五十嵐記念病院17
部屋へ戻ると、ドアが指一本分だけ開いていた。
隙間から、押し殺した笑い声が漏れている。
ドアを開けずに中を覗くと、床へ敷いた毛布の上で、深夜とハルエちゃんが枕を抱えて向かい合っていた。
その間に、見覚えのない女の子が一人混ざっている。
三人で輪になり、声が出そうになるたび慌てて口元を押さえていた。
「ただいま」
ドアを開けると、真っ先に顔を上げたのは見知らぬ女の子だった。
「あっ、おかえりなさいっ!」
明るく通る声だった。
年齢は深夜と同じくらいだろうか。
「……ええと、ただいま?」
元気の良い挨拶に面食らっていると、女の子は枕を抱えたまま背筋を伸ばした。
「あたし、ののかって言います。よろしくお願いします! 普段は三階にいるんですけど、ハルエに入れてもらって、こっちの部屋にお邪魔してまーす!」
「どうしてまた?」
ののかちゃんはにやりと笑い、少しだけ声を潜めた。
「ほら、三階って、みんな拝んでばっかりで息が詰まるじゃないですか」
誰かに聞かれていないか確かめるように、ドアの方へ目を向ける。
「あたし、あの空気がどうしても合わなくて。でも、ちゃんと祈らないと、パパもママも『信仰が足りない』って怒るんですよ」
それから両手を胸の前で動かし、荷物を運ぶような仕草をした。
「なので今、お試し転居中です!」
……それは、家出ではないだろうか。
「……依代が戻ったら、もっと喋ってる」
ハルエちゃんが、ののかちゃんを見ながらぽつりとこぼす。
「伊豆子さんも大概だけど、ののかもずっと喋ってるよね」
深夜が続けると、ののかちゃんは頬を膨らませた。
「明るいのはいいことでしょ!」
抱えていた枕で、深夜の肩を軽く叩く。
「二人とは、もう仲良くなったみたいだね」
部屋へ入り、持っていた荷物を壁際へ置いた。
「それでね、さっき僕が水をこぼした時、ののかがすごい勢いで飛んできてさ」
「だって、ハルエがティッシュじゃなくて配給票で拭こうとしてたから!」
「……使ってない紙だったから」
「そういう問題じゃなぁああい!」
深夜が吹き出し、ハルエちゃんの口元もわずかに緩んだ。
押し殺していた笑い声が、すぐにまた部屋へ漏れる。
ここが避難所であることを、少しだけ忘れそうになった。
遠くで、扉が乱暴に開く音がした。
続いて、いくつもの足音が床を叩く。
何人もの人間が廊下を駆け、その中に金属同士が触れ合う乾いた音が混ざっていた。
走り抜けていく人影と一緒に、乾いた泥と冷えた風の臭いが廊下を抜ける。
「……戻ってきた」
「狩猟班だ」
「もう? 早くない?」
声が、扉の向こうで途切れ途切れに重なる。
「……群れが、近いらしい」
誰かがそう言った。
深夜の指が、抱えていた枕の端を強く掴み、ののかちゃんの笑顔が消え喉が小さく上下する。
ハルエちゃんは枕を抱え直し、目だけをドアへ向けていた。
「三人とも、ここにいて」
そう告げて、部屋を出た。
廊下では、階段へ向かいかけた男性が途中で引き返し、別の女性が閉じた病室のドアを何度も叩いていた。
「どうするんだ」
「狩猟班が戻ったなら、外はもう……」
問いかけに答えた声が、別の場所ではさらに悪い噂へ変わっていく。
「皆さん」
混乱の中に一つの声が落ちた。
大きな声ではない。
それでも、広がっていた囁きは次々に止まった。
誰かが先に頭を下げる。
その隣も。
さらにその隣も。
波が伝わるように、人々の姿勢が揃っていく。
廊下の中央に、御子神さんが立っていた。
「狩猟班が、外の状況を確認しています」
静かな声だった。
「憶測で動けば、必要のない混乱を招きます。今はそれぞれの持ち場へ戻ってください」
御子神さんが胸元へ手を重ねると、周囲の視線が一斉にそこへ集まった。
「今夜、ビッグマザーへ祈りを捧げます」
一呼吸置く。
「どのような時も、私たちには祈りがあります」
その言葉が落ちると、立ち尽くしていた人々は、一人ずつ病室や持ち場へ戻り始めた。
誰も安心した顔はしていない。
それでも、先ほどまで廊下を満たしていた無秩序な声だけは消えていた。




