五十嵐記念病院38
──地獄が、あふれた。
鉄扉が倒れた直後、地下通路へ死が雪崩れ込む。
先頭のゾンビが跪いていた信者へ飛びかかる。
「ああぁあああ!!!」
逃げようと立ち上がった男性が背後から肩を掴まれ、そのまま床へ引き倒される。
歯が肉へ沈み、湿った音に続いて骨を噛む乾いた音が短く響いた。
「た、助けてぇぇええ!!」
逃げようとする別の信者が後ろから押し寄せ、倒れた人間を踏み越える。
狭い通路の中でゾンビと信者たちが入り乱れていた。
血が床の窪みを伝い、赤黒い筋を作る。
腐った息が首筋へ触れた。
身体を沈め、横から伸びてきた腕をかわす。
白く濁った目が僕を追い、開いた口から黒ずんだ唾液が垂れた。
メスを逆手に持ち替え、こめかみへ突き立てる。
骨を抜ける硬い感触。
刃を引き抜くと、ゾンビが膝から崩れ落ちた。
状況は──。
逃げ惑う信者。
倒れた人間。
襲いかかるゾンビ。
先ほどまでビッグマザーへ頭を垂れていた秩序が、僅かな時間で崩れ去っていた。
「静まりなさい、我が子たち……!」
ビッグマザーが腕を掲げる。
その声は混乱の中でも高く澄み、地下通路の隅々まで響き渡った。
「ビッグマザー……!」
「お助けください!」
助けを求める声が重なる。
掲げられた掌が僅かに震えた。
けれど、ビッグマザーは祈りの形を崩さない。
「──来たれ、有難迷惑。我が慈悲を見よ!」
音も光もないまま、信者へ覆い被さっていたゾンビの上半身が潰れた。
皮膚が裂け、砕けた骨が飛び散り、生温い飛沫が頬へ触れる。
次の一体が宙へ持ち上がり、身体が壁へ叩きつけられた。
圧倒的な力。
しかし、それでも群れは止まらない。
ゾンビと信者が重なりすぎている。
逃げる女性の背中へ、一体のゾンビがしがみつく。
ビッグマザーの指先がそちらへ向いた。
けれど、力は放たれない。
あの位置で叩き潰せば、信者まで巻き込む。
僅かに遅れたその間に、女性の肩へ歯が食い込んだ。
「いやぁああ!! マザー! お、お助けくださいぃぃいいぃ!!」
別の男性がゾンビと組み合ったまま倒れ込む。
そこにも攻撃は放てない。
見えない力が信者の身体まで掴みかけ、寸前で止まった。
「ビッグマザー!」
「痛いいぃいい!! 助けて……!」
祈りが救いを生むはずだった。
けれど現実には、神の目の前で信者たちが蝕まれていく。
周囲の信者にも、刻一刻と感染が進んでいる。
噛まれた男性の指が痙攣し、床を掻く爪が割れていく。
別の女性は傷口を押さえたまま壁へもたれ、瞳が白濁していく。
ビッグマザーの組んだ指が、強く軋んだ。
「……この程度」
声が僅かに掠れる。
「我らが信仰は、不滅なり……!」
祈りとも、呪詛ともつかない声。
その言葉を証明しようと、見えない力が一体のゾンビを捉える。
けれど、今度はその体を吹き飛ばすことができない。
身体が床を滑り、途中で止まった。
……出力が落ちている。
信者たちの悲鳴。
救いを求める声。
神であるはずの自分が、そのすべてを救えていないという現実。
それが、ビッグマザーの認知を内側から削っている。
「下がってください、マザー。ここは私が……!」
一ノ瀬さんが鉄パイプを両手で握り、ビッグマザーの前へ出た。
血に濡れた鉄パイプを横から迫ったゾンビのこめかみへ叩き込み骨を砕く。
返す動きでもう一体の顎を打ち上げ、倒れた頭部を踏み抜いた。
気づけば、一ノ瀬さんの足元にはゾンビの残骸が折り重なっている。
呼吸は荒い。
それでも視線は、次に迫る一体から外れない。
「こっちへ来い! 順番だ。全員……殺してやる!」
鉄パイプの先を、一体ずつへ向ける。
だが、それでも押し寄せる数を捌ききれない。
前の個体を倒している間にその脇を次の個体が抜けていく。
駆ける。
這う。
脚を失い、腕だけで床を進む。
腐った肉が折り重なり、地下通路を埋めていく。
ビッグマザーが両手を掲げた。
信者へ襲いかかろうとした一体が、空中で動きを止める。
その一瞬だった。
別のゾンビが横合いから跳びかかる。
「マザー!」
一ノ瀬さんの声と同時に、白い布が舞った。
ゾンビの爪がベールを引き裂く。
裂けた布が宙へ浮き、血に濡れた床へ落ちた。
白布の下から現れたのは、神の顔ではなかった。
昼間、信者たちへ食事を配り、屈託なく笑っていた女性。
放出伊豆子の顔。
通路の脇で呻いていた枚方さんの動きが止まる。
開いた口から、音が出ない。
見開かれた目が、露わになった顔へ張りついていた。
焦点が合っているのかさえ分からない。
数秒遅れて、喉が震えた。
「……伊……ず……?」
ビッグマザーが、ゆっくりと枚方さんへ顔を向ける。
枚方さんの唇が引き攣り、息が漏れる。
笑いに似た音が、途切れ途切れに喉から零れた。
「は……ははっ……」
驚愕は笑いに変わり、そして──
「裏切り者ォォォ!!」
叫びが地下通路を貫く。
怒声とも悲鳴ともつかない声。
目から涙が溢れ、開いた口から涎が落ちる。
背後でゾンビの呻き声が近づいた。
振り返り、すぐそばにいた信者の肩を掴んでゾンビへ力任せに突き出した。
「なっ──」
短い声のあと、信者の身体へゾンビが食らいつき、その隙に枚方さんは立ち上がった。
倒れた人間を蹴る。
助けを求めて伸ばされた腕を払う。
足を滑らせながら、ごきぶりのように這って階段へ向かっていく。
「終わりだぁっ! 全部! 全部だ! あっは、ははははっ!」
血と汗と吐瀉物にまみれた身体を引きずりながら、地上へ続く階段を駆け上がっていく。
そこには、先ほどまでの怒りも威勢も残っていなかった。
露わになった伊豆子さんの顔で、ビッグマザーはその背を見ていた。
頬を伝う血にも気づいていないように、一度だけ瞬く。
何も言わず、ただ静かに目を伏せた。
その顔には、感情の影すら浮かんでいなかった。




