月の瞼、或いは血の小ソナタ
〜ガザの人々に捧ぐ〜
閉じられた瞼を思わせる物思わし気な三日月が空の中程に差し架かると、森は完全に静寂の衣を纏い、物憂気な沈黙のざわめきの底へと沈み込んで行った。見渡す限り動くもの何ひとつ無く、あらゆる形有るものが青褪めた影の作り出す淡い陰影によって彩られているのと対照的に、冴えざえとした白銀のカーテンに照らし出された雪原は輝くばかりの銀色に浮かび上がり、澄み切った大気の中に白い溜息を吐き出して、ものの形を優しくぼやけさせた。何百万年の太古と同じ位遙か遠くに並んでいる稜線の彼方には、かそけき層雲の切れ端が幾つか群れ集い、ひそひそ話でもするかの様に立ち止まって凝っとしていたが、それらは自分の運命のことで忙しく、あらゆるものが死に絶えた世界全体の静謐に対して何等の変化を齎すものではなかった。今や殺戮は終わり、雪上には筆舌に尽くせぬ凄惨な光景が広がっていたが、打ち棄てられた、曾ては生命と形とを一杯に湛えた器だったものの残骸が最早何を語る訳でもなく、何物の声も響くことの無い無人の風景が只、全てが朽ちて行くのを待とうとしていた。
眼下を見下ろしつつ、私は絶叫しようと、いや、自分が絶叫したいと思っているのだと思おうとしたが、その一方で、冷え切った月の光よりも更に冷厳な眼差しが、全てをこの儘受け容れ、認めようとしていた。私はせめて、ここに存在しているものの一切を、この世界を共にしているあらゆる存在者を、その細部に至るまで記憶に焼き付けようと試みたが、他方で、その程度の嗚咽や慨嘆などでは小揺るぎもしない超然とした認識が、ここで起きた、そして今現に起きつつある全てのことを、気の遠くなる程悠大な事象の地平の中へと編み替えようとしていた。出来事が、時空が、因果系列が、浸透と和解に失敗して鋭く軋みを上げている様に私には思われたが、それとても、私が私と云う一有限者であることから来る一時の感傷に過ぎないのかも知れず、その事実が私を苛立たせ、また悲しませたもしたが、孤独や絶望すら何の意味も持たないこの空漠の世界の直中に降り立って存在しようとしていた私には、唯空しく両手を宙に彷徨わせ、絶句することしか出来なかった。
黒々と聳え立つ、重い雪を載せて大きく枝々を撓ませた静まり返った木々の間から差し込む、氷の薄片の様な光の刃が、地上に散らばっているものどもを寸断しようとしていたが、曇り眼鏡の濾紙を通して見た街明かりの様な、微睡みの中に夢見られた幻の様な霞みがかった地表からの反射が、それを押し止めていた。寒気の様な何やら予感めいたものに駆られて、火星の方向へ向かって私の視線は動いて行ったが、その先の何処までも雪に閉ざされた荒野の果てで、巨大な虚無が立ち昇りつつあるのを、私の目は捉えた。見ると云うことが介入すると云うことであり、認識すると云うことがその世界と関係を切り結ぶと云うことであり、知ると云うことが新たなる世界の創造であるのだとするのならば、私のしてしまったことはこの世界に取り返しの付かない、不可逆の変更を加えてしまったのではないかと云う疑問が、私の凍り付いた憂愁の膜を通り抜けて浮かび上がって来た。それは根拠の無い猜疑などではなかった。月の瞼は閉じられた儘なのに、この夜は斯くも明るい仄光で満ち溢れているではないか? 曾て私だったものの残像が——亡霊が、照らし出されたその物問いた気な顔をこちらへ向けた。この怖れは、目撃者が支払わねばならない代償の、ほんの一部にしか過ぎない——そう思い乍らも、私は瞼を閉じることが出来なかった。