五十嵐記念病院25
「……本当に大丈夫なんだろうな」
門脇さんが声を潜めた。
「自分に任せろとは言ってたが」
「……信じるしかありません」
地下通路の壁に隠れながら、通路の向こうへ歩いていく伊豆子さんを見送る。
地下に、水滴の落ちる音が響いた。
「お疲れさん」
返事はない。
しかし伊豆子さんは気にした様子もなく、一ノ瀬さんとの距離を詰めていく。
「今日もえらい無口やなー。もうパネルだけ置いといてもバレへんのちゃう?」
一ノ瀬さんは微動だにせず、視線だけが僅かに伊豆子さんへ向いた。
「……やっぱ無理なんじゃねえか?」
耳元で、門脇さんが囁く。
「なあ、一ノ瀬さん」
軽さの消えた声が、地下通路へ落ちた。
「だいぶ前のことやけど、うち一度だけ夜中にあんたが誰かと喋っとったん聞いたことがあるんよ」
その言葉に、一ノ瀬さんの視線が揺れた。
伊豆子さんが僅かに言葉を詰まらせる。
「判断を間違えた、見殺しにした……そう言うとったな」
一ノ瀬さんのまぶたが、微かに動いた。
「……何の話だ」
初めて声が返る。
低く、乾いた声だった。
「さぁな? あんまり立ち聞きするんも悪い思って、その先は聞いてへん」
伊豆子さんは一ノ瀬さんから目を逸らさなかった。
扉の前に沈黙が落ちる。
「今日な、荷解き場で狩猟班が血洗っとったんよ」
伊豆子さんが話を続ける。
「その時、ビッグマザーの奇跡は作られたもんやないかって、一人がぽろっと口にしてん」
一ノ瀬さんの眉が僅かに揺れた。
「誰だ」
「名前は知らん」
間を置かずに答える。
「言うた直後に手ぇが止まってな。周りを見て、すぐ黙り込んどったで」
伊豆子さんの声が低くなる。
「……それを聞いたのはお前だけか」
「近くにおったんは、うちだけや」
「それが嘘ではないと、どう証明する」
曲がり角の陰で、門脇さんの身体が僅かに強張った。
伊豆子さんの表情からも、笑みが消える。
「証明なんかでけへんよ」
「せやから、あんたが自分で確かめたらええ」
湿った空気の中、一ノ瀬さんの呼吸だけが微かに聞こえた。
「狩猟班は、この病院の生命線やろ」
伊豆子さんが一歩だけ近づく。
「そこで疑いが広がったら、最悪、誰かが死ぬかもしれんで」
一ノ瀬さんの右手が、ゆっくりと握られる。
「ここを守るんが、あんたの役目なんは分かっとる」
伊豆子さんは扉へ視線を向けた。
「でも、ここだけ見とる間に、別の場所で何かが壊れてもええん?」
一ノ瀬の視線が一瞬、通路の奥へ流れた、が、すぐに扉へ戻る。
「同じ後悔はしたないやろ」
扉を守るという命令と、狩猟班を確認する責任。
そのどちらを取るべきか、一ノ瀬さん自身が迷っている。
……これが伊豆子さんの狙いか。
「今なら、まだ間に合う」
伊豆子さんの胸元で、祈語器が一度だけ鈍く明滅した。
「隊長のあんたが直接見て、声をかけたって」
音も風も起こらなかった。
ただ、一ノ瀬さんの踵が僅かに扉から離れる。
長い沈黙の後、一ノ瀬さんが目を伏せた。
「……確認する」
身体が扉の正面から外れる。
「案内しろ」
「ええで」
伊豆子さんが短く答え、来た道を引き返す。
僕たちも急いで階段を上がり、近くの影へ身を隠した。
すぐに入り口から出てきた二人分の足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。
隣で門脇さんが、ようやく息を吐いた。
「こっちの心臓がもたねぇな……」




