五十嵐記念病院43
父は、ウチが物心つく前にいなくなった。
どこかで別の女性をつくり、家を出ていったらしい。
けれど、母は一度もそうは言わなかった。
「……ちゃんとしてなかったからや」
鏡の前に立ち、母は何度も髪を直しながら呟いていた。
指先で同じ場所を強く撫で続け、頭皮が赤くなっても止めようとしない。
皿を磨き直し、畳んだ洗濯物を広げてはやり直し、冷蔵庫の瓶もラベルが同じ方向を向くまで何度も並べ替える。
その執着は、当然のようにウチへも向けられた。
「伊豆子、笑って。そんな顔をしていたら、お母さんがちゃんとしていないみたいでしょう」
母はそとでよく笑っていた。
頬の筋肉だけを引き上げ、目元だけを置き去りにしたような笑顔で。
「こんなことで泣くの? 見苦しいわ」
「声が大きい。周りにどう思われるか考えなさい」
「忘れ物? そんなの、だらしない子がすることよ」
謝れば許されるわけではなかった。
それでも、ウチはいい子であろうとした。
でなければ、本当に母は壊れてしまうのだとわかっていたから。
教室では、周囲が笑ったのを確かめてから一拍遅れて笑い、場の空気から外れないようにした。
大人の前では声を少しだけ小さくし、どんな返事をすれば相手が満足するのかを考えてから口を開いた。
けれど、どれだけウチがいい子を演じても、どうしようもない夜があった。
ある夜、耳の奥を擦るような硬い音で目が覚めた。
目を開けても部屋は暗く、布団の中には湿った熱が籠もっていた。
背中へ張りついたシャツを気にしながら耳を澄ますと、台所の方から冷蔵庫の扉を開け閉めする音が聞こえてきた。
パタン。
ガコン。
パタン。
機械が壊れたように、ほとんど同じ間隔で繰り返される音。
寝室の引き戸をそっと開け、足音を立てないよう廊下へ出た。
裸足で触れた床板は冷たく冷えていた。
影からそっと覗くと、薄暗い台所の隅で母が冷蔵庫の前へしゃがみ込んでいた。
髪は乱れ、肩は小刻みに震えている。
母は冷蔵庫の中へ、手当たり次第に食べ物を押し込んでいた。
「……詰めなきゃ……もっと、ちゃんと詰めなきゃ……」
息の混じった濁った声が、途切れることなく漏れていた。
食パンの袋を潰し、古い肉のパックを奥へ捻じ込み、開いた缶詰まで無理やり隙間へ差し込んでいく。
最後に牛乳パックを横向きに押し込むと、開いた口から白い液体がこぼれ、棚の縁を伝って床へ落ちた。
ぽた。
白い跡が、タイルの目地へゆっくり広がっていく。
絶対にあかん。
身体の奥ではそう分かっていたのに、口が勝手に開いた。
「……お母、さん?」
母の手が、ぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返った顔は笑っていたが、その目には何も映っていなかった。
「……なんで、お前はいるの」
空っぽの声だった。
次に放たれた言葉は、あまりにも真っ直ぐ胸へ刺さった。
「お前のせいでお父さんは出ていったんや」
何を言われたのか理解する前に、母の顔が大きく歪んだ。
「あんたが、あんたが足りんかったんや……!」
肩を掴まれ、身体が前後へ激しく揺さぶられた。
首の付け根がぐらつき、視界が何度も傾く。
母の指は異様に冷たく、爪が皮膚へ食い込むほど強く握られていた。
「なんでウチばっかり! なんで普通の家にならんのよ! なんであんたは普通の子になれんのよ!」
ウチは反射的にしゃがみ込み、頭を下げた。
膝がタイルへぶつかった痛みも、まるで気にならなかった。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ウチが悪い……ウチが、ウチが……ごめんなさい……」
声が枯れても謝り続けた。
母の足元で膝を抱え、タイルの目地へ押しつけた指先が白くなるほど身体を縮めていた。
助けて。誰か助けて。
けれど、誰かが来ることは無かった。
翌朝、母は何事もなかったように微笑んでいた。
「今日は遠足でしょう? はい、お弁当。楽しんできてね」
髪は整えられ、口紅もきれいに引かれていた。
声の高さも笑い方も、昨夜とは別人のように揃っている。
冷蔵庫の中もきれいに片づけられ、床へ垂れていた牛乳の跡さえ残っていなかった。
昨夜のことには一言も触れない。
だから、ウチもほとんど反射のように口角を持ち上げた。
「……うん。ありがとう」
玄関を出た途端、目の奥が熱くなった。
遠足の昼、芝生へ座って弁当箱の蓋を開けると、中身は全て腐っていた。
中に詰められていたのは、昨夜、母が冷蔵庫の奥へ押し込んでいた古い食べ物。
ご飯は乾いて灰色がかり、ソーセージの表面には白い斑点が浮いていた。
変色した卵焼きからは甘酸っぱい汁が滲み、弁当箱の底へ溜まっている。
周りの誰も、何も言わなかった。
近くで上がっていた笑い声が遠のき、ウチの周りだけ空気が固くなっていく。
そっと蓋を閉じ、何もなかったように笑った。
空腹で腹が鳴りそうになるたび、唇の裏を噛んで堪えた。
誰にも何も言ってほしく無い。
何より、母のことだけは。
夕方になって家へ戻ると、玄関の鍵は開いていた。
スリッパはいつも通りきれいに揃えられていたが、リビングの扉だけが半開きになっている。
「……お母さん?」
扉を押し、リビングへ足を踏み入れると、天井の梁から母がぶら下がっていた。
開いた窓から冷たい風が入り、床から浮いた足先が僅かに揺れていた。
使われていたのは、洗濯物を干すためのロープだった。
結び目はきっちりと整えられ、余ったロープの端までまっすぐに切り揃えられていた。
傾いた顔の唇の端だけが上がり、目はどこにも焦点を結んでいない。
声は出なかった。
ただ、ぬるい水がいつまでも頬を伝い、水滴が弾ける音と共に、ウチの中で何かが初めて息をした。




