五十嵐記念病院14.5
礼拝を終え、203号室へ戻る途中だった。
「……ちょっとええか」
背後から声をかけられ、振り返ると伊豆子さんが立っていた。
ナースステーションへ一度だけ目をやり、人影が途切れるのを待ってから深夜へ顎をしゃくる。
「依代に話があるんや。もう遅いし、深夜は先に部屋で休んどき」
「え……うん。じゃあ、部屋で待ってるね」
深夜は不思議そうに僕を見たが、すぐに頷いて目の前の203号室へ入っていった。
それを見届けてから、伊豆子さんは声を落とした。
「静かなとこ行こか。なんて……ラブホ誘っとるみたいやな」
伊豆子さんは、ははっと笑い、そのまま僕に背を向けた。
僕は黙って先を歩く伊豆子さんを追った。
階段を上がるにつれ、鼻に残っていた消毒液の臭いが薄くなっていく。
屋上へ続く扉の前で、伊豆子さんが足を止めた。
気配を探り、誰もいないと確かめてから扉を静かに押し開く。
冷たい夜風が、階段に淀んでいた空気を押し戻した。
風が途切れると、遠くからゾンビの濁った声が聞こえた。
「昼間、あんたらが病院に滑り込んできた時のことや」
伊豆子さんは暗い街を見下ろしたまま口を開く。
「あんた、ゾンビに何かぶっかけて溶かしとったよな」
視線だけがこちらへ流れた。
「あれ、聖水やろ?」
無意識に、指輪を嵌めた指が動く。
そのわずかな動きを、伊豆子さんの目が追った。
「一つ目は指輪か。忌まわしいもん選んだな」
口元がわずかに歪み、彼女は身体ごとこちらへ向き直った。
「あんた、異世界帰りやろ」
「……そうだとしたら?」
伊豆子さんはしばらく僕の顔を眺めたあと、唇の端を上げた。
「安心せぇ。ウチもや」
指輪に触れていた指が止まった。
「病院ん中は、どこに誰の目ぇがあるか分からへんからな」
「ビッグマザーの奇跡でまとまっとる場所で、同じような現象を起こせる人間が他にもおるなんて知られたら、ややこしいことにしかならへん」
にやりと口角を上げる。
「あんたもそれが分かっとったから、誰にも言うてへんのやろ?」
否定はしなかった。
同時に、一つの疑問が浮かぶ。
「それが分かっていて、どうして僕には話したんです?」
伊豆子さんは短く息を吐いた。
「あんたに、この病院へ残ってほしいからや」
「……僕に?」
「ここには、子どもがおる」
風が白衣の裾を揺らした。
「置いてかれた子も、親がおらん子も、怖くても声すら上げられへん子もな」
伊豆子さんは一度、病院の建物を振り返る。
暗い窓が、いくつも並んでいた。
「ここに辿り着けたからいうて、もう安心とは限らへん。大人かて、自分らが生きるだけで精一杯なんや。誰にも気づかれんまま、一人で色んな思いを抱え込んどる子もおる」
視線が僕へ戻る。
「ウチ一人じゃ、あの子ら全員は守りきれへん」
一言ずつ、確かめるように続けた。
「せやから、あんたにも一緒に守ってほしいんや」
「……僕が戦えるからですか?」
「ちゃうよ」
伊豆子さんは迷わず答えた。
「ウチが残ってほしいんは、強い人間やない」
真っ直ぐに僕を見る。
「深夜みたいな子を、見捨てへん人間や」
「昼間、あの子が動けんくなった時、あんたは置いていかんかった」
「あの状況で放っておけば、死んでいました」
「それは置いていったらどうなるかの説明や。置いていかんかった理由にはなってへん」
言葉が止まる。
「……同じことでは?」
「ちゃうよ」
伊豆子さんの声から笑いが消えた。
「見捨てる方にも理由はつけられる。足手まといを抱えたら二人とも死ぬ。昨日今日会った子のために、命を張る義理もない」
「せやのに、あんたは助ける方の理屈ばっかり選んどる」
冷たい風が、僕たちの間を抜けた。
「あんたは理屈で人を切っとるんやない」
一拍。
「人を切らんために、理屈を使っとるんや」
反論は浮かばなかった。
「……買いかぶりです」
「礼拝ん時、あの子、怖なったら真っ先にあんたの顔を見とったやろ」
「僕の判断を確認していただけですよ」
「それを信頼言うんや」
深夜の指が袖を掴んでいた感触が残っている。
「それとな」
伊豆子さんの視線が戻ってくる。
「子ども連れとるからいうて、あんたまで大人になったわけちゃう」
「……少なくとも深夜より大人です」
「年上なだけや」
「十八歳は、子どもと言い切れる年齢でもないでしょう」
「大人とも言い切れへんやろ」
伊豆子さんは風に煽られた襟元を押さえた。
「あんた、自分だけは守られる側に数えへんやん」
「別になんの問題もありません」
「あるよ。ウチから見たら、あんたも守られるべき子どもや」
伊豆子さんは僕の沈黙を追及せず、手すりへ視線を落とした。
「……逆に深夜は、必死に大人になろうとしとる」
声が少し掠れる。
「怖くても、自分がしっかりせな、自分も役に立たなあかんって、必死で前へ出ようとしとる」
喉で言葉が一度つかえた。
「なんで、あんな小さい子が背負わなあかんねん」
手すりを握る指が白くなる。
「まだ甘えてええ年やろ」
一瞬だけ上ずった声を、伊豆子さんはすぐに押し殺した。
唇を結び、鼻から短く息を吸い直す。
「……そういう子に、もう一人で背負わせたない」
その一言だけが、風に流されず残った。
「だから頼む」
伊豆子さんが顔を上げる。
「ウチと一緒に、この病院で子どもらを守ってくれへんか」
まっすぐに見つめられ、返事を探す代わりに視線を手すりへ落とした。
「……だから、異世界帰りだと話したんですか」
「……せや。ただ残ってくれ言うても信用されへんやろ」
伊豆子さんは、それ以上答えを迫らなかった。
「今すぐ決めんでええよ。深夜のおかんのこともあるし、ゆっくり考えてみて」
そこで一度、柔らかく目を細める。
そして、ようやく少しだけ笑った。
「せや、ウチからの信頼の証に、ウチの手札も見せとくわ」
「手札?」
「エゴや」
伊豆子さんは少しだけ胸を張った。
「名前は灯し言。かっこええやろ?」
「……ひとおし? どんな能力なんです?」
「あとちょっと力や勇気が必要な時、その最後の一押しをしてくれるんや」
伊豆子さんは、自分の拳を軽く握った。
「補助系ということですか?」
「まあ、そんな感じや。ウチ、向こうでは運搬の仕事しとったんやけど、けっこう重宝されとったんやで」
昔を懐かしむような、柔らかな笑顔だった。
「せっかくやし、ちょっとだけ体験させたろか。ほら、あそこに消火器あるやろ。持ち上げてみ」
伊豆子さんが、屋上の隅に置かれた消火器を顎で示す。
言われるままに近づき、取っ手へ手を掛けた。
持ち上げると、鉄の重さが腕へ乗る。
その瞬間、手に掛かる重さが半分ほど抜け落ちた。
単に力が増したというより、何か見えないものが消火器の底を支えているような感触だった。
「……あれ?」
「な? ちょっと楽やろ?」
伊豆子さんが、にかっと笑う。
「目には見えへん。でも、ちゃんとそこにあるんよ。ウチの手助け」
両手を腰へ当てる。
「まあ、ほんまに補助程度やけどな」
不思議な感触を味わいながら消火器を元の場所へ戻す。
「それから、もう一つ」
伊豆子さんは白衣の懐へ手を入れ、小さな包みを取り出した。
中から現れたのは、古びたマイクに似た器具だった。
光沢を抑えた黒曜石のような胴へ、鈍い銀色の細工が絡みつくように施されている。
表面には、見慣れない細かな文字が刻まれていた。
「これ、祈語器いうねん」
伊豆子さんは、古い友人でも紹介するような調子で言った。
「何に使うんです?」
「簡単に言うたら、精神安定剤みたいなもんやな」
さらりと言った声には、冗談めいた軽さが混じっていた。
「精神安定剤にしては、随分マイクに似ていますね」
「声に出して使う道具やからな」
伊豆子さんは祈語器の先端を、指で軽く叩く。
「呼吸を整えて、自分の声を自分で聞く。そうすると、頭ん中が少し静かになるんよ」
「ほら、エゴって精神に引っ張られるやろ」
祈語器を掌の中で転がす。
「心が乱れると、発動できへんかったり、力がぶれたりするやん」
ゾンビを前に、能力を使えなかった深夜の姿が浮かぶ。
「エゴの発動を補助する道具ということですか」
「そ」
伊豆子さんは祈語器を握り直した。
「実はな、ウチ、昔からちょっと精神的に不安定なところがあって、薬飲んどった時期もあんねん」
意外やろ、と笑う。
「でも今は、これがあるからだいぶ楽になった。エゴを使う時だけやなくて、不安になった時に心を落ち着かせてくれる」
祈語器を撫でる指は、ひどく丁寧だった。
「お守りみたいなもんやな」
僕は指輪へ触れながら、小さく頷いた。
特典を二つとも明かすというのは、帰還者にとって手の内を晒す行為だ。
少なくとも、軽い意味で見せた物ではないのだろう。
「さて、ウチから話せるんはこれで全部や」
伊豆子さんは祈語器を懐へ戻した。
そこで、悪戯っぽく目を細める。
「でも、こんだけ喋ったんやし、せめてあんたのエゴくらいは聞かせてもらえると嬉しいねんけどな」
やはり、ただの告白ではなかったらしい。
「……いいですけど、あまり面白い能力じゃないですよ」
「ええよ、そんなん。ちょっとくらい変な名前でも馬鹿にしたりせえへんって」
「名前が変なのは確定してるみたいじゃないですか」
「なんや。自覚あるんか?」
伊豆子さんが、楽しそうに口元を歪める。
「馬鹿にしたら白衣の中に取れたてのナメクジを入れます」
「わかっとったけど、あんた陰湿やな」
にやついた顔で先を促され、なんとなく異世界で初めてエゴサーチを使った時のことを思い出した。




