第182話 聖女は焦る
シャルが放心したような顔ではらはらと涙を流していたのには驚いた。
あれだけちーちゃんちーちゃん言って撫でてたので喜んでくれるだろうなというのは予想していたが、感情がついていかなくなるまでとは思わなかった。
話を聞いたのが後産が終わって傷が無いかのチェックを受けているところだったから、大股を開いたなかなかな体勢だったのだがシャルは全く目に入ってないようでそこもありがたかった。
そんなタイミングで呼ぶなよという話だが、無言で泣くって何かやばい事でも起きたんじゃないかと心配になって先生押し切って呼んだのだ。蓋を開けたらただ喜んでただけって話だったんだけど。あんな風に泣くなんて今まで見た事がなくて。しかも大丈夫かとかお疲れ様とかじゃなくて、ありがとう。お礼を言われるとは思わなかった。
でもまぁ嬉しかった。女は子供を産むのが当たり前だとされる風潮の中でありがとうが出るなんてシャルぐらいじゃないだろうか?とか内心誰にともなく自慢してしまうぐらいに嬉しかった。
そのシャルはというと、長居は無用ですと早々にリエトを奪われて追い出された。だが、何度もこちらを見ていたのでまたうろつくかもしれないなぁと思う。
しっかし、恐ろしいものである。
何が恐ろしいって、ついさっきまで地獄もかくやの痛みにのたうち回っていたのに、さっぱりすっぱりその痛みが思い出せないのだ。痛かったという事実は覚えているし、こういう感じの痛みというのも覚えているのだが、具体的な痛さとかがスコンと抜け落ちているのだ。
ちょうどリエトが出たところからその状態なので、これはもう生命体としての本能なのだろうと思う。再び妊娠する事を恐れないようにするための。なんか頭の中で麻薬かなんか出てるんじゃないかな。
「ネラー、今どのくらいかな?」
昼頃にこの部屋に入ってから随分と経ったようなそうでないような。
ここには窓が無いのでわからない。
「宵の口を過ぎたあたりです」
「初産婦としてはとても安産でスムーズでしたよ。四刻ほどでしょうか」
ネラーに続いて処置を終えて片づけをしていた先生がにこにこと教えてくれた。
八時間か……痛みはぽろっと忘れてしまったんだが、かなり苦しんだ記憶があるのであれで安産、スムーズ、と口が動いてしまった。
「さて、お食事を召し上がってください」
背中にクッションを入れられて身体を起こし、持ってこられた軽食をあーうまい、腹が圧迫されないってすごい楽と食べていると、隣のリエト用の部屋から乳母として来てくださっている、ネセリス様の従姉妹の娘さんであるフィリアさん(三児の母でティリアのお姉さん)がやってきて先生を呼んだ。
「妃殿下、少し離れますがこの後骨盤を縛っている布を外して確認しますからそのままでお願いします」
「はい」
何だろうと思いつつ食事を続けていると、先生はすぐに戻ってきた。後ろにはリエトを抱っこしたクリスさんとフィリアさんもいる。
「妃殿下、申し訳ないのですがもう一度お乳をやってみていただけないでしょうか?」
「え? あ、はい」
食事をどかしてもらって、合わせていただけの前を開けてリエトを受け取り、片手で身体を支えてもう片方で口をつんつんして開けさせた後に後頭部を手のひらで支え耳の裏あたりをしっかりつかんでかぽっと大きく咥えさせる。
妹のを見ていたから要領はわかるし、さっきもカンガルーケア(生まれたての子を素肌で胸に抱く)の時に少しだけやったから問題はない。
たぶんまだ出ないだろうなと思いながら、口を一生懸命動かそうとするリエトに笑みがこぼれる。本当は胸が張ってて、予想以上に強い吸引力にちょっと痛かったりするが……目を開けたら綺麗な青がありましてですね……なんかすごく、可愛いんですよ。飛び跳ねるようにして現れる野次馬もこの可愛さなら仕方がないと親馬鹿な事を考えていると先生が呟いた。
「……問題ございませんね」
先生はそう言ってフィリアさんを椅子に座らせて、今度は彼女に授乳を指示する。
何をやろうとしているのかハテナが浮かぶが、フィリアさんにリエトを渡した瞬間火が着いたように泣き出したのには驚いた。そのままあやして授乳しようとしても全く出来ない様子だった。
クリスさんが一度リエトを受け取ってゆっくりと膝を使って上下にあやすとゆっくりとだが泣き止み、またふわーと欠伸をしている。
その様子を見守っていた一同の視線は先生へと集まった。
先生はじっとリエトを見つめたまま、口を開かれた。
「御子様は妃殿下からしか授乳出来ないかもしれません。
極稀にある事なのですが、近しい者からしか飲まないというケースがあるのです」
通常ならばこの時期の赤子なら落ち着いていれば、普通に相手関係なく吸啜反射があり授乳可能なのだ。
偶然タイミングが悪くて泣き出したせいかと思い何度か試みたそうだが普段から私の世話をしてくれている侍女達が抱っこするのは問題なくて、今月に入ってからこちらに来てくださっているフィリアさんが抱こうとすると泣いてしまうのだと。
この月齢で人見知り?と前世でも聞いた事が無い現象に固まっていると、先生がこちらに視線を向けてきた。
「妃殿下、初乳の後の授乳も可能でしょうか?」
「え? あ、はい。もちろん必要であれば優先しますが……」
基本的に貴族は自分で子育てしない(但し経済状況による)のだが、もともと初乳だけは授乳したいと周りにお願いして許可を貰っていた。だが、そういう話であればもちろんやる。周りにとやかく言われても最優先だろう。
ただ心配なのは私がよく出るタイプだったらいいのだが、そうでなかったら……いやそうだとしても病気になった時とか授乳出来ない事態になった時の保険が何も無いという事だ。
「あの、近しい者というのは血族上の事でしょうか。それとも身近な人という事でしょうか」
「私の師と私の経験上の話で恐縮なのですが、血族という場合と、身ごもられていた時に近くにおられた方の二通りがございました」
という事は、当てはまるかもしれないのはドロシーさんって事か?
だけどドロシーさんもまだ産後三日。少しずつ出てきているようだけど余裕はないと思う。
何かないか……?落ち着いた時なら飲めると思うんだが……あ。
「搾乳していただいて、私がやってみるというのは?」
「さくにゅう?」
「手で絞って乳を出して、それを哺乳瓶で……」
言いながら気が付いた。
そうだ。この世界、哺乳瓶なんてない。
デリアさんに見せた品の中にも出してなかった。
物を出せる事を知られるのは…と迷ったのは一瞬。手のひらに哺乳瓶を出して、説明する。
「これに直接手で母乳を搾って入れてもらって、私が与えてみるというのは出来ますか?」
「これは……胸に似せているのですね?」
先生は驚いた顔をしたがすぐに頭を振って真剣な顔になって頷いた。
「フィリア様、協力いただけますか?」
「はい」
すぐにフィリアさんは了承してくれて、私は念のため一度哺乳瓶を水魔法で熱湯を作って殺菌消毒し冷やしてから蓋を開けて渡した。
フィリアさんは手を洗ってからそれを受け取り、慣れない手つきで絞ってくださった。さすがに良く出るという話だけあってすぐにいくらか溜まり、私に返された。
蓋を絞めてもう一度リエトを抱いて、同じように口をつんつんして開いたところにかぽっと入れる。
んくっと口を動かしてから束の間止まったが、ゆっくりと飲み始めた。めちゃくちゃゆっくりだったが、確かに飲んでいる。ほっとした。
部屋の中にいた侍女や先生も、そしてフィリアさんもほっとしたように息を吐いていた。
「……とりあえず、凌げそうですね」
先生の言葉に頷く。
時間をかけてわずかな量を飲んだリエトはそのまま眠ってしまったようで、口を動かさなくなった。
「ひとまずは妃殿下にも積極的に授乳していただいて、足りない分を補う形にいたしましょう」
「はい。フィリアさん、変な事になってしまって申し訳ありません」
フィリアさんに謝ると、飛び上がる様に立ち上がって首を振られた。
「いいえ、そんな! お力になれないかとこちらこそ申し訳ない思いでしたから!」
「いえいえ、もしこれが駄目だったとしても母親の先輩として相談には乗っていただきたかったので。それに多分、こうして飲んでいるという事はフィリアさんにこの子が慣れたら直接授乳していただく事も可能だと思いますから」
「妃殿下……」
乳母に子供ごと呼んどいて駄目だから帰すなんて人でなしな事はしないですよ。さすがに。実際、先輩ママさんがいてくれるのは嬉しいし。
「さ、それでは御子様はお預かりしますから妃殿下はお食事をされて少しでもお休みになってください」
ゲップをさせていたリエトをお願いして、私は再び食事に戻り食べ終えると軽く目を閉じた。
でもなんか産後ハイになっているのか寝れる気がしなかった。さっきの乳問題もあって焦ったから余計にだ。
ブクマ、評価ありがとうございます。




