五十嵐記念病院45
ユノと小さな家の話をしてから、幾日かが過ぎた。
キャラバンは乾いた平原を抜け、山間部の渓谷へ差しかかっていた。
山の夜は日が落ちると急激に冷え込み、吐いた息が薄く白んだ。
ウチらは荷車を連ね、切り立った崖と深い森に挟まれた道を進んでいた。
それが現れたのは、辺りが完全な闇に沈んだ頃やった。
地響き。
荷車の車輪が石を噛んで大きく跳ね、金属を引き裂くような唸り声が渓谷へ響き渡った。
荷台に吊るされたランタンが一つ、また一つと叩き落とされ、割れたガラスと油の臭いが悲鳴の中へ広がっていく。
「なんだ、あれは……!」
同じ隊で働いていた男が振り返った直後、闇の中から伸びた爪に喉を引き裂かれた。
肩へかけていた荷紐の金具が地面を打ち、甲高い音を立てる。
噴き上がった血がランタンの残り火を受け、赤い火花のように散った。
「ユノ!」
咄嗟にユノを引き寄せ、横倒しになった荷車の陰へ身を伏せる。
鉄臭さに、こぼれた油と獣の生臭い体臭が混じり、息を吸うたび喉の奥が焼けるようだった。
ランタンの火が一瞬だけ、襲撃者の姿を照らした。
熊に似た巨躯を持ちながら、四肢だけが異様に長い魔物。
背には鱗状の外殻が幾重にも連なり、降りかかる火の粉をぬめった光で弾いている。
長い腕が荷車を横薙ぎに払い、木材と人間をまとめて吹き飛ばした。
ここにいたら死ぬ。
考えるより先に、ユノの手を掴んで立ち上がった。
「逃げるで、ユノ! 走って!」
燃え始めた荷車の間を縫い、森へ続く暗い道へ駆ける。
血と肉の臭いが混じった地面は滑りやすく、何か柔らかいものを踏むたびに靴底が沈んだ。
後ろから聞こえる悲鳴にも、助けを求める声にも振り返らなかった。
ユノだけは絶対に守る。
それしか考えられへんかった。
何度も転びそうになりながら谷間を抜けたところで、突然、手を引いていたユノの身体が沈んだ。
「っ……!」
ユノが足を取られ、地面へ倒れ込む。
「ユノ!」
引き返すと、ユノは片足を抱えたまま歯を食いしばっていた。
足首はみるみる腫れ、地面へつこうとするだけで顔が痛みに歪んだ。
「痛っ……」
後方から咆哮が響いた。
闇の奥で木々が揺れ、重い足音が地面を軋ませながら近づいてくる。
「大丈夫や。ウチにつかまって」
ユノの腕を肩へ回し、腰へ手を添える。
痛みを堪えようとしているのか、細い身体は呼吸のたびに震えていた。
「灯し言!」
唱えた瞬間、ユノの身体を温かな何かが支えた。
強張っていた呼吸が僅かに整い、肩へかかっていた重さもふっと軽くなる。
ユノは歯を食いしばりながら腫れた足を前へ出し、ウチもその身体を抱えたまま歩き始めた。
一歩。
もう一歩。
エゴは確かに届いていた。
けれど、身体を支え、足へかかる負担を軽くすることはできても、傷ついた足首を元へ戻せるわけではない。
三歩目を踏み出した瞬間、ユノの足から再び力が抜けた。
「うっ……!」
膝から力が抜け、引っ張られるようにウチも地面へ倒れ込む。
掌を石へ擦り、焼けるような痛みが走った。
「まだや……もう一回、立つで」
すぐに身体を起こし、ユノの腰へ腕を回す。
灯し言は最後の一歩を押してくれる。
けれど、もう一歩を踏み出すための力そのものが、ウチらには残っていなかった。
抱き上げようとするたびに脚が震え、ユノの身体を持ち上げかけては、二人まとめて地面へ崩れ落ちた。
魔物の足音が近づいてくる。
一歩ごとに地面が震え、背中へ冷たい汗が流れた。
あっ、死ぬ。
このままやと二人とも死ぬ。
その考えが浮かんだ瞬間、頭の奥で柔らかな声がした。
「置いて行きなさい」
母が他人の前で使っていたものと同じ、優しく整った声。
違う。
そんなこと、できるわけないやろ。
「あなたまで死ぬ必要はありません」
ユノの脇へ腕を差し入れる。
けれど、震えた腕では力が入らない。
「あなたが置いていくんじゃありません。私に言われたから、置いていくんです」
やめて。
そんな言い方せんといて。
「大丈夫。罪はすべて、私が引き受けます」
「いっちゃん……」
ユノの掠れた声が聞こえた。
痛みに耐えながら、ウチへ手を伸ばしている。
「痛い……手、貸して……」
「当たり前や!」
すぐに手を掴んだ。
「一緒に逃げるで! 絶対、置いていかへん!」
口ではそう言ったのに、握った指は震えていた。
背後から魔物の唸り声が響き、耳の奥まで揺さぶられる。
腐った肉を含んだような鼻息が、もう遠くない場所から聞こえた。
「あなたが死んでも、この子は助かりません」
声はどこまでも優しかった。
責めるのではなく、泣いている子どもを諭すように語りかけてくる。
「さぁ、私の声に身を委ねて」
ユノの手が、ウチの指へ縋っている。
その温度が怖かった。
この手を握っている限り、ウチも一緒に死ぬ。
そう理解した瞬間、身体の中で何かが決壊した。
気づけば、ユノの手を握る力が緩んでいた。
「いっちゃん……?」
ユノの親指が外れる。
次に、人差し指。
中指。
一本ずつ、ユノの指がウチの手から滑り落ちていく。
最後の小指が離れた瞬間、ウチの足は森の奥へ向かっていた。
「いっちゃん!」
泥を蹴り、走り出す。
「待って! お願い、いっちゃん……!」
背後からユノの叫び声が追いかけてきた。
山肌へぶつかった声が何度も反響し、どこへ逃げても耳へ戻ってくる。
「一人にしないで……!」
一瞬だけ、足が止まりかけた。
それでも振り返らず、再び地面を蹴った。
「いっちゃ──」
ユノの声が途中で途切れた。
次いで、肉を噛み潰す湿った音と、硬いものが砕ける音が一度だけ重なった。
聞こえへん。
何も聞こえへん。
両手で耳を塞ぎ、腕を振ることもできないまま走り続けた。
しばらくして、背後から再び地面を踏み鳴らす音が聞こえてきた。
追ってくる。
どこへ向かっているのかも分からず、ただ死なないためだけに走った。
視界は涙で滲み、呼吸をするたび喉の奥が裂けそうに痛んだ。
やがて足が絡まり、身体が前へ投げ出された。
地面へ倒れ込んだまま、起き上がれない。
掌は小石で裂け、滲んだ血へ土が張りついている。
胸の奥が潰れたように痛み、息を吸おうとしても喉から掠れた音しか出てこない。
「っ……あ……」
嗚咽が漏れた。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになり、泥へ額を擦りつける。
ユノを見捨てた。
守ると言ったのに。
一緒に生きようと言ったあの子を、囮にして逃げた。
「ごめん……」
「ごめんなぁ、ユノ……」
地面を叩く。
何度叩いても、耳に残った音は消えなかった。
「ウチが殺した……」
母親になれたと思っていた。
帰る場所を与えられる人間になれたと思っていた。
けれど、死ぬのが怖くなった瞬間、ウチはユノの手を離した。
「ウチなんかが、お母さんになれるわけなかったんや……」
胸の中で、大切に抱えていたものが跡形もなく崩れていく。
後方の茂みが大きく揺れた。
魔物の荒い鼻息が近づき、鋭い爪が土を削る音がした。
逃げなきゃ。
分かっているのに、もう顔を上げることもできなかった。
「ウチなんて……あの日一緒に死ねばよかったんや……」
「あなたのせいではありません」
あの声が、再び頭の奥へ響いた。
違う。
ウチがユノを殺した。
「あなたは生きようとしただけなのですよ」
「……ウチに生きる資格なんか……ない……」
「その痛みも罪も、すべて私が引き受けましょう」
優しい声が、傷ついた場所を撫でるように広がっていく。
そんなこと、できるわけない。
ユノはもう戻ってこない。
ウチが殺した。
「では、そのウチはここで眠りなさい」
頭の奥へ、柔らかな手が触れた。
「もう、何も見なくていいのですよ」
魔物の足音が、すぐ背後で止まった。
熱い息が髪を揺らす。
それでも身体は動かなかった。
「よく頑張りましたね」
その声だけが、最後まで優しかった。
「有難迷惑」
魔物の足元で、土が深く沈んだ。
次の瞬間、長い四肢が見えない何かに掴まれ、左右へ大きく引き開かれる。背を覆っていた外殻が軋み、巨体が宙へ持ち上がった。
魔物が吠える。
巨体を地面へ叩きつけた。
一度。
背を覆う外殻が割れる。
続けて頭部を掴み、地面へ打ち下ろした。
二度目には頭蓋が潰れ、咆哮が湿った音へ変わった。
温かな飛沫が、頬と服へ降りかかる。
それでも、胸元で組んだ手をほどかなかった。
私の中で眠った子へ、静かに微笑みかける。
「よく眠りなさい」
頬へ伝った血を指先で拭い、髪を後ろへ撫で上げる。
魔物の身体から力が抜け、土の上へ崩れ落ちた。
ユノの声が途切れた方角へ顔を向ける。
もう助けることはできない。
けれど、同じことを二度と起こさせるつもりもなかった。
「すべての罪は、私が引き取りましょう」
祈るように両手を組んだまま、穏やかに微笑む。
「もう二度と、子を置いていかせはしません」
暗い森の奥へ、一歩を踏み出した。
「これからは私が、すべての子を守りましょう」




