいなんだ。どことなく人間のようにも見えた。いや、人にしては速すぎるし、そもそも人間はあんな動きをしない。
俺は脳が痺れる感覚に陥り、顔を顰める。その目の前を一瞬、スケート靴を履いた少女が、非常口の誘導灯に描かれたピクトグラムのようなポーズを取りながら滑り去っていく。
「なっ!?」
歪な空間で出会った自分以外の人間、それも奇妙な姿勢でスケートをする少女に驚いた俺は、反射的に彼女が滑った方へ顔を向ける。しかしそこに彼女はいなかった。
「気味悪ぃことばっかりだな、寒気がしてくる」
この場に残されたのは、ほんのりと漂う女の子らしい甘い香りと、早急な展開についていけない憐れな男の嘆きであった。
「……」
目の前に、先刻滑り去った少女がいる。
……え?
「おっ、おまっ、おまえさっきのスケート女ッ!?」
いつ。どこから。髪と同じ黒いネルシャツに身を染めた彼女はゆっくりとその口を開き、そして全ての疑問を置き去りにした。
「あら、随分な御挨拶ね?さっきは見事に無視してくれちゃって。この私に挨拶もないなんて、そんな風に教育した覚えはないわよ」
無視もなにも、話す暇もなくお前が消えたんじゃないか。しかも今日ここで初めて話したこの少女は、明らかに俺より年下であろうにも関わらず、すれ違いざまに挨拶をしろと俺を教育するような関係だったらしい。残念ながら俺にはその記憶が全くないが。
いや……そういえば、目の前にいる少女の顔は、テレビで見たような気がしなくもない。アイドルか何かだろうか。だとすれば、ますますおかしい。社交性皆無のオタクである俺が、アイドルなんかと知り合う機会があるはずがないのだ。
俺と少女はどういう関係なのだろう。疑問に思うところは多々あるが、今はそれより優先して聞くことがある。
「なぁ、ここから出る方法、心当たりないか?」
血流が止まりそうなこの不快感を早く取り除きたいのだ。
少女は少し首を傾け、
「出る?この世界から? ふふふ、面白いことを考えるのね。そんなにここが気に入らないのかしら?」
「そりゃそうだ。足元もなんかぐにぐにだし……」
少し柔らかい粘土のような、赤い地面を踏みつけた。そして口から出た言葉を終わらせる間もなく、彼女の姿が歪んだ。
「そうだよね!気持ち悪いよね〜」
「はぁっ!?」
「ん?」
ついさっきまで黒いネルシャツだった彼女が、今はピンクのキャミソールの上に白いジャンパーを身につけている。
「おまえ、いつの間に着替えたんだ?」
「え? あちゃ〜、私またぶれちゃってた?うーん、やっぱり意識してなきゃダメなのかな?」
「なんだ、どういうことだ?」
すると少女は、少し困ったように笑い、
「トップアイドルってさ、色んな格好して、色んなキャラクターを演じ分けられなきゃだめだと思うんだよね。だから私もすぐにどんな状況にもなれるようにって心がけてたんだけど……やりすぎちゃったみたいで、いつも“ぶれぶれ”の状態になっちゃったの」
「ぶれぶれ?」
「そ、ぶれぶれ。油断してると……」
途端、少女の姿が揺れ動く。彼女の隣に、姿形の微妙に異なったもう1人の少女が現れる。それが繰り返され、幾重にも現れた少女達が振動しながらズレていく。やがて彼女らは重なり合い一つになり、それもまたぶれていく。
生まれては消えていく彼女を見ていると、やがてその姿が元に戻った。
「こうやって、すぐに別の私になっちゃうみたい」
奇妙な光景だった。自分の姿がぶれてしまうなんて、どう考えても異常だ。増殖した彼女の中に、芋虫のような少女もいた気がする……。
「知り合いが見ててくれると落ち着いてられるんだけど、居なくなっちゃったらもうどうにもできなくて……君が来てくれたおかげで、これでもましになった方なんだよ」
「努力するのは悪いことじゃないが……随分と薄気味悪い話だな」
「でもね、それがこの世界の本当の姿なんだって」
「は……?」
世界の本当の姿?何を言っているのかわからない。
彼女は真剣な顔を向けて、
「この世界には“可能性”しかなくて、それがいくつも重なり合ってる曖昧な状態なんだって。でも君や私が見てると、なぜか一つに決まっちゃう」
「どういうことだよ? 見てるか見てないかで変わるもんなのか?」
「何故かはわからないんだけど……見られるまでは可能性のままなの」
「……まあなんでもいいや。こんなトコ、すぐ出て行くから」
なんだかよくわからない。こういうのは畑違いだ。そもそも俺は世界の姿なんてどうでもいいし、早くこの不快感から逃げ出したいだけだ。
「えー、もういっちゃうの?」
「そうだ、おまえの“知り合い”もそうだったんだろ? 今どこにいるかわかるか?」
すると少女は指を指して、
「えっと……あのドアの向こう」
指された先には、ドラ〇もんに登場しそうなドアが見える。
「お、すぐそこじゃん」
彼女の方へ再び目を向ける。振り返る一瞬、少女の姿がおかしかったのは、気のせいではないのだろう。
「それで、ドアの鍵がこれね」
いつ取り出したのか、彼女の手には小さな金色の鍵が握られていた。古びていて、どことなく心許なさげだ。
「ふむ、鍵がいるのか」
「でもタダであげるのもつまんないから……」
少女は勢いよく、空へ向かって鍵を放り投げる。鍵は綺麗な線上を往復し、そのまま彼女の手元へと吸い込まれていった。
「はい、今どっちの手に有るか見ないで当てることが出来たら渡してあげる」
「なんだそれ?めんどくせぇな」
「いいじゃん、ゲームだよゲーム!」
ため息をつく。俺はさっさとこの奇妙な空間から元の世界へ戻りたい。しかしこの少女のゲームに乗らなければ、俺は帰してもらえそうにもない。
「じゃあ……左手」
「うーんと、そしたら……どうやって確かめる?」
「いやどうやってって、手を広げれば済む話だろ」
「それだと君が見ちゃうからだめだよ。結果が変わっちゃうの」
「…………は?」
手を広げて中を見なければ、結果がわからないではないか。
「言ったでしょ、この鍵も可能性でしかないの。君から見られると、状態が変わっちゃうんだよ」
「デタラメ言わないでくれ!いいから手を広げてみろよ」
「はいはい、じゃあよく見ててね」
彼女の手がゆっくりと開いていく。その左手の指の隙間から、鍵の一部分が見えた。
やっぱり左手にあるじゃないか、渡したくなかったからデタラメ言ったんだろうと思った瞬間……鍵が消えた。
いや、一応あるにはあるのだが……。
彼女の左手から消えてしまった鍵はいつの間にか、彼女の右手に存在していた。
「ほら、今の見た?」
「あ、ああ……一瞬だったけど」
今のはなんだ、錯覚か。
「あれが君の見ていないときの状態なのかもしれない。だけど本当のところは誰にもわからない」
「……じゃあどう答えればよかったんだよ?」
「どっちに有ったのかは誰にもわかんないんだもん。[半分ずつの可能性で両手に有った]て言うしかないかな?」
「なんだよそりゃ、ただの屁理屈じゃねぇか!」
俺が頭を抱えこんでいると、今度は鍵ではなく、彼女自身が泡のように消えてしまった。焦って辺りを見回すと、彼女は例のどこ〇もドアの上に座っていた。
それも、一番最初に邂逅したスケート女が。
「ちょっ、おまえまた......!」
「御免なさいね。貴方に観測されない限り、私は“こう”なのよ」
「意味わかんねぇよ!もういい加減にしてくれ!」
「じゃあ貴方は観測していないときの私や鍵の状態をどうやって証明するの?」
「それは……えっと……」
少し考えてみることにした。
この世界には可能性しか存在しないという。
……考えている間にも少女の姿がぶれていく。
彼女は、俺が観測するたびにその姿と場所を変えた。……少女が消えた。
鍵は、手の中にあるとき半分の確率で両手に有った、らしい。……少女が歪んだ。
考えてみれば、俺が見ていないときにあの少女がどんな姿をしていようが、鍵がどんな状態であろうが、俺にとっては意味がない。……少女が増えた。
俺の世界は、俺が観測することでしか成り立たない。……少女が揺れた。
つまりそれは、俺が観測しない限り、世界の情報を決定する術がない、ということにはならないか。
「そんなっ!!俺が見ているか見てないかで世界がころころ変わるなんておかしいだろ!!!」
彼女が俺の目前に現れた。
「そうかしら?」
「だ、だって……どの方向を見てるかとか、目をつむったかどうかとかで変わってしまうってことだろ?」
「でもね、この世界に残るのは観測された結果だけなのよ。それ以前の状態を論じるのは無意味だわ。絶対的に存在するものなんて何一つありはしないもの」
「はあ……もうわかったよ……」
彼女の言うことはその通りなのかもしれない。
事実、目の前の少女は話し終えると同時に、再びその姿を変えたのだから。
「……でも、この鍵はもらうぞ」
「えっ!?なんで?いつの間にっ!」
「よくわかんねぇけど、気づいたら手の中にあった。そういう“可能性”があったってことなのかもな」
「ああ、そっかぁ〜しまったなぁ……」
「ははっ、これでこの世界からもおさらばってわけだな!」
ドアの前に立つ。
俺がこうしてドアと向き合っているときにも、背後にいる彼女はきっとその姿を変貌させ続けているのだろう。
まぁいい、このドアを開けてさっさと出ていけばそれで解決……。
「…………」
ただのデタラメだ。
それ以上考えてはいけない。
「……なぁ、一つ聞いてもいいか?」
「なにかしら?」
でも、切り捨ててしまうには
少し抵抗がある。
「もしかしてこのドアの向こうも“そう”なのか?」
「…………」
「俺が開けるまでは“可能性”でしかないってことなのか?」
「さぁ……開けて観測してみればわかるんじゃないかしら?」
「ふざけんじゃねえ!こんな変な世界、ここだけで充分だ!ちゃんとした外の世界はどこなんだ!!」
こんな世界がドアの先、何処までも永遠に続く。あまりにも恐ろしい話だ。
「ちゃんとしてる世界……そんなもの本当にあると思うの?」
「そりゃ……そ、そうだろ」
元いた世界だって、こんな歪な空間じゃなかった。人や物がぶれてしまうこともないはずだ。
「もしそれが本当にあるとするなら……君自身はどうなのかしらね」
「え……?」
「もし今、外の誰かから観測された結果、君の状態が決定されているのだとしたら?」
「何を……言ってるんだ?」
「可能性だけの存在なのは、君自身も含めて、ということよ」
俺はさらに考える。
この世界には、可能性しか存在しない。
だとするならば、この世界の中にいる俺自身はどうなのだろう?
少女も、鍵も、俺も、空に浮かぶ星も、それらすべてがただ一つの可能性……この世界全体が、無数に重なる世界そのものの可能性の中の一つでしかないのだとしたら。
今いる自分の世界と、こことは少し違う自分がいる世界が、可能性のまま同時に進行しているということにはならないか?
それは……そこの“貴方”も同じね。
もしかしたら隣の世界では、また別の私達や世界を観測している貴方が存在しているのかもね。
……まぁ、私達はどうやってもそれを認識できないのだけれど。
「そんなっ!幾つも幾つも世界が存在してたまるかよっ!」
「認識できないのだから確かめようがないし、その意味も無いわ」
「…………っ!」
気味の悪い話だ。今の俺と、少し違った俺の世界が無数に存在する。そしてそれを確かめることも、その意味もないなんて。
「あのドアを開けたとしても、それは無理なのか?」
「おそらく……無理ね」
「そうか、なら……それでいいさ。あのドアを開けて、俺は出て行く」
すると。少女は少し驚いたような顔をした。
「あの先がどんな世界なのか誰にもわかんないけど、いいの?」
「どんな場所だろうが俺が俺でいれば、それでいいんだよ。別の世界にどんな俺がいようが、それを誰かに見られていようが、ここにいる俺は別に揺らいでなんかいない。そのくらいは、ちゃんと確信してるからな」
「うん、そうだね。君は……やっぱり凄いな」
「何だよ急に、気持ちわりぃな。……とにかく、俺はもう行くぜ。会えてよかったよ、あんがとな」
うん、頑張ってね。
最後に、そう言われた気がした。
なんとも、落ち着かない。
不安定で、歪んだ風景に、ドアがひとつ、立っている。
まっすぐ、はっきり、立っている。
頼もしいような、恐ろしいような、やはり曖昧なドアだ。背後からは少女の僅かな息遣いを感じる気がする。
今は一体どんな姿をしているのか?
振り向いて確かめようとは思わない。
自分が求めてきた世界は、いつも前にだけ広がっていた。
行き当たりばったりは毎度のことだし、未来がわからないのだって当たり前だ。
開けるまで先がわからないドアなんて、これまでだって幾らでも開けてきた。
いつも通り、どうということはない。
ノブを握り、力を込める。
そして息を胸の奥まで一気に吸い込んで、そのまま、勢いよく、ドアを開けた───────