五十嵐記念病院40
「有難迷惑!」
正面から放たれる“圧”。
空気が押し潰される匂いがして、鼻の奥がつんとした。
それは音も色も持たないが、確かにこちらに向かってきていた。
依代は迷うことなく横へ跳ねる。
動きに無駄はなかった。まるで、目に見えていたかのように。
地面がえぐれる。
砕けたタイルの粉が舞う。
廊下のタイルが、依代のいた場所を中心に放射状に砕けた。
依代はそのまま反動を利用して体を起こすと、瞬時に逆の足で踏み込み、今度は前へ跳んだ。
跳躍と同時に──依代のエゴが展開される。
空間が微かに揺れる。
その揺らぎをまとったまま、依代はマザーへと直進した。
「……ッ!」
マザーが気配を捉え、祈りの姿勢をとる。
再び、不可視の衝撃波が放たれた。
床を撫でる風が先に来て、髪が遅れて揺れた。
だが依代は止まらない。
わずかに体を傾けてかわす。
肩を回し、軌道をずらし、床を滑るようにして進む。
次々と放たれる見えない打撃。
視覚では認識できないはずの攻撃を──依代はことごとく回避していく。
まるで、そこに“形”があるかのように。
まるで、攻撃の“構造”をすでに知っているかのように。
マザーの眉がわずかに動いた。
にわかに動揺が滲む。
それでも、攻撃の手は止まらない。
矢継ぎ早に放たれる不可視の衝撃。
そのひとつが依代の頬を掠め、裂傷を刻んだ。
熱い線が走り、遅れて血がぬるく垂れた。
同時に、依代の拳が一直線に突き出され──マザーのベールを掠める。
白布が、宙に舞った。
布に付いた湿り気が光って、落ち際に重さが見えた。
依代は間合いを取り、動きを止めたマザーに視線を向けた。
「……あなたのエゴは不可視だが、実体がないわけではありません。しかも効果範囲はかなり限定的だ」
依代の声は、呼吸も乱れず正確だった。
まるで授業でも始めるように。
「これまでの攻撃の様子から、おそらくその実体はバスケットボールほどの大きさの球状で、直線的な動きでしか動かせない。そして、打てるのは一度に1発だけ」
マザーの視線が微かに揺れる。
「奇跡の夜の演出の際、あなたが祈りの場に居ることにこだわったのは射程距離の問題ですね。打撃は自身を中心に20~30メートル程度しか飛ばせず、標的は目視で確認するしかない」
依代の口調には皮肉も嫌味もない。
ただ、淡々と事実を列挙していく。
「“神の見えざる手”……あれは経済学の言葉でしたが、あなたのエゴはまさにそれを体現している。でも、いくら強力なエゴであろうとタネが割れれば対策はできる。目視が必要な以上、あなたの目線がどこを見ているかさえ注意すればいいんですから」
マザーは依代の分析に対し、静かに微笑んだ。
その口元に、敗北の兆しは一切なかった。
「さすがですね。数回見ただけでそこまで看破するとは。少し、みくびっていたかもしれません」
穏やかな声音。
焦りも怒りもない。
むしろ、どこか愉悦すら滲ませる声だった。
依代はその不気味さに警戒を強めながら、指輪に手をかける。
指先が汗で滑り、金属の冷たさだけが残る。
指先の動きは正確だった。
一度も視線を逸らさず、銀色の刃を引き抜く。
指輪の内部から展開されたのは、滅菌された手術用のメス。
長さは短いが、切先はまるで“意志”を持ったかのように鋭く、光を呑んでいた。
依代はその切っ先を、ためらいなくマザーに向ける。
「ここからは殺し合いです。まさかどこぞの神のように三日後に復活するなんてことはないでしょう。……引くならここですよ」
マザーは目を細め、微かに笑った。
「ここがゴルゴダの丘となるのかどうか、あなた自身の手で確かめてみては?」
そう告げると同時にマザーは再び両手を胸前で交差し、祈りの姿勢を取った。
依代はもう迷わなかった。
殺意を持ってマザーへと再度踏み込む。
同時に衝撃が走る。
だが依代はその“風”を読んでいた。
マザーの目線、その角度、重心の傾き──すべてを予測し、直前に回避行動を取る。
見えざる衝撃波が床を裂く。
亀裂の中から埃が噴き、喉の奥が咳を欲しがった。
だが依代の身体はすでにそこにはいない。
軸足を一瞬で切り替え、背中を丸めるように低く飛ぶ。
肩を抜き、腰を回し、次の一撃を紙一重で回避する。
……本来ならば、ありえない動きだった。
攻撃が“読める”からといって、回避できる保証はない。
一撃でも当たれば骨が砕け、動きが止まるような質量を持っている。
──それでも依代の足は一切止まらない。
普通なら選ばない道。
普通なら“怖い”と感じるはずの選択。
だが依代には、その“恐怖”という概念が決定的に欠落していた。
「怖い」と思うよりも先に、「やるしかない」と判断し、「やる」と決めたなら、即座に行動する。
その連続。
それが彼の戦い方だった。
エゴの力は確かに思考を加速させていた。
選択肢を瞬時に洗い出し、危険と可能性を天秤にかけ、最短のルートを導き出す。
だが──その中から「実行に移す判断」は、依代自身のものだった。
普通の人間には、その選択肢は“そもそも実行不可能”なのに。
不可視の衝撃が再び走る。
依代は、まるで視えているかのようにわずかに身をひねって避けた。
その動作に一切の怯えがない。
まるでナイフが迫っていても、それが“何センチで紙一重になる”かを正確に測っている者のように──
否。
違う。
依代は、もう一歩踏み込んで“当たっても構わない”と本気で思っていた。
それが致命傷でないなら、それでいい。
それと引き換えに殺せる可能性が一パーセントでもあるなら、踏み込む価値はある。
だから迷わない。
だから止まらない。
常人では絶対に踏み込めない領域に、依代はあっさりと入っていく。
それは冷静さではない。
狂気だった。
マザーのエゴが再び迫る。
依代の目はむしろ静かだった。
人間には普通できない。
できるはずがない。
だが依代は、“当たっても死ななければいい”という計算式を当たり前のように採用していた。
その合理と狂気の境界を依代は歩いていた。
そしてついに依代の目が、マザーの首元──頸動脈を正確に捉える。
あと一歩。
その距離さえ詰めれば刃の軌道が首を裂く。
逃げ道はない。
マザーが放った次の衝撃波は、掠めることもなく依代の背後を通過していく。
依代の踏み込みが、刃の角度が、“殺す”という意思そのものに変わろうとした──その瞬間。
ゴッ。
何かがぶつかるような、鈍く重い音。
依代の身体が、空中でよじれ、廊下の中程まで吹き飛ばされた。
背中が壁に叩きつけられ、肺から強制的に息が抜ける。
視界の端が白く弾け、胃が持ち上がる感覚がした。
メスが床に転がり、回転しながら金属音を響かせる。
マザーは、その場に立ったまま、依代を見下ろしていた。
「鋭い観察眼でしたが──もう一歩、踏み込んで考えなければいけませんでしたね」
白い衣がふわりと揺れる。
その声は冷たいが、どこか母親が叱るような調子でもあった。
「私がエゴを“限定的に使っている”という可能性を」




