五十嵐記念病院40
迷わず横へ跳ぶ。
直後、僕が立っていた場所へ見えない力が叩きつけられ、廊下のタイルが放射状に砕けた。
「一激」
唱えた瞬間、思考と身体が一斉に加速する。
メスを右手に握ったまま、正面から間合いを詰めていく。
「……ッ!」
ビッグマザーが両手を組み直すと、足元の埃が再びこちらへ向かって走る。
身体を僅かに傾けて一撃を外し、肩と腰を連動させながら床すれすれまで姿勢を落とすと、そのまま速度を殺さずに前へ進んだ。
見えない力が次々と床を抉る。
攻撃そのものは見えなくても、痕跡までは消せない。
床の埃が割れ、紙片が滑り、細かな破片が着弾より先に跳ねる。
ビッグマザーの視線と祈りの向きを重ねれば、狙っている場所もある程度は読めた。
右。
次は正面。
軸足を切り替えて一撃を避け、さらに踏み込む。
三度目の攻撃が頬を掠めた。
熱い線が頬に走り、遅れて血が顎へ伝う。
それでも足は止めず、ビッグマザーの首元へメスを走らせた。
ビッグマザーは上体を引き、切っ先を避ける。
代わりに白衣の肩口が裂け、血に濡れた布が細く捲れ上がった。
追撃せずに一度間合いを取り、メスを構え直す。
「……あなたのエゴは不可視でも、実体はある」
呼吸を整えながら、淡々と続ける。
「攻撃は一度に一方向から一つだけ。射程距離も20mといったところでしょう」
ビッグマザーの口元から微笑みは消えない。
「神の見えざる手とは、よく言ったものですね。ですが、見えないだけなら対処はできます。タネが割れた奇跡ほど、価値のないものはありません」
「さすがですね」
ビッグマザーは静かに微笑んだ。
「数度見ただけで、そこまで看破するとは。少し、見くびっていたかもしれません」
焦りも怒りもない。
むしろ、僕の答えを楽しんでいるような声音だった。
汗で滑りかけたメスの柄を握り直す。
指先へ食い込む硬さと冷たさを確かめながら、切っ先をビッグマザーへ向けた。
「続けるなら、不本意ですが殺します。まさか、どこぞの神のように三日後に蘇るなんてことはありませんよね」
一度だけ息を吐く。
「引くなら今ですよ」
ビッグマザーが目を細め、血に濡れた伊豆子さんの顔で微笑んだ。
「ここがゴルゴダの丘となるのかどうか、あなた自身の手で確かめてみては?」
両手が再び胸元で組まれる。
もう迷わなかった。
床を蹴り、殺すために踏み込む。
埃の動きと視線から最初の攻撃を読み、着弾の直前に軸足を切り替えた。
見えない力が肩先を掠めて真横の壁を砕くが、飛び散る破片の中をそのまま前へ抜ける。
二撃目を身体の捻りだけで外し、さらに距離を詰める。
ビッグマザーの視線が僕の胸元へ向いた。
床の埃が正面をかき分けながら迫る。
次の攻撃が来る場所は分かった。
半歩だけ軌道を外し、見えない力を背後へ通過させた。
あと一歩。
右手のメスを返し、首元へ刃を走らせる。
頸動脈まで、僅か数センチ。
逃げ道はない。
切っ先が白い首筋へ届こうとした、その瞬間だった。
脇腹の骨が、横から内側へ押し込まれた。
「──ッ」
正面からの攻撃は、確かに背後へ抜けており、着弾もまだだ。
それなのに、別方向から叩きつけられた力が身体を横から捉え、そのまま吹き飛ばす。
背中が壁へ激突し、肺から息が強制的に押し出され、視界の端が白く弾ける。
床へ落ちた瞬間、左脇腹へ遅れて痛みが走り、息を吸おうとするたびに身体の奥が軋んだ。
握っていたメスが指から抜け落ち、床を回転しながら金属音を響かせる。
ビッグマザーは一歩も動かず、その場から僕を見下ろしていた。
「鋭い観察眼でしたが──もう一歩、踏み込んで考えなければいけませんでしたね」
血に汚れた白衣の裾が、ゆっくりと揺れる。
その声は冷たいながらも、間違えた子どもを諭す母親のように穏やかだった。
「手とは普通、2本あるものでしょう?」




